(三十) 恋女房染分手綱 十段目切 三吉愁嘆の段

 此外題は寛延四年未四月(大正十五年を距る百七十六年前)竹本座に上場した筈である。作者は、三好松洛、吉田冠子との事である。役場は、竹本大隅の掾、即ち大和の掾であるとの事。此人は斯道節語りの元祖とも云ふべき大家であつて、元祖竹本義太夫の弟、内匠理太夫の伜、俗称近江屋三右衛門と云ふ人で、始め三輪太夫と云ひ、次は内匠太夫と云ひ、更らに大隅の少掾と云ひ、終に大和の少掾藤原宗貫と任官して、老後に有隣軒と号し、明和三年戌十一月八日、六十五歳にて歿したのである。辞世に、
折るゝとも響きは残れ雪の竹
と読んだが、面影に花の姿を先立てゝ、語り残した音曲の、音色は絶えず幾度か、染め変はれども呉れ竹の、葉色は同じ竹本の、操の節を伝へ来て、百六十一年後の今日まで、鄙に都に充ち/\て詞の花と唱ふのは、全く此大和の少掾の努力が、多きに在ると思ふのである。
 明治二十五年の春、摂津大掾が、大阪御霊文楽座で語つた時、染み/\と之を聞いて、これまで段々咄も聞いたが、第一「音」の就き離れから「ノリ」の運び方と「スネ方」が、一鎖り/\に六ヶ敷、斯芸中の尤も面白き物、又面倒な物として聞いたのである。夫から明治三十二年の春(七年後)、又大掾の此段を聞いたが、大分前に聞いた時と相違の所もあり、我々が折角永年研究して居たのが、無駄になつたやうな感がしたので、宿に呼んで親敷質問をして見たれば、彼曰く、
「御尤で厶い升、先年お稽古を致しまして後、耳の病気を致しまして誠に難儀致して居ります所へ、此正月から三味線が吉兵衛になりましたので、音の就き離れに、中々不自由致し升、松葉屋は総て大分呑込んで居て呉れまして、共々に少々の離れた事も出来て居ましたが、只今の所では、当分お気に入るやうな芸は出来ませぬから、ドウか御不承を願升」
と云つて、其晩も矢張此「恋十」の稽古をして呉れたが、扨て稽古となると、丸で講座と違ひ、全く先年の教授と少しの相連もないのである。
 扨て先年の稽古と、此の時の舞台の芸とが、ドレ丈け違ふかと云へば、先年の時は、声が大きくて、底力があつて、据つて居たが、此時は、声が小さくて、絃の通りに辿つて居るやうに思はれた。然るに今又、大掾が口三味線で、一段を聞かせたのに、矢張ドッシリと声が据つて、側で聞いて居ると、部屋一杯、耳一杯になつて、実に大きく何とも云へぬ程面白くて、聞取られぬ程情味が漂ふたのである。
 先づ『お傍の衆にはやされて、おさな心の姫君』「テン」と運ぶ、夫が『お傍の衆』と云ふ声の大きさにビックリする。『はやされて』から離れて、段々面白くなる。『ヤアござらふとおつしやるは』(*『ヤアござらふとおつしやるか』)の声の大きさ。『こりや目出たいは/\』(*『ソリヤ目出たいは/\』)の面白さ、筆などには到底書かれる訳の物ではない。夫から、『是も馬子殿、おかげじやアーーアーーアァ』となつては、実にモウ其音遣ひを聞取つて覚へるなどの心地はせぬので、只だ面白い斗りである。要するに大きい声との対照で、斯く面白くなる事丈けは相違もない芸格と断言が出来るのである。此段は決して、キャア/\云ふ浄瑠璃ではない事が、屹度判るのである。元来此大和風と云ふのは、総て播磨地から来た物と思へばよいそふであるが、此大和の掾は、全く鍛練の結果、斯く味いある語り風が出来た物の由である。世間皆「ノリ」地斗りが「大和地」と思つて居るが、そうでない。「スネル」事が旨いから「ノリ」地が際立つて鮮かになるのであるとの事。故に播磨地が元じやと思つて居れば、大和地も駒太夫風も判るのであるとの事。皆一つ道を修業して、生きたる人間が丹精の結果、ズバ抜けて旨い芸力が漂ふ処を、名付けた節の名であると思つたら好いとの事である。故に此『おかげじや』の節廻しでも、決して大和の掾の専有独特の節ではない。堀川夜討三段目の『手を取かはす親と子のーーヲヲーーヲヲ』も、忠臣蔵七ッ目の『早里馴れて、吹風ヱにーーイイーーーーイイ』の音遣ひも、皆播磨地から来た音の運びとの事である。夫から此播磨地でも、大和地でも、総て斯道の音遣ひ、節廻しに「引字」と云ふものをしては、根本が駄目になるとの事。『昼は沓打ち』と引かぬから、『はらんずーーウーーウウ、つくーーウウリ』と節が止まるので、芸にも曲にもなつて、跡に「チン」とか「テン」とか「トン」とか弾かれる事になるのであるとの事、故に其「引字」をせぬ素養が第一、即ち修業の基礎であるとの事。今の太夫連の語るのを聞いて、引ずり引張りせぬのが、誰であらうか、我々は夫が見付からぬのである。夫は修業して居らぬ立派な証拠である。此修業鍛練が切れる刀の権威で、即ち芸の神力である。夫を修業せずして、音遣ひと、節廻しとをして居る太夫は、皆全部棒で芸味を叩き潰すのである。三味線などは、兎ても当り前に弾かれぬから、三味線なしで、講釈師になるがよいのである。夫でも情けない事には、弾かねば飯が食へぬから、弾かれぬでも弾いて、給金を取るのである。ソンな了簡の人間が、二人講座に並んで坐つて、是非とも給金丈けは取る事になつて居る。大掾は曾て云つて居た。
「我々末の世の芸人は、情けない物で厶いまして、興行師さんと、御贔屓様の前では、ドンな事でもせねば立行かぬとは、畢竟身前が至らぬからで厶い升、昔の師匠方の咄を聞きますと………日頃の交際は、ドレ程親密であつても、芸が少しでも出来ぬとなりますと、彼碁敵のやうに、双方から出掛けて行つて、喧嘩のやうにして稽古をして居られたとの事で厶い升」
と云つて居た。
 夫から『敷台の段階子』と、『浅間しや』との高い音の節は、摂津大掾独特の節廻しで、「ケからヱからサ」の音までクリ上げて、マダ余つて居るから、勝手に語つて居るが、此節は決して大和風でも、何でもない。出来る丈けの事をすれば、夫で沢山である。夫から古い教へを聞いて見ると、馬子歌の前で「チヽン、シアン」と弾いてはイカぬそふな、「間」をおいて「シアン」と丈け弾いて、遠い放れた声で唱ふとの事である。