(二十五) 双蝶々曲輪日記 八ツ目切 引窓の段 

 此外題は寛延二年巳七月(大正十五年を距る百七十八年前)竹本座に上場したと聞く。役場は竹本政太夫(二世)で、橋本の段は竹本大和掾と聞く。庵主は何でも明治十八年冬頃、彦六座で竹本組太夫(五世)が語り、橋本は大隅太夫が語つたと思うて居る。此時今の朝太夫は三ツ目の掛合と追出しの鈴ケ森を語つて居たやうである。庵主は此段を大隅太夫に聞かせて貰つた。其時彼の云ふには
「旦那衆の貴方方に云う必要は厶りませぬが、貴方は特別じやからお咄し升が、私が新町の師匠(**春太夫)に此段を聞かせて貰うて口を明ました時、師匠がコウ云やはりました……「ウム思つたよりも、よう語つては居るが、マダ引窓にはならぬわい」……と云やはり升から………「ドウ仕ましたら、引窓になりますか」……と申ましたら、師匠は……「アヽ、役が付いたら教へてあげ升。夫までよく考えて置きなはれ」と申されましたから、気になって/\なりませぬ。其後組太夫が語りましたから私は組太夫に申ました、「師匠が私に引窓を稽古して遣つて置いて私が口を明けると、『思うたよりはよく語つては居るが引窓にはなつて居ない』と云やはつた、夫から始終考へては居るが、ドウしても分らぬ、お前はんは今度の芝居で語つて居てヽじやが、私は夫を熱心に聞いて居ても其訳が分らぬ、ドウか私に其訳を聞かせてくれぬか」と申升と、組太夫はニコ/\笑ひまして「夫は友達のおまはんに云ふのは何でもないが、私も夫と同じ事を師匠に云はれて考へても考へても分らず、トウ/\今度役が付いたので、ヤット師匠に教て貰うて分つたのやさかい、申さば師匠からの預り物じや……師匠に一ッペん尋ねて見て、教へて遣れと云やはつたら直に云ひ升……マア考へたかて中々アカンぜ、夫は/\六ヶ敷しこッちゃ」と申升から、私はサア癇が立つて来まして、其晩から引窓の本を引出しまして魂ひを入れて読みましたワ/\、端場から段切まで読んで/\/\読み抜きました。夫でもドウ語れば引窓になるか矢ツ張り考へが付きませぬ、ソコデ段々外の物の事を考へ初めました。元来此ザコバ政太夫の西口風と申す物は、陰気な音を遣ふと思ふ時は、陽気な音を遣うて置いて、上手に陰気な音を得心の行くやうに遣ふと云ふのが、古浄瑠璃の法で、小が目的なら大から行け、大が目的なら小から行けで厶り升から、何でもソンナ風の事に相違ないと考へました。夫から又師匠に聞かせて貰うた時の師匠の声の事を、ジーッと目を瞑つて考へて見ましたらハット考へ付きました。何でも引窓を開けたり閉たりするのやから、明かるく暗く音を遣うて見たらドウであらう、夫で古浄瑠璃の風が辿れはせまいかと思ひ升と、夫から又引窓の本を一生懸命に読んで語つて見まして、何でも是に違ひないと、思ひましたから直ぐに師匠の所に参りまして「お師匠さん誠に済みませんが引窓を一ぺん聞いて載きたう厶ります」と申しますと、師匠が大変機嫌がよろしう厶りまして、「アヽモウ稽古して一年にも成るでないか、考へて居たか、マゝ結構じや/\、芸人は夫でなければ芸にならぬ、サア遣つて見なはれ」と申されますから、今日まで苦心しました通りを一生懸命に遣つて見ましたら、師匠が閉いで居やはつた目を明けられまして「アヽ夫なれば悪ふても引窓じや、凝んなはれ/\、凝つたら浄瑠璃は良くなり升……お前組太夫に何か聞いたか」……と云はれますから……「ハイ聞きましたけれども云うてくれませぬから、忌々敷て/\/\なりませぬから、一生懸命に「天拝山」と「渡海屋」と「洞ケ嶽」の本を読みまして、夫からお師匠さんの聞かせてくりやはりました時の音の事を考へまして、コウではあるまいかと考へまして、夫で幾度も語り込みましたから、一度聞いて頂きたうなったので厶り升」と申ましたら、師匠はニコ/\仕やはりまして、「そーか夫で結構じや、斯芸は先づ西東を極めて、夫から太夫風を他の本で読んで極めて、責め上げれば知らぬ物でも語れる筈の物じや、夫で一段の稽古をしたら風をシッカリ極めて、他の物に持つて行ける丈け練習して覚えて置く事じやぞ。夫から此引窓に限つて婆の泣落しに『チヽ…………』と弾かせてはならぬ物じや。「チン/\」「ツン/\」と「アシライ」で語るものじや、又端場から奥を語れば『煙草盆提げて二階へしほれ行く』の『フシ』切れに『ツントン』と重く弾くものじや」……と此まで親切に云うて聞かされ升中に、私は頭を何時の間にか畳に付けまして、思はず有難涙が滴れて居た事に気が付かぬ程、師匠の御恩を感じました。今貴方にお稽古をして居る中に、此時の事を思ひ出しましたから幾度も涙を呑込んで云うて居ましたから、序にお咄して、師匠の有難さをお咄して置くので厶り升。夫で考へて見やはりませ、『人の出世は時知れず』と明るく云うたら、『見出しに預り南与兵衛』と声を落して云ひ升。『衣類大小申受け』と「ハッ」て云うたら『伴ふ武士は何者か』と平らに語るので厶り升。『所目なれぬ血気の両人』と強く云うたら『家来も其身も立止り』と静かに語るので引窓になつて、明るく暗くなつて行きますので、三味線も其心で弾かねば引窓は弾けて居らぬので厶り升。此から先は語る人と、弾く人の考と、力とで引窓が出来て行くので厶り升。其他、『一日々々と、親の事が身にしみ』などの辺まで其心持が満ち/\て引窓になるのじやと思ふてゐなはつたら間違ひはおまへん」
と咄して聞かせた事がある。此等の咄は少々は憶へ違があるかも知れぬが、書いて置かねば、世に消へて仕舞ふから思ひ出した丈け書いておくのである。
 近来に於ては頓斗此段を聞かぬ。竹本古靭太夫(*豊竹古靭太夫)が時々此段を語るが、誰に稽古をして貰つたか知らぬが、大分面白いやうに思ふのである。庵主は昔より現代芸人の品評をした事はないか、此人の此段はソモ瓢太夫の昔日から聞上げて来た中で、悪い所もあるか知らぬが、大体に於ての秀逸と思うて喜んで居るのである。