此段は宝暦元年未十二月(大正十五年を距る百七十六年前)豊竹座にて開演した物で、役場は豊竹島太夫であると思ふ。即ち二代目若太夫とて、所謂スワ町(*周防町)平右衛門と云つて、越前掾の孫で大達者の太夫である。此人は越前掾の高弟豊竹筑前掾と始終提携して、大役を勤めた人であつて、即ち菅原伝授を語る時には、此人は四段目の切寺子屋首実検の段を語り、又引下げ役としては、嵯峨の奥を引受けて居る。又筑前掾は自から座頭で居ながら、大序を語り、夫から三段目、即ち茶筌酒から、喧嘩場から、訴訟、桜丸腹切までを引くるめて語つて居る。夫から此嫩軍記の時は、筑前掾が三段目の熊谷陣屋を語つて、島太夫は此組打の場を語つて居る。其組打が古今未曾有に良かつたと云ふので、幾百年後の今日まで、斯く持て囃されて居るのである。此場は立端場の役らしくは成つて居れ共二段目である、何ぜう四段目太夫の大達物の語つた場故、当今語るやうに、只の端場に斗り語つてはならぬ物である。此場の語り方で、三段目の熊谷陣屋は喰はれて仕舞ふのである。
此場の熊谷で聴衆が、シツポリ泣かされては、三段目の熊谷では泣けぬ事になるからである。後世の太夫としては人形を語る時は、前の謡から玉織姫と平山の武者所を語り、素浄瑠璃としては『延玉ふ』を三重にして、夫から語る事にしてある。
作者は並木宗輔である。此場を宗輔が書くには、親敷自から須磨の浜辺に往つて、一夜を漁師小屋に明して、其浦曲の景色を見て居たのを、夫を漁師共が網盗捧と間違て、大勢寄つて打叩いたとの事である。実に一の谷中の名文である。『無官の太夫敦盛は』と語り出す時「テン、テン、/\」と弾く三味が、段中の一番六ケ敷処にて、故団平は一生中に一度も満足に弾なかつたと云つた位である。夫は自分が作者の気になり、須磨の浦を目の前に見て居る心で弾かねば、其「テン、/\、/\」が須磨の浦曲の穏かな浜に打寄する、男浪女浪の音にならぬのである。故に「テン、/\、/\」も一度は強く一度は弱く撥が冴ねばならぬのである。『無官の太夫』と「地ハル」の「中」、「無官」を「ハツテ」『太夫』は低く、『敦盛』は又高いのである。夫で三味の意味と一致するのである。今では女義の口語りの通りに、男太夫でも語つて居るのである。其品合は一廉の修業をせねば歯も立たぬものである。敦盛の詞の中に『去ながら忘れ難きは父母の御恩、我討れしと聞玉はゞ、嘸御嘆き思ひ遣る、切めて心を慰む為め、討れし迹にて我死骸,必す父母に送り玉はれかし』は(板本に『必ず父に』とあれど、此は『父母』と直す事)の一節は、端場たる事を忘れて、満心の魂を入れて語る所である。此敦盛が小次郎であるから、其詞の意味が聴衆に徹底すれば、其人が鬼でない限りは、屹度泣くのである。夫から熊谷の詞に『倅小次郎直家と申者』の一句は、今日本で此詞を云ひ得る太夫はあるまいと思ふ。此一節が此段の眼目である。此詞の語り方で、聴衆が顔を上げ得ぬまで、泣くと、泣かぬの別目で、其腹加減と、太夫の力の分る処である。夫から『熊谷は惘然と』の一句は、何とも云ひ得られぬ大事の一句である。熊谷蓮生坊が、此二人の死様を見て、深く無常を感じ、転た厭世の仏心を起したる萌芽の一句である。斯る文句は口で何と云つても駄目で、真に其境遇に同化して仕舞ふ丈けの芸力がなければ、成し得られざる一大事である。此以下は全く切り太夫の語る腹構へにて精神を絞りて語らねばならぬのである。