(二十四) 双蝶々曲輪日記 (*六冊目切)橋本の段

 此段は寛延二年巳七月(大正十五年を距る百七十八年前)竹本座にて上場、作者は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳で,役場は竹本大和掾であると思ふ。此大和掾は、初め三輪太夫、内匠太夫、大隅太夫(*大隅掾)と云つて、豊竹座を勤めて又竹本座に戻りて、二代目義太夫、即ち竹本播磨掾の後継者として、一世を風動した名人にて、大和地、大和風と云つて、節語りの名人である。此の太夫が斯る真世話物を語つたと云ふは、実に珍らしき事にて、此段の語り風が、世に顕れて以来、世話物の詞遣ひの語り方が、一変したと云ふ位であるから、此段を引受けた太夫は、地合は素よりであるが、詞の語り方に性根を入れ替へて、シツカリ修業せねば語れたとは云へぬのである。夫が腹の心から其人形の気になつて、芸と思はずに、其人になつて咄をするやうに、修業を徹底せよとは、此段稽古の心得の第一である。即ち上場人形心持の稽古が専一と云ふ事である。
一、お照の詞遣ひの修業が一種の風ある事。
二、下女の詞遣ひが、一種淀みなき風ある事。
三、駕籠舁の詞遣ひも同前。
四、夫から一番の難物は、与五郎の詞遣ひである、夫がウント修業せねば、其心持が漂はぬのである。
五、夫から治部右衛門、甚兵衛、与次兵衛、と三人の親爺の詞遣ひは人格を語り分ける詞語りの修業の大難関である。
地合は、此段では寧ろ副事業であるが.此詞遣に伴つて、何とも云へぬ味がなければ、何の興味も起らぬのである。摂津大掾が或時、師匠春大夫に稽古を申出たら、
「夫は心掛は宜いが、グツト年を取つた後の事にせよ、お前等は太夫に成れるやらドウやら、マダ分りもせぬのに、此橋本とか教興寺とか云ふ物に野心を持つのは心得違じや、俺は先輩の語らるるのを、熱心に聞いて居た上で、自分も数回之を語つても見たが、ドウも満足に語れやうとは思はれぬ位であるから、お前等はマダ外の物の修業が専要である」
と云はれたので、ギヤフンと閉口しました。とは大掾の直話である。夫から七十と云ふ歳になつて初役として文楽で始めて此橋本を語つて、帰り掛けに庵主の旅宿に来て大掾は斯う云つた。
「往年湊太夫さんと勝右衛門さんが清水町の浜で語られたのも聞て居升し、其外聞ました記臆を辿つて遣つては見ましたが、心咎めでも致しましてか、全く浮嚢を付けて泳いで居るやうで、思ふ方角に泳いで往かれませぬ、総稽古前に引籠まして、詞遣ひ丈けは三四十遍も、空で云ひ得るまでになりましたが、扨て地合に移り升と、ドウも折角の努力が逃げてドウも成ませぬ」
と云ふから、
「俺は今日着阪して,時間が間に合はなかつたから、明日から聞に行くが、隙なら一遍聞かせてくれぬか」
と云うたら
「ハイ/\有難ふ存升、私の修業に成升から聞いて戴き升」
と云ふて二分位の調子で膝を叩いて無本で丸ゴカシに聞かせて呉れた。其面白さと云うたら、今尚ほ耳の辺に、其息込と声が漂ふて居るのである。其翌朝庵主がボンやりして、昨夜の面白味を繰り返して居ると、突然大隅太夫が這入つて来て「昨夜は二見の師匠が参られたそうですから、遠慮して居ましたが、ドンナ咄がありましたか」と云ふから、庵主が今考へて居る興味を、全部咄して聞かせたら「私は溝水町の師匠に、橋本丈けは随分シツカリ稽古をして貰うた積りで居ましたが、マダ迚も無本では遣れませぬ。夫から締り処とカワリ処が一寸往道が違ひ升、私も最一ツ勉強せねば、今のお咄しで、丸で破れて仕舞升たから、モウ語られは仕ませぬ」と云うて嘆息した事があつた。