(三十二) 一の谷嫩軍記 三段目切 熊谷陣屋の段

 此外題は宝暦元年未十二月(大正十五年を距る百七十六年前)豊竹座にて上場、此場は豊竹筑前掾が語つたと聞く。此人は前名、合羽太夫(*合羽伊太夫)、美濃太夫、また此太夫といふ。作者は浅田一鳥、並木宗輔外三人なり。東物にして筑前場として尤も難物である。
 此狂言は並木宗輔存生中三段目迄作り置きし遺稿を、一鳥や鯨児や並木正三、難波三蔵、豊竹甚六等にて、作足したるものとの事である。此時出座したる芸人は、即ち八重太夫(時太夫と改め)、筑前掾、駒太夫、阿曾太夫、友太夫、若太夫、鐘太夫、信濃太夫等にて大入をなせりと。
 庵主が此浄瑠璃を聴く事、若年の時、竹本越路太夫(摂津大掾)を神戸にて、竹本生駒太夫(*豊竹生駒太夫)を東京にて、竹本大隅太夫と竹本越路太夫(三代目)を大阪にて、都合四人の太夫の語るのを聴きたるに、其語る所の巧拙は別として、未だ一も会心の域に至るを覚へぬ。其主意は何れの太夫の語り方も、熊谷次郎直実が、源平時代の豪雄として勇気一遍の人と聞こへたるのみにて、作者深意の潜む熊谷といふ、大なる問題を会得したるものを聞かぬ。庵主の考へは之と異なり、熊谷は素より武辺一途の人なれども、頗る人情に脆き性質の人にて、其旧恩あり、且つ院の御胤たる敦盛を助くるに、満身の情義を有したる所に、主君義経より、制札の風刺を以て、一子を身代りとなすべぐ、命ぜられたる事さへあるにより、意を決して一子小次郎を以て、身代りとなす事を実行はしたものヽ、父子恩愛の至情は、極度に刺戟して、終に菩提心を起すに至つた。即ち武辺義勇の動作、最終の判決は遂に我子を殺戮するの悲惨事に至るに依て、端なく厭世の心を起し、仏参の帰途幾多の無常を感得し、我陣屋に帰れば、国に残せし妻相模の来れるに会した、彼れ熊谷の心理状態は、極度の撹乱を来した。即ち「武士たるものが、主命と旧恩の為めに、合意の上、其子を殺したる事は、一方より云へば武士の本分である」故に妻に向つても、「武士道の為め伜を殺したから、左様心得よ」と一言すれば何事もなきに、之を明言したらば定めて妻が悲歎することを思ひ遣り、夫さへ明言し得ぬ程の弱虫である。其上奥には梶原が来て居る事も聞き居る故、夫れにも気兼しつゝある。要するに熊谷の心理と演者の心理とは、頗る応接多忙の結果、此熊谷にて満場を泣かせるやうに書いたるものである。此根本的条件のもとに、其容貌や豪壮、言語や勇魁なるも、精神は飽迄も多情多涙の人格に語らねばならぬと思ふ。此腹芸が困難なる故に、之を三段目として、夫れ相当の太夫に語らせるの必要がある、若し此段を受取りたる太夫にして、此腹芸を解せざる時は、只だ節を付けて素読する、曠職の太夫である。庵主が此段を研鑚して初演せしは、去る明治三十七年二月七日、即ち日露大戦開始の当日、墨堤の僑居、其日庵にてゞあつた、総て一時間と八分にて語り終りたるも、何分初めての事にて、絃師鶴沢仲助とも、息の馴染薄く、至極の困難をなした。爾後殆んど十年(*廿年)余閑を偸んで研磨を加ふるも、一回として其意気を発揮する能はざるを誠に遺憾とするのである。元来筑前風とは、ギンの音遣ひが六ヶ敷、殊に「ハリキリ」と「ハルギン」の音遣ひが尤も鍛練せねば駄目である。庵主が之を試演する事既に九回、猶其作の梗概をも譚明し得ざるは其深奥殆ど量り知り難きを覚ゆるのである。