此外題は元近松門左衛門の作であつたが、何かの訳で格別流行らなかつた。其後四十五年を経過した後、吉田冠子、三好松洛が之を増補して、寛延四年未二月(十一月改元)(大正十五年を距る百七十六年前)竹本座に上場せし以来、西物中の錚々たる出し物として、権威を有する事になつたのである。此段の役場は、竹本錦太夫であつたと思ふ。
此人は前名和佐太夫、綿武と云ふ人にて、異風なる声で、面白く語る上手の大達者である。忠六布引の琵琶等は此人の風である。此沓掛村も錦物として修業する事にすると、殆んど動きの取れぬやうに六ケ敷物である。此段は後世声の悪るい人の語り物のやうになつて居るが、夫は大間違である。声が良くても悪るくても、遣う丈けの音は、ドウしても遣はねばならぬ。夫が出来ねば沓掛村を読んだので、語つたのではないのである。摂津大掾は若年の時、春太夫師に沓掛村の風を覚へて置きたいと思つて、稽古を頼んだら、
「お前は難声で、迚も沓掛村の音遣ひは出来ぬから、今は紋下の湊はんの語りやはるのを能く聞いとけ」
と云はれた。大隅太夫は団平に、シツカリ稽古はして貰つたが、或る時師匠に是で宜敷ウ厶い升かと云うたら、団平は、
「お前は沓掛を語つたには相違ないが、宜敷ウ厶い升かとは、何と云ふ太い云分じや、私は今日まで此段で成功しやはつたと思ふ太夫はんは、長門はん、湊はんと二人じやと思つて居る、お前は馬鹿じやナア」
と云はれましたと云つて居た。庵主も此段は沢山聞いたが、先の弥太夫、住太夫、先の津太夫、組太夫、大隅太夫と、耳に蛸が出る程聞いたけれども、耳に残つて居るのは只の一人である。夫は組太夫の語り口であつた。其余の太夫のも宜かつたかは知らぬが、大抵大同小異で、恐ろしいと思うたのは一つもない。組太夫のは間と足取と息遣ひと変りの鋭い事とが、今尚ほ頭に泌み込んで、「沓掛もアヽ語らねばならぬと極つたら、迚も恐ろしくて一寸手が付けられぬわい」と思つて居る位である。故に其一句一動の働きは、今尚覚へやうと思はずに、頭に残つて居るのである。先年組太夫が上京した時、日本橋茅場町の宮松亭で、沓掛を語ると聞いたから、何でもと駆け付たら、富助が弾いて居た。久し振で組太夫の顔を見たら、大分憔悴して居た。扨て語り出すのを聞いて見ると、皆暗れ枕文句が聞取れぬ、足取も乱れて居る、夫を富助が実に塩梅能く弾いて居る。此の富助の修業と技量には又感服したが、従来煮える程感服して、全く沓掛村の神様じやと思つて居た、組太夫の語り方が、是ではと尠なからず失望した所が、詞になつて来て、『アノ子の布子代りに、俺が此ドテラを売て、分けて取つて下され』との一句になつたら、見物全体は申に及ばず、斯く云ふ庵主も、共にグウツと引付けられて、前傾きになつて仕舞つた。夫からズーツと仕舞まで釣付けたなりに、ポンと突放なされたやうになつた。庵主は矢張り、組太夫は沓掛村のチヤンピオン、此段の名人じやと思ふ。是がこの太夫が庵主と今生後世の別れの一段であつて、再びアンナ沓掛村を聞く事は出来ぬのである。以上庵主の了簡の統計に因ると、第一が語り下ろしの錦太夫、第二が団平の云つた長門太夫、第二が湊太夫、第四が庵主の数回聞いた組太夫である事になるのである。マダ外の人のを聞いたら、名人の統計を拵へる事は出来るかも知れぬが、夫は庵主の生存中には不可能の事である故、庵主は生きて居る中に、切めて今一人丈け、面白い忘られぬ、恐ろしい程の沓掛村を聞きたいものじやと思つて居る。