(二十二) 仮名手本忠臣蔵 七段目切 一力茶屋の段

 此段は寛延元年辰八月(大正十五年を距る百七十九年前)竹本座に上場、作者は竹田出雲、三好松洛、並木千流(**並木千柳)で、役場は総掛合にて、「由良之助」此太夫(筑前掾)、「平右衛門」政太夫、「おかる、弥五郎」文太夫、「九太夫、喜太八」百合太夫、「伴内、重太郎」信太夫、「力弥」友太夫と云ふ役割である。扨此段の語り方に付き住昔摂津大掾から聞いた事がある。
「忠臣蔵の茶屋場の事は、師匠春太夫が、曾て私に申ました。「俺は師匠から「平右衛門の尻押ヘ由良之助の頭抜き」と云ふ事を聞いて居るから、覚えて置け。」と云ふ事を云はれました。私も是には段々苦しんで、夫を考へて来ましたが、旦那は是程芸に御熱心な方ですから、ドレ程の御力があるか、試めしに申上升から考へて御覧じませ」
と云つたから、俺も男だ、考へ出さぬで置ふかと、段々考へたが、サア分らぬ。夫から茶屋場と云ふ茶屋場は、何処にでも行つて聞く事にし、文楽でも幾度聞いたか分らぬ。素人の掛合でも、屹度聞いて考ヘて居たが、中々分らぬ。殊に大掾は何時でもお軽であつて、由良之助も平右衛門も一度も聞いた事がない、夫で尚ほ分らぬのである。ソコで万止むを得ず、或時庵主は大掾が茶屋場を語る時、コウ云つて聞いた。
「師匠お前は何時でもお軽で、由良之助は何時でも津太夫で、平右衛門は何時でも呂太夫の様であるが、一体津太夫の由良之助は、アレで成つて居るかドウじや」
「旦那様ソンナ事を云ふて、私を欺して聞かふと成さつてもイケませぬ、克く修業をしてお考へなさりませ、併し津太夫も初めは、中々由良之助には成れませなんだが、何様永年の持役と年功で全部とは申ませぬが、チヨイ/\由良之助に成つて来ました」
と云ふから、サア何処が由良之助に成つて居る処で、何処が成つて居ない所であらうかと、毎日詰切りで由良之助斗りを聞く事に極めた。モウ平右衛門もお軽も一寸も聞かぬ事にした。何様文楽では、大概四年越位に此外題を出す様であるから、今度聞出さねば又四五年聞かれぬと、身も魂も打込んで、津太夫の由良之助斗りを聞いた。勿論津太夫は、無意識で語つてゐる事は分つて居るが、聞始めて三日目に、不図心を新たにして聞いて居ると、『手の鳴る方へ、/\/\』と云ふ後に、由良之助が「カブツテ」出ぬ、一息抜いて『とらまよ/\』と云ふ、ドウモ夫が如何にも其出方が全体の都合に宜ろしいやうに聞かれた。夫から段々聞続けると、総て由良之助丈は「カブツテ」出ると面白くないやうである。其晩宿に帰つて来て、ツク/\考へて居る内、ハツト思ふ程悟つた。此由良之助は決して「カブツテ」出る気持は少しもない、是が彼の「由良之助の頭抜き」じやナア、好し是だと心を極めて、夫から又考へたらズーツと平右衛門の尻押へが分つた。夫は平右衛門の詞丈けは、決して詞尻に息を抜いてはイケない、相手が何か云ふまでは、グウッと押付けて息を詰めて居なければ、後が云はれぬ事になる。夫は床本が皺クチヤに成る丈け、読んで語つて考へて見ねば、夫がソウなることが分るのである。ソコデ先づ「平右衛門の尻押へ由良之助の頭抜き」丈けは曲りなりに考へが付いたから、之からお軽を研究して見たいが、此はドウ考へても只の義太夫節の音遣ひの外、研究の余地がないのであると、先づ腹構へが出来たから、五行本を一冊買つて、夫に始からスツカリ語り方の章を打つて使に持たせて大掾の所へやつたら、大掾は其翌日に来て、
「アンタは、実に熱心な方です。トウ/\考へ出しなハツタ、夫に違ひオマヘン、恐れ入りました。只だ此所から由良之助の変りが腹の中にも、詞遣ひにも厶り升、即ち力弥が来てからの押合、又九太夫に声を掛られてからの押合は、又コロツト違ふ腹加減が厶り升」
と云はれた時は、喜で笑顔も禁じられぬ程嬉しかった。ソコデ庵主は大掾に斯く難句を持掛けた。
「夫なら師匠は、此茶屋場三役の中の、一番軽い役斗りを捕へて、全太夫を喰つて仕舞つて、独り銀見を取つて居るではないか。」
と云つたら、大掾頭を掻き、
「ソウで厶います、実は長年此段には苦労も致しましたが、先輩師匠連の居られますときには、一番宜い役の付ましたのがお軽で厶い升、夫に一生懸命凝りまして売り出しました。又由良之助や平右衛門は役も付ませず、工夫も恐ろしくて付ませぬので、気後れ勝に成りました。今アンタの云ひなはる処に気の付いた時は、モウお軽で売込んだ時で、お軽以外の者は、表で語らせて呉れぬ時で厶いました。併し由良之助の本役で売出せなかつたのは、常に残念に思つて居升」
と答へたのである。此お軽の語方に付いても、沢山咄があれども長くなるから又別に書くとする。
 元来筑前掾が此寛延の興行以来、断然竹本座を退いて、東の芝居に這入り、豊竹を名乗つたのは全く芸道の争ひからと聞いて居る。浄瑠璃古咄集に因れば、此筑前掾は、低調子の元祖である。之までは皆の太夫は表の調子で語つて居た。夫に筑前は裏の低調子でも、派手に品よく語れる物であると云ひ張り、彼の台広と云ふ駒を掛けて、裏の調子で語れると云出したので、達役由良之助の調子に、皆の太夫は付かねばならぬ事となった。ソコデごて/\云ひ出したので、筑前掾はこんな狭い芸の太夫共と、共に芸を為るのは嫌じやと云ふ意味から、竹本座を出たのであるとの事である。何様古今無双の大当りの外題であるから、マダ良い事を沢山知つて居る人もあらうが、庵主は庵主丈けが聞いた事を書いて置く。夫から先年力弥の出の三重を庵主が『月の出る』と直ほしたのに付いて色々の議論もあつたが、夫は山科に月入る里と云ふ地名があるからとの議論が大部分であるが、庵主は夫でも矢張『月の出る山』と掛けて語る事を主張するのである。今一つは『勿体ないが親さんは非業の死でもお年の上、勘平さんは三十に、成るやならずに死るとは』の文句を、庵主が『勿体ないは親さんが、お年の上に非業の死、勘平殿も三十に成るや成らずに死るとは』と直ほしたのも文章の上からも、旨趣の上からも、自分丈けはソー語る事を主張するのである。