(三十三) 傾城反魂香吃又平 将監住家の段

 此段は、宝暦二年申三月(大正十五年を距る百七十五年前)竹本座にて開演し、作者は吉田冠子外二人で、此時は竹本政太夫の役場と思ふ。河内地、大和地等の風にて摺み、実に斯芸中の難物である。其後竹本染太夫も語つて、又其風が加はりて、修業に又一種の困難を覚えて来たのである。往昔は段々名人もあつて、此段に精魂を抽んでゝ、修業を仕た人も沢山あつたが、庵主は、故竹本大隅太夫の演奏を、尤も意義ある物として、打返し研鑽を試みたのである。其他の大夫衆の語り方は、実に沙汰の限りの乱暴狼籍にて、筋を素読するのが、不思議に三味線に合ふ位のものである。 一例を挙ぐれば、大隅が団平に稽古をして貰ふ時に、『爰に土佐の末弟』と語り出すに、『末弟』の、『イ」と云ふ産字が、息に力なき為めに、幾度云つても、団平師が「トン」と打つ事が出来ぬ、ソコで朝から晩まで「爰に土佐の末弟』斗り云はされて、団平師は三味線を構へた斗りで、とう/\「トン」を一度も打ち得ずして、稽古を終つた事が、幾度あつたか分らぬのである。団平曰く、
「私も、色々の太夫衆を弾いて来て、コレ程三味線が、下手なとも思はなかったが、大隅よ、お前の語るのを弾くと、ドウも下手になつたやうな気がして、ドウしても打たれぬ、コウなると私も自分の芸の事も、考へて見ねばならぬ事になつて来た、私の弾かせて貫ふた太夫衆は皆な下手で私位の者でも弾けたが、お前が天性芸が上手なので、私が斯まで弾けぬのではないかとも思つて今思案をして居る処じや」
と云はれた時は、大隅は師匠の家の雪隠の処の、廊下の板張りに身を打伏して、目も血走つた儘、泣伏して居たとの事である。斯る修業をした大隅故、彼が如何斗り天性愚なる男にしても、其語る事が『爰に土佐の未弟』一句の上に、サラツとして、天地を提げた気合が見へるのである。団平死後は、故清六、其時の叶が之を弾く時は、又之と反対にて、大隅が『爰に土佐の末弟』と語ると、清六が「トン」と打つと、サア大隅は、咽に挙を突込まれたやうな気がして、息の根が止まつて、ドウしても『浮世又平重起と云ふ絵書あり』と「コハリ」より「ハナシ」た音に漂つて、収められぬ。大隅曰く「叶は若手では、一番良く弾ので厶リ升が、 コチが片輪の精か、ドウしても云はれませぬ、叶も又私の昔の通り、目も血走つて弾いて居り升、私も何でも語らねば、商売が出来ぬと思ふて、熱心に、幾度も/\遣つて見升が、ドウしても当分、甘く行きさうにも厶りませぬ、今度文楽で語り升のも、お耳ダルウは厶りませうが、そう云ふ訳で厶り升から、当分御不承を願升」
と云つた事がある。庵主は其時、文楽にも聴に行つたが、イヤ面白かった/\/\と云つたら、今に其語り口を忘れ得ぬのである。叶は枕から責立られて、御注進の引込になつて「テヽデン、/\、/\」と云ふ、清六、十八番の腕の冴えは何処へやら、圧搾に掛つた煎餅のやうになつて仕舞つた事が、今尚ほ耳底に新たなるのである。夫を辛抱して、恐ろしい此の太夫を、清六が十年間弾いたればこそ、彼の清六が産れて、アノ力が漂つて居るのである。此段の困難な事は、ザッと先コンナ物である。
 先づ枕が済んでも『筆の軸さへ』から『殊勝なる』までは、ズーッと河内地ではあるが、有ふれた風とは違つて、ヒツ立てた足取で語らねばならぬ。夫から『さヽへでも致しまして』から『御世にお出なされませ』の色止めまでも、同じ事で足が六かしい。夫から『私のしゃべりと入「チン/\」合せたら』から『おはもじやと笑ひける』までが、所謂染太夫風で、大掾が常に云つてゐた「ヨドマズ流れず「ギン」の音を柔かに遣ふ」と云ふのが染太夫風である。「ヨドム」所は間で流し、「流れる」所は息で「ヨドマ」するのである。夫は百千度の鍛練が物を云つて、語つて居るのである。夫を大隅が語る当時、文楽の見物も、太夫衆も、前受けが悪るい、面白くないと云つて、聴いて居る者が無かつたやうに見へた。其天罰でトウ/\今日一人も、吃又の語れる人が無いやうになったのである。其後誰が詰つた時か、『幸/\盃も戴いてあやかりやヤイのと有ければ』が詞風に聞へたのに、三味線の方は矢張り弾いて居た。其時斗りは、庵主思はず、口に頬張つて居た、弁当の飯を噴出したのである。大和地の語れぬ太夫は、決して吃又は語らぬがよいのである。