(二十六) 源平布引の瀧 三段目切 綿繰馬の段

 此外題は寛延二年巳十一月(大正十五年を距る百七十八年前)竹本座に上場した筈である。役場は竹本政太夫と思ふ。
 庵主は此段を大隅太夫に三度斗り聞かせて貰つた事があるが、芝居では同人の語るのを聞いた事がない。此稽古は大分六ヶ敷くて、庵主は一寸語つて見る気になれぬ程弱り込んだのである。明治二十四年の秋頃と思ふ。大阪の文楽座で、長尾太夫の語るのを聞いたと思ふが、大分実盛の品格と瀬尾の詞「ガワリ」が好かつたやうに思ふ。此時は何でも津太夫が「鳥羽の離宮」の段で、大掾は(当時越路)「酒屋」の付け物、呂太夫は「志渡寺」を語つて居たと思ふ。何れも今日何の印象も残つて居らぬ。只だ此長尾太夫の「綿繰馬」丈、耳に残つて居るのが不思議である。其後明治卅九年の十一月に、又文楽座で之を聞いた。其時は三代目越路太夫が此段を語つて、津太夫が又「鳥羽の難宮」(*「鳥羽の離宮」)であつた、大掾は何でも四十何年目とかに語ると云うて「大文字屋」を語つて居た。此時は若年の時からの贔屓の越路太夫が語るのであるから、庵主は前からウント力瘤を入れて聞に行つたが、夫が全く失望に帰して、大掾の「大文字屋」がドヱラク好くて、五日間斗り滞阪して、此「大文字屋」の稽古をして貰つた。之を綜合するに、此三段目は庵主の聞いた中では、日本で大隅太夫より豪らいのは決してなかつたやうである。夫は「地合」の「音遣」は無論であるが、「詞」が途方もない六ヶ敷物である。夫に恐れて、庵主などはトウ/\語る気がせぬし又世の中にも流行もせぬのである。元来此段は語る前から腹構へがウント据はつて居られば、ドレ程語つても、臭くもない、屁を放つたと一所である、何ともない物なら、語らぬ方がよいのである。先づ政太夫風を語るとの腹が極つたら『音静まれば』の「音遣ひ」から、煮え込むやうに、 サラ/\と皆「中」の「音」を難れずに運ぶ事である、『葵御前も、立出玉ひ』も「ニジッタ中」である、夫から『聞及びし実盛殿』の「詞」は兎ても大隅の云ふのを聞いた事があつては、人の前で云つて見る気がせぬのである、何と云ふ品合の気持であらう。元来大隅の語り口は、品と云ふ事には余り十分に思はぬ庵主が、此『聞及ぶ実盛殿』斗りには、頭を下げたのである。又『段々のお情け』何とも形容の出来ぬ運びである、『是は/\御挨拶』も、只の「中」である。夫から『某元(そこもと(*それがしもと))は源氏の家臣』と云出す実盛の「詞」は「カン張た」やうで,低く穏やかなやうに聞へ、重味のあるやうで、品格のあるやうに聞へ、迚ても筆には書かれぬのである。『不思議なは此肘』は「色」で、『矢橋の船中にて某が切』で止まつて、『落した覚あり』は低く、『御存じなきヤーーッと尋ぬれば』は「色」で、『其切つたとある者の年格好は』と葵御前が品のよき押気味の「詞」何とも云はれぬので、詰まり品合の競争である。『九郎助女房』は世話に「カワル」事。『思ひ遣つてサネーモーリ』の重たサ、『扨は其方達が娘よな』の「ハリマ」を聞いた時は、モウ情けある武士の実盛たる情合が張切るやうに、一杯に漂うた。ハット気が「カワリ」て、『聞も及ばん宗盛公』となつた時は、大隅が名人やら何やら解らずに、生きた実盛がズーット浮み出たのである。『口に白絹引くわへ』から「カワリ」て、サッ/\と『浮きつ沈みつ泳ぎくる』と、庵主は面白さに目がくらんで、酔うて仕舞うた。『アレ助けよ、アレ殺すなと舷たゝいて』と云ふ時は大隅は二分位の調子で、火鉢の縁を叩いて聞かせて居たが、 モウ目が血走つて居た。『折から比叡の山颪シーンニ』と、「ギン」の「音」にからんで云ふ時は、アノ臭い息の大山颪が、座敷中一杯になつた気がした。『追手と見へて声々に』と「ノリ」で張つた時は大隅も庵主も、我を忘れて居た。『飛騨の左衛門飛掛つて、もぎとらん』と「ネバル」工合である。夫から『海ヘザンブと』と云つて『切落し』と不憫の心を浮べて語つた時は、世の中にコンナ良い実盛物語りが、昔から有つたであらうかと思つた。夫から『親を慕ひ子を慕ひ流れ寄つた』で止まり、『不便や』と「上(ぜう(*かみ))ギン」を「ニジッテ」、『涙交りの物語り』と語つた時は庵主稽古を打忘れ、「ヲイ一寸待つてくれ」と云つて、洟をかみ、涙を拭いて一寸休息した。夫から『瀬尾』の出となつて『小柴垣より顕れ出で』と云つた時は、浄瑠璃離れ、人間離れがして、ビックリした。庵主は此処で思案をした。アヽ馬鹿々々敷い、 コンナに面白く途方途轍もなく、千変万化に語らねばならぬ物なら、商売にするのではなし、又一生語られそふにも思はれぬから、コンナ物は止めた方が上分別じやと全く思つたのである。大隅は語り了つて、
「旦那ドウだす、骨身にコタへましたか」
と汁(*汗)をふき/\云ふから、
「アヽ骨身所か心魂に徹へ過して、コンナ物は止めといた方が良いかと思つた」
と云つたら、大隅は大声に笑つて、
「夫は旦那はんよい御思案で厶り升。アンタ方がドン丈け凝なはつたかて、山が知れて居升。上出来に凝んなハッタかて、我々の読付位の物だす、併しアンタは止といた方が良いと云ふ位、解んなはるサカイ、私嬉しうて一生懸命お稽古をするのだす、マア語んなはらぬまでも、三日斗り聞いとくんなはれ、大方に解る丈けまで聞やはると、他のを聞なはつた時、物事が解り升サカイ、本真にアンタは感心だす」
と云つた。何だか誉めるのか、馬鹿にするのか解らなかつたが、全く此「綿繰馬」には閉口頓首したのであつた。其後前の三十九年に贔屓芸人の越路(三代目)の語るのを聞いた時、居ても立つても居られなかつた。「アヽ大隅からアレ丈け聞いて、永年本を読んで居なかつたら、此越路の三段目が面白く聞へやうもの、俺は全く大隅に悪い黴菌を付けられた」と思つて越路に其咄をしたら、越路はコウ云つた。
「私は豪らい不調法をしました、実は師匠の所に本を持つて参りまして、一度聞いて戴きたいと申ましたら、師匠が………私も此三段目の事は、師匠にも云うて貰うて今に思案をして居るが、聞けと云へば聞も仕様が、ナゼもつと早く来ぬのじや。此な物は今云うて、今語れる物でないから、今度は其侭遣つて置なはれ、役が済んだら、何時でも聞くわい………と云はれましたので、実はグット気になりまして、毎日魂がウワ/\して遣つて居ります。師匠にも、旦那にも、全く申訳厶りませぬ」
と云つた。マア斯様な物であるから、其侭を書いて置く。斯る品物を筆先で書くのは、書く程気がひけるから、此位にして置く。皆よく注意して、研究すべき物と思ふ。此丈でも若し何かの参考になれば結構である。