(二十一) 仮名手本忠臣蔵 六段目切 勘平切腹の段

 此段は寛延元年辰八月(大正十五年を距る百七十九年前)竹本座に於て竹本錦太夫(錦武と云ふ)の役場であると聞く、作者は竹田出雲、三好松洛、並木千柳である。此段は庵主が明治十四年に、故竹本摂津大掾に入門して(此二代目越路太夫は慥か大阪今橋辺に居つたと思ふ)、大に自称名人を振り廻して、先代萩の御殿を語つたら大掾曰く、
「貴君は御運動に声をお出しになり升のですか、浄瑠璃をお覚へになり升のですか、ドチラで厶い升か」
と云ふから、
「私は浄瑠璃を覚へるのじや、今語つた先代は浄瑠璃には成つて居ないか」
と問ふたら、大掾満面に笑を浮べ、変な声を出して、
「イヤ先代の御殿には慥かに聞へ升が、浄瑠璃には皆目少しも成つて居升せぬ、先づ暫くの間、堂島の御宅へ或る太夫を差上げ升から、何なり御稽古をなさつて御覧じませ、其上で私が一度伺つて、又御稽古を初めませう」
と一度で破門せられた。夫から或る太夫に押掛けられて、鰻を毎日三箱四箱と喰ひ倒ほされ、ボツ/\と稽古を初めたのが、此忠六である。要するに庵主が斯道の手解きは、忠六である。夫から、『深編笠の侍二人(ふたり(*ににん))』と遣り始めた、処が『ザーイ宿を――召さるゝか』から、勘平の突込まで聞されるのに、半月も掛つて、鰻は五十箱位は喰はれたのである。夫が段切になるまでには、何でも凡五ケ月位になつたと思ふ。夫から大掾の前に両人で行つて、大掾に叩かれて語つたら、初めから仕舞まで雪崩を打つてメチヤ/\になつて(*直され)、今まで何の稽古をしたのか、サツパリ分らなくなつた。夫に可笑しい事には、大掾が庵主には一言の小言も云はず、其或る太夫に斗り小言を云ふのである。
「お前はんは、ドンナ心得で『原郷右衛門、千崎弥五郎、御意得たしと音のふ声』と声を替へてお稽古を仕なはつた、此は先に立つて居る郷右衛門が一人で云ふのだんがナ」
と云ふやうな訳に遣らるゝのである。庵主は婚礼の晩の花嫁御の様に、押黙つて坐つて聞いて居る斗りである。或る太夫は、只ピヨコ/\頭斗りを下げて居るのである。殆んど一時間半も叱られて両人で大掾の家を引下つたが、何処かの河岸を歩行する時、或る太夫の云うた事を今でも忘れぬのである。
「旦那はん、アンタのお稽古を仕た為めに、私はドヱライ良い事斗りを覚へました、是から一層勉強してお稽古に参りますよ」
と云ふから、庵主は腹を立てゝ、
「何を云ふ、此馬鹿者奴、小半年も掛つて仕た稽古は、全部糟も残らぬ程打破はされ、洗ひ流されて、喰はれた鰻の箱は敷切れぬ程である、日本国中にドレ程の大馬鹿が居つても、是以上の者は決して有るまい、俺は当分コンナ馬鹿事は止める」
斯ふ云うたに相違ないのである。夫から一ケ月も経つて、稲岡と云ふ裁判官の宅で、大掾に面会したら、
「旦那様、忠六はマダ御勉強で厶い升か」
と云ふから、
「俺は忠六でさへ、人間生存の意義が怪しく成る位馬鹿になつたから、此上忠四とか忠七とか忠九とか、質屋の伴頭見たよふな者と取組をしたら、洋服を着た人間の糟が、大阪の町を歩行くよふになるから、モウ当然浄瑠璃と絶交をしたよ」
と云うたら、大掾は堪へられぬ程笑つて、
「夫は旦那様一番好い御分別で厶い升よ」
と云はれて、弥惘れ返つたのである。夫から後年段々此段を研究したが、第一此段の文章が非常に悪い。『薬は無きやと懐中を探り見れば……手に障つたは此財布……天より我に与ふる物と直に……弥五郎殿に手渡し』(*『薬は無きかと懐中を探り見れば……手に障つたは財布に入つたるこの金……天より我に与ふる金と……弥五郎殿にかの金を渡し』)云々一体何と云ふ事であらう、武士たる者が人を統殺して、薬は無きやと懐に、手を突込んで財布が有つたので、直ぐに天より我に与ふる物と云つて、夫を盗んで溜るものでない、作者の非常識にも程があるので、庵主は茫然として此の作者の常識を疑ふたのである。夫から当然此段を書直そうと思ひ立つたが、サア困難である。是非勘平が此金を取らねば、腹を切る事が出来ぬから、色々と工夫をして、武士道として止むを得ず、取る事に組立直そうとして、トウトウ唐の陸績が、袁術の家に於て、母の為めに橘を盗んだ故事などを引出して、やつと勘平に此金を取らせる事に書直したのである。夫から語る方の事は稽古を仕直したが、何様四段目語りの大達者錦太夫の風であるから、異様な声を利用して、ミツシリ四段目を語り抜いた人故、其音遣ひの風の困難な事と云うたら、矢張結論は馬鹿気切つて居たのである。短かい物ではあるが、庵主今日に至るまで、此忠六にはホト/\閉口して居るのである。故に聊か此忠六稽古の馬鹿咄を書いて責を塞ぐのである。読者は宜しく機微の間を察して、此忠六の語り方を会得せらるべしである。
 最後に此錦風と云ふ事を一言云うて置く、此は大掾も大隅も庵主に遺言のよふに常に云うて居た事である、何様此錦太夫と云ふ人は、異風の音を遣つて四段目の風と品位とを極めた人故、夫を呑込んで居らぬ事には四段目と三段目は語られぬ事になる程の一大事であるとの事、夫から音遣ひでなく、節がゝりの方でも元祖から伝はつて居る節の中でも、後世錦風と称して居るのが沢山ある。喩へば『公暁法師と申せしは此若君のヲヲン、コトヲ、ナア、アーアーリ』(市若)、又『源蔵ハーア胞を(*胸を)、据テーゾ、イイイー、リイニイ、イイ、ケヱーヱーリ(*イイイー、リイニイイイ、ケヱーヱーリ)』(菅四)、『是の(*爰の)道埋イイ、ヲヲーヲヲ、キキー、イイ、イイー、イイ、ワケーヱテ、妹(いも(*いもうと))の初花を(*「イイー」を削除(某太夫の意見))』(玉三)の如き皆錦風との事である。又四段目の音遣ひは増補布引の四ノ切などを研究すれば分るとの事である。