(三十四) 義経腰越状 三段目切 泉三郎館の段

 此外題は宝暦四年戌の七月(大正十五年を距る百七十三年前)豊竹座に上場したものらしいが、作者が誰やら、役場の太夫が誰やら分らぬのである。其後十六年目の明和七年寅の正月に大阪堀江市の側の芝居にて、豊竹応律が四段目を一段書足して上場し、此三段目は豊竹此太夫が語つたと聞いて居るが、夫も慥かとは云へぬのである。只だ宝暦の書下しの時、東の元祖越前少掾が語つたと云ふ説もあるが、此説は今残つて居る語り風に照らして研究して見ると、何でも越前風に相違ないと思ふ。故に、庵主は之を越前風として書くが、夫なら決して間違つた節には堕落せぬと思ふからである。
 此段は一時世間に大分流行したものであるが、之を教へる師匠が、斯る貴き音遣ひを弁へずに、出たら目に教へ散したから、誠に聞いて居ても、嫌厭な物となつて仕舞つて居るが、庵主の耳に止つて居るのは、東京に於て故綾瀬太夫の此段は、誠に襟を正して聞いたのである。勿論三味線は団八であつて、良くは弾いて居たが、間に位がなくて、申さば貧弱の方であつたが、太夫としては、此以上は無いと思つた。文楽でも彦六でも、聞く事は聞いたやうであるが、皆語つた丈けで、此段らしき品位は、ドウ熱心に聞いても、認められなかつたやうである。夫が皆『酒と云ふ』の「地色」から、モウ心得が間違つて居るから駄目である。『世のくせ物に』と云ふ「ギン」の音も、只の「ギン」では駄目である。皆腹で、浮いた「ギン」でなければ物にならぬのである。夫でないと『うかされて』が云へぬ事になると云ふ理窟が分らぬのである。ソコで『軍師も今は』に力が入れられて、『塵埃』が、「塵埃」に語られる事になるのである。夫で『箒の先に二升樽』も云へる事になつて『くゝり付』の「色」も面白くなるのである。夫から幾人の太夫の語るのを聞いても、『エイ/\/\/\』が皆行儀好き「定間」になつて居る。夫では此段を語る事が分つて居らぬのである。此『エイ/\/\/\』は前から語り込みの腹構への足取りで、足の踏途もシドロに乱れて居らねばならぬ。其乱れて居るのが腹の修業で、極つて居らねばならぬ。ソコデ『何でもせい』と云ふ「色」が、義太夫節千番の中に、 一つも類のない「色」となるのである。総て「色」と「地色」と「詞ノリ」「中ノリ」「大ノリ」とが、腹の中に噛み分けが付いて、人間並に語れぬ太夫は、コンナ物をドウ甘く語つても、語れては居らぬのである。夫が語れねば、給金ばかり高く取つて、人気ばかり湧立つやうに好くても、義太夫節の神様に対しては、大罪人である。ソンナ、ちやんちやら可笑しい、手薄い事で、此芸は組立てられた物ではないのである。多くの人が知らぬと云ふのに付込んで、好加減な事ばかりを云つて、大金を貧り恥かしい事も知らぬ者は、詐偽取財じやと云はれても、何と云訳があるであらうか。庵主はタツタ一度、東京で大隅太夫に此段を聞かせて貰ふ時、彼曰く、
「私は形丈けはお聞かせ申ますが、此段は私も知りませぬから、其積りで聞いておくんなはれや」
と云つて聞かせてくれたが、其面白さは何とも云はれぬ、底意地の悪るい恐ろしい心地がした。跡で庵主は、
「実に有難う。何とも云はれぬ、尊い意味合の、五斗を聞かせて貰つた。僕が語る事は、一生出来ぬと思ふが、お前の教訓丈けは、生きて居る中は決して忘れぬ。私は此段は、我々の非力で歯の立つ物ではないと思つて、常に綾瀬太夫の語るのを、熱心に聞いて居たが、今日お前の語るのを聞いて、我々の聞いて居たのに、自信が付いて実に有難かつた」
と云つたら、大隅はポンと膝を叩いて、
「違いない、アンタは豪い、綾瀬はんは確かに此段を覚へて居やはります。私が今お聞かせ申たのが、綾瀬はんの語りやはるのと違ふた所がおましても、決して変へなはんなや、私はシツカリ覚ヘて居ませぬ、アノ方は此段をシツカリ覚へて居やはります事を、私は知つて居り升、アンタは実に豪い。私に語らせて聞く前に、夫れ丈け聞いて置いて、私に語らせやはるのやさかい、本当にお稽古の仕甲斐があり升、弟子共が皆、アンタのやうに心掛けて呉れますと、嬉ふおますが、中々ソウ行まへんでなア」
と云つた。其跡で側に聞いて居た五代目仲助が、
「私は小供の時から大隅さんは、全く芸の神様じやと思ふて居ました、夫は金太郎を尽して叱りやはるのが、皆一言も云へぬ事ばかり云やはるから、ソウ思ふて居りましたが、今日と云ふ今日は真底から芸の神様じやと思ひました、夫は綾瀬はんがアレ程覚へて、一本で語つて居やはる、宗玄庵室を、アレはな、コヽをコウ突張つた詞遣ひでなければ、宗玄にはならぬ、モウ年を取りやはったから、夫を云やはらぬけど、おまはん達は、夫を知つて居るがよいぞへと、教へてくりやはりました、夫に今日、五斗のお稽古になつたら、ガラリ自分の金太郎を捨てゝ、私は覚へて居まへん、形丈けを聞かせます、綾瀬はんはシツカリ、五斗を覚て居やはり升、私のを捨てゝ、綾瀬はんのを覚へなはれと云やはりました、此は本当に芸の神様でなければ、云はれぬ事でござい升、私は今考へて見ても、大隅はんは、底の知れぬ恐ろしい芸人でござい升、私共を虫螻のやうに云うて、叱りやはつた大隅はんが、其私を前に置いてアレ丈け卑下したお稽古は出来ぬ事でおますせ」
と云つて嘆息した。庵主も共に嘆息して斯く云つた、
「お前がそう思ふは尤もじや、俺は昔から、大隅は人間ではないと云つて居た、夫はアノ男の不断の行ひは、全く人間離れした程非常識である、又芸道の事になつては、全く人間離れのした程、尊い事斗りであると思つて居る、夫は俺は(*俺は彼が)二十二三歳から、身を傾けて贔屓にして可愛がつた、三代目越路太夫に常に云つて居た、芸と云ふ物は何でも聞いて、恐ろしい感じが起らねば、芸ではない、夫は修業である。大隅太夫は芝居で語る出物を、ドレ程覚へて居る物でも、毎日稽古に行く、師匠団平を家に送り届けて帰つて来て、晩酌一杯を飲み、グツト寝込む、午前一時頃から起上つて夜明頃まで本読みをする、夫から又グツト寝込む、朝八時頃起きて飯を喰つて、本を抱へて稽古に出掛ける、夫を女房が衣物の袖を捕えて……「師匠‥お前さんは、毎日/\稽古/\/\と云うて、お座敷が云ふて来ても、断り斗り云うて出て行なさるが、今日と云ふ今日は、小供も妾も喰べる米がおまへん、モウ米屋は借り斗りで、持つて来て呉れませぬ、ドウにかして貰はねば、留守して居られません」と云つて放さぬのである。大隅は「ムウ…………難儀やナア………」と引かれながら、ポンと羽織の紐を引解いて、「此でドウなと仕とけ」と云つて稽古に出て行つた男である。夫程の稽古をしてこそ、アノ様に、面白くない、ソツけない、クシヤ/\/\/\、云ふ芸が出来て、前受けが悪るくて、給金の取れぬ、金儲けの出来ぬ、一生貧乏して、乞食のやうにして暮さねばならぬ、芸人が出来たのである。夫にお前はドンナ修業をしたのか、人気が割れ返るやうにあつて、浄瑠璃は何を語つても皆喜んで聞いてくれる、給金は大隅の幾倍を取つて居るが、夫でお前は三十日の芝居の役前に、何処に行つてドンナ稽古をして居るか、ドンナ所にスツ込んで居るか、其天罰で、聞いて居れば面白い斗りで、恐ろしい所は只の一つもないではないか、鍛練さへすれば誰でも真似が出来る事を云つて居るとは思はぬか、大隅の芸は、毎日/\/\、聞けば聞く程恐ろしくなつて来て、トウ/\仕舞いには、義太夫節も、斯ふ語らねばならぬことに極れば、先づ止めて仕舞つた方が、上分別じやと思ふやうに、恐気が立つて来るのである、夫は修業である。綾瀬太夫でも昔日の財産で三十万円の身代を語り潰したと云ふ芸である。よい物斗りもないが、慥に芸に手ごたへと、行く所に当りが付いて居る、老年に及んでは三味線弾も塩梅よく弾いてもくれぬので、長くなつたり、口捌きもボト/\/\はして居るが、修業は又別に恐ろしい物があるのである、当時の芸人として、綾瀬の五斗位は隙を欠いても一度位聞いて置いたらドウじやと思つて居た、自分の人気の天狗で、トンと聞外して居るのではないか、と云つた事がある。仲助よお前も芸人である、大隅の豪い事斗りを知つて、大掾のアノ難声で力斗りで芸を仕て居る事が分つて居るか、ナゼ魂を入れて人の芸を聞かぬのじや。モ一つ咄がある。先年東京の朝太夫と松太郎が大阪に往て芸を仕たそふで、大阪での評判が非常に悪るい(**。)其後俺が大阪に行つて、故名庭絃阿弥と対座して居る側に、或る一廉の太夫が来て、此両人の批評を初めた。「朝はんと松太郎はんが大阪に来て、当り前の芸をして呉りやはつたら、大阪の芸人共も、性根がついて結構で厶りましたらうに、残念な事で厶りました」と云ふから、余りの事に俺は聞くに忍びず「コラ/\ドンナ芸をアノ両人が仕ても、貴様達は夫を批評する資格はないぞ、只だアレが好いとか悪るいとか、批評する資格は、芸人でない俺丈けであると思ふ、ナゼなれば、アノ両人は、東京と云ふ所を馬鹿にして、生活が仕たい、/\/\/\、と云ふ声を出して、生活が仕たい、/\/\/\と云ふ絃の音をさせて居る丈けである、当り前の芸を知らぬので、今のやうな芸を仕て居るのとは違ふぞ、松太郎が三十台で、彦六座で仕て居た芸も、朝太夫が語つて居た芸も、俺は聞いて居る、斯道一通りに於ては、当代の森口源左右衛門(*森口源太左衛門)である、若し彼等両人が、昔から鍛ひ上げた当り前の芸を仕て居たら、お前達は、月夜の提灯で、有るか、ないか、分らぬのである、お前達からは、朝太夫様、松太郎様である。アナタ方が昔と違ふ芸を仕て下さる、お蔭で、私共が斯ふして生きて居られるので厶り升と、ナゼ蔭膳を据へてお礼を云はぬのじや、満足な事も云へぬなりで、アノ離れ態(*業)をして居る芸の批評が出来るか、コウ云はれるのが腹が立つなら、今日から東京に来て、朝太夫、松太郎のする通りに、詞を捨てゝ語らず、「色」を語らず、表の一本でも二本でも、松太郎の弾次第に、ザーアーツと「ケ」「ヱ」「サ」の譜から投げ出すやうに出て、一段の芸を仕て見よ、夫でアレ丈けの金を取る事が出来るか、アノ両人は、お前等の思つて居るやうな芸を、知らぬのでない、知つての上のホタヘである、ホタヘで金を取る丈けの力が芸にあるのである。夫を嘘と思ふなら、松太郎に付いて何でも稽古をして見よ(**、)何でも知つて居る、お前等は皆落第生斗りである。俺は昔から、松太郎の芸も知つて居る、朝太夫は此に居る此広助が弾いて東京へ来て、其時からも聞いて居る、只だ今彼等が仕て居る、芸の真似をせよとは云はぬが、彼等は他に目的があつて仕て居る芸を、善だの悪だのと批評をする事丈けは、お前達には、芸道の為めに許さぬのである、只だ俺は、アノ両人が、自己に忠実にして芸道に忠実でない事を悲む丈けである」
と云つて、訓戒した事があるのである。総て芸道は一筋の物でないから、聞くにも語るにも修業の力丈けより外、動かぬ物であるから、此五斗の如き品物は、現在では、今ドンナわかつた(*かわつた)芸を仕て居ても、松太郎にでも尋ねば、他に一人も其云ひ得られぬ風を、覚へて居る者はないと思はるゝのである。
 此段は元来が文章も余り上等でなく、作も無理な所が多くて、困る事が多いが、其譜節と、語り明す意味の崇高な事は、庵主等の拙き筆などでは、到底書尽される物ではないと思ふのである。古人曰く「ドンナ六ケ敷段でも、熱心に六十度読めば、自然と語る道が分つて来る」と、先づ此言を何よりの金言と思つて、誰人も怠らずに、修業するが一番好い事であると、大声疾呼して置くのである。