(二十八) 増補 玉藻の前曦の袂 三段目切 道春舘(だうしゆんやかた(*みちはるやかた))の段

 此段は寛延四年未正月(大正十五年を距る百七十六年前)豊竹座に上場せしものと思ふが、(*玉藻前増補三段目の書下し当時の太夫役割。是も芝居が知れぬとの事ゆゑ(**文化三年三月二十六日初日番付省略))此段の仕組は殆んど二段目にある、夫は金藤次が死なずして、萩の方の代りには、右大臣通忠卿がなつて居る。今語る三段目は其趣旨を取りて書換へ、之を三段目に据へ、増補の形となつて居る。併し矢張筑前風の三段目物として、尤も困難な物と考へねばならぬ。
 予が此段を語る事を知つて、モー殆んど十有余年であり、又故摂津大掾、大隅太夫の語るのも聞いて、一層の研鑽を加へて、之を譚奏する事も、亦数十回なりしと思ふが.予が天性の不敏は、一回も会心の域に到達せず、常に憂鬱の念を去る能はざるを遺憾とするのである。何で左様に此段に限つて困難するかへ云へば、
第一、劇として、其組織の堂々たるに脅威せらるゝのである。
第二、斯界中興の祖たる筑前掾の語り場にて、調譜音遣の荘重巌正なるに驚くのである。
第三、此段は素人玄人の別なく、男女の太夫間に、余りに広汎に流行普及してゐるが為めに、予が研鑽中にも不知不識の間、耳馴れ口辷りにて終に高尚の格を失ひ、俗調俚臭に陥り易き事である。
第四、此段は真の東風にて「ギン」の音の遣ひ分け尤も六ケ敷、喩へば枕の半枚を語るにも「ウキギン」「中ギン」「真ギン」等の「裏表」がシツトリと据り能く、「足取り」と「間と息」が頼母敷まで落付くのが重要の条件にて、殊に「白書院」と云ふ「ユリ流し」の節は、尤も荘重な、「ギン」の音にて、ドツシリと結びを付けねばならぬのである。夫が予等が幾度語つても、其力量と芸位が其処に至らぬ為め、締りの悪るき始末となるのである。
第五、最後に困難なのは、余りに舞台面が上品で、殊に出る人形が上品な者斗りで、金藤次、萩の方、桂姫、初花姫、采女、御勅使、丈にて下女も下男も出ず、照応の標準がなく、上品な人形五人の中にて各々特に異なりたる人格を現はす事の芸力の技倆が、甚だ困難な事業であるのである。
以上の困難条件が参互錯綜して、腰と腹とを紛雑せしむる為めに、中々甘く行かぬのである。其外の難局を云へば。例へば、浮浪生活の金藤次が皇子の見出しに遭うて大出世をなし、大得意にて右大臣道春邸に上使に来る、其得意の相貌意思を尤も濃厚に顕はして居た所に、後室萩の方の咄を聞き、自分が浪人中に棄てたる児が桂姫にて、其拾児に義理を立てて、実子の初花姫を以て身代にせんとする、日本道徳の尤も強烈なる電気に触れた金藤次が、二度目に発言する、即ち『云はせも果てず声荒らゝげ』の詞以下は、如何なる息、如何なる声調にて語れば、金藤次の心裏を聴衆に会得せしむることを得るかと問はれたらば、如何なる大家にても、直に其困難なる事が分明するのであらう。「金藤次は斯る大恩家とも知らず、其不幸に乗じ、即ち右大臣道春の死後、孤児と寡婦とを恐喝して追害を加へ、其朝廷より預けられたる獅子王の剣を盗みて、其家を滅亡の危運に陥入れ、其上に其愛嬢の首を刎て、皇子に媚るの手段となさんと謀つたのである。夫が俄然、此後室の物語りを聞いて、其首を刎ねんとしたのは自分の娘であり、況んや後室が夫を自分の肉身の娘を犠牲として捨児の姉を助命せんとする苦衷に対して、彼は自己積悪の懺悔と共に、一死を決して其罪を謝せんとする其心情を不言の中に語り出さねばならぬと云ふ」夫を困難と云ふのである。其他論じ来れば其類枚挙に遑あらずであるが、兎に角此段は義太夫節中の大困難なる物と思ふて予は今尚ほ失敗の度を重ねつゝあるのである」