(二十七) 増補 源平布引の瀧 四段目切 松波検校琵琶の段

 此外題は寛延二年巳十一月(大正十五年を距る百七十八年前)の書下にして、竹本座にて興行せしと聞く。作者は並木千柳、三好松洛であるとの事。夫から間もなく矢張り並木、三好の手にて此四段目丈けを増補として書直し、其前と後との約めが付けてないから、若し通して演奏するとすれば、前後を少しづゝイジらねばならぬと思ふが、先づ聞き伝へた侭を書いて置く。
 役場は竹本和佐太夫、改め錦太夫であると聞いて居る。この錦太夫は、四段目語りの名人にして、異風なる声にて、何でも面白く語る音遣いの名人であつて、今四段目風と云つて、其音を八ヶ間敷云ふ。音遣ひは此人と政太夫の風とが多いと思つて居れば大体宜いとの事。「三重」は「ウラ」で出た方が宜い。『昨日まで』と「地ハル」で、『秋の雲井の御住居も』から尻が、「二」に落ちぬやうに「ウケ」の絃に決して付かぬやうにして、「冬枯に』の『に』の字になつて、始めて「二」の音に落ちる事。『フーウウユ、ガレーヱヱ、 ヱヱ』と張り上げて、自然に下げて音が、「二」の音になつた時に、『に』と「二」の音で止める事、是が先づ四段目の音と云ふとの事。『庭の紅葉斗りなり』の「ユリナガシ」の節は、大事の納まりである。玉三の『光りまばゆき白書院』の「ユリナガシ」と同じ積りであるが、舞合は右大臣道春の白書院と、此四段目は鳥羽の離宮のお庭との違いが、太夫の心持に夫が屹度あつて其音の響きが、聴衆に威厳だけでも、 ハッキリするやうに語らねばならぬ。夫には「ギン」の音の修業が、チャンと其位を定める程になつて居らねばならぬ。夫から今時の四段目は「スヱテ」が、皆四段目になつて居らぬと思ふ。即ち『ハットばかりに行綱は、暫し詞もなかりしが』が全部駄目と思ふ。菅原四段目の『云ふに思はずふりあほのき、屹度見るより暫くは打守りて居たりしが』の「スヱテ」と同じ事である。此「スヱテ」は、西も東も屹度同じ事である。『ハット斗りに行綱アーーは、シバ、シーイ、イーイ、イイーーイーーイ。詞アーアモ、無かリーイ、シー、イーイ、イー』が此丈の産字が有る筈である。寺子屋の方も、『打ち――イ、イーーイ、イイ、イイーーーイ、守ヲリ、居たり――イ、シーー、イーー、イーーイーーが』此産字だけは、四段目なれば「スヱテ」に是非語らねばならぬと思ふ。現に夕霧伊左衛門吉田屋の段でも、京都の友次郎が伝として、三代目吉兵衛が摂準大掾の南部太夫時代に稽古して居る朱を見ても、チャンと四段目の手で責め上げてある。即ち『伊左衛門ハットせいたる顔色にて暫し詞も無かりしが』の「スヱテ」も誠に正しき物である。外の物は兎もあれ四段目丈けは余り無茶では気の毒と思ふのである。庵主は大隅太夫の此段の音遣ひの鍛練に感服して、素より稽古も仕て貰つたが、扨て大隅の高座に於て、其上の働きを聞く事が、最も楽として居た処、庵主は師匠大隅生涯の中に、前後六度程出入止めの勘当をした事がある。夫は贔屓上の厚意とて、設令庵主が是程好きの浄瑠璃を止めても、大隅師の為めに良くないと思つた事を意見して用ひない時に、固き決心の上に発表した事件である。 夫程庵主の固き決心が、何時でも又芸道の上で、 一人の仲人なしで和解して仕舞つた。大隅死後の今日まで、思ひ出しても失笑するのである。或時今度こそはドンナ事が有つても、生涯大隅とは絶交であると決心をして、二年斗りは手紙が来ても封の侭で、突き戻して居たが、大隅も今度は諦めたかして、明治座に来て興行して居ても、庵主の家には顔出しを仕なかつた。好い塩梅と喜んで居たが、フト或朝新聞を見ると大隅が今夜は布引の四段目を語ると書いてある。庵主の頭は忽ちグラ/\と動いた、
「アーア大隅と絶交して後、沢山布四を聞いたが、皆丸で、目も鼻もない四段目であつた。今度大隅の布四を聞いて置かねば、モウ一生涯筋のある布四は聞けぬかと思ふと、絶交は仕て居るが、変装でもして、四段目丈けを聞きに行ふかしら………、イヤ/\止めて置ふ。イヤ/\分らぬやうに行ふ」
とトウ/\頭巾付の雨外套を着て、木戸で一枚札を買つて、正面の二階に上つて、丸で姿を見せぬやうにして、煙草盆を枕で寝て居た処が、其晩は大雨で聴客はタッタ六十名である。然るに大隅は毎晩庵主の得意茶屋たる花家に、楽屋入の度毎に何時も表まで来て、
「ドウだす、旦那はんは来やなりませぬか、何とも音沙汰は厶りませぬか」
と尋ぬるが常であつたとの事、茶屋は大隅に気の毒と思ひ、庵主の処に度々電話を掛けて、
「大隅師匠が毎晩尋ねに来升から、ドウカ一度お出を願升」
と云ふ事であるから、庵主は、
「近来脳病で、一切劇場には行かぬ、全快したら行くべし」
と云つて追払つて居た位故、此晩も花屋に行かれず、自動車は久松町の警察署に頼んで、其門前に置き、ソーッと入場したのである。処が大隅は楽屋で花屋の出方男に出逢ひ、
「ドウダス、今夜も旦那は来て居やはりませぬか」
と云ふと其男が、
「今度の興行には、ドウもお出にならぬやうです。併し正面の二階に大きな男の人が、一人寝て居り升ぜ」
と云ふと大隅は、ピシャンと膝を叩いて、
「夫じや、旦那に違い有ませぬぜ」
と云つて、間もなく高座に現はれた。庵主は片唾を呑んで聴いて居ると、 タッタ六十人の客を相手に語る、大隅の布四と云つたら、天地も裂けん斗りの息込みで、庵主は何時の間にか、芸魔に魅せられて、生死の界も分らぬやうになつた。又其時の二代目団平の絃の冴えと云つたら、庵主長年アノ人がアレ丈け三味線の弾けたのを聞いた事がないと思ふ程であつた。トウ/\大隅が此一段を語り捨てるやうに語つて仕舞つた時は、庵主も又投げ捨てられたやうに、起直る事も出来ぬやうであった。兎も角匆々に起きて、木戸に出て来ると、其出口に大隅が、頭から汗の侭、帽子もインパネスも左手に抱へて、駈出して来たものと見えて出し抜けに、
「旦那様、御機嫌よう厶り升、何とも申訳厶りませぬ」
と云つた。ビックリして黙つて居る庵主の後に躡いてノソ/\来るので、トウ/\自動車の処まで来たから万止むを得ず、
「マア自動車に乗れ」
と云つて、ある料理屋まで連れて来て、二言三言の挨拶で、トウ/\庵主の固き決心も何も、無条件挫折で講和締結となつて仕舞つた。前後六度の絶交は一度も此手に乗らぬ事はなかつたのである。その大隅の芸力と、庵主の芸病は大体コンナ物であつた。夫から大隅は、
「私は久し振りに、四段目をアンタに聴いて貰うて居ると思うて、ウツヽに成つて語りました」
と云つて、段々講釈を仕て呉れた。二時間斗りの後は庵主はチャント大隅の奴隷と成り下つたのである。
「サア茲を云うて見なはれ…………ソヽそんな詞遣ひを誰れが教へました。私はソンナお稽古はしまへんぜ、夫では丸で、躄りの乞食と一所でんがナア、是は天子様の御殿の仕丁ダッセ、夫も難波の六郎や、越中上総でおますぜ、アーアあきまへん、此段は錦場としておますさかい、官女の這入るも、仕丁の這入るも、錦(節の名)に語んなはれと云ふといタジャおまへんかいな。アーアあきまへん/\行綱の初めの出には、ドンナ音を遣ひやハッタ。『虫が知らすか松波が』ソンナ音でヨー語れ升なア、「ニジッタ」音で「ハッ」て、ソウ/\、モット、サラ/\と運びなハレ.あんたはアレ丈け丁寧な稽古をして覚へて居て、私いが少し逢はないと、サッパリ胴も成りへんなア」
と、丸で餓飢人足のやうに、踏まれたり蹴られたりである。トウ/\築地本願寺門跡の朝のお勤の鐘がゴーンと鳴つた。是から毎日明治座へ楽屋入の前に、大隅は二時間斗り来て、庵主は丸でピョコ/\、誤りの、叱られの、毎晩出入の者共引連れて、明治座への出勤である。モウ書けば書く程恥の上塗り斗りであるから、此位にして置くから、以上の事を種に研究すべしである。