(二十) 仮名手本忠臣蔵 四段目切 判官切腹の段

 此段は寛延元年辰八月(大正十五年を距る百七十九年前)竹本座に上場せられ、作者は竹田小出雲、三好松洛、並木千柳であると思ふ。役場は竹本政太夫の筈である。予ても云ふ如く他の浄瑠璃には流義の家元があつて自から又其風がある。長唄には杵屋、一中節には都と云ふ如く、チヤンと一家を建てゝ居るが、義太夫節には家元がない。夫は如何にも劇の創作が広大にて、ドンナ名人でも一人で丸本全部の五六段を語り通す事の出来ぬ、大仕掛けの組織であるから、一生懸命で修業して、鍛練したのが、一段か二段である。故に此外題では、筑前掾が大序と九段目の山科と七ツ目の由良之助と語り、政太夫が四段目と十段目の天川屋と七ツ目の平右衛門を語つたのである。夫に後世四段目の方は、八ケ間敷云うて修業すれ共、十段目の方は追出の語り物のやうに心得て、馬鹿にして居るは、言語道断である。矢張チヤンと政太夫風の備はつた物であるから、庵主は故豊沢広助に、丸本の黒朱を調べさせて、立派な語り物に仕て置かうと思つて居た位である。菅原伝授でも、筑前掾が、大序と三段目の茶筌酒、喧嘩場から、訴訟から、桜丸切腹まで語つて居り、政太夫が道明寺と天拝山とを語つて居る。夫に後世、其段の家元の風を滅茶苦茶にして、道明寺は八ケ間敷いつて、天拝山の方は馬鹿にして居る。桜丸は大事に河内風など修業すれども、其前は馬鹿にして居る。夫では風はないのである。風がなければ、義太夫節は千段も二千段も、一つ節を覚えて、三味線に合ひさへすれば、「スエテ」も「ハルフシ」も「文弥」も「中落」も「色」も「中」も同じ節で語れるのであるから修業も何も要らぬのである。
 此判官切腹の段は、第一語る心得が六ケ敷い修業である。ドンナ身分の賎い太夫でも、腹の修業に心持が出来て、播州赤穂の城主、五万三千石の大名の、江戸屋敷であるとの心持が、此段を語るのである。
 先づ『浮世なり』と云ふ三重が「裏」で、最も沈重静穏の気に充ち/\て語らねばならぬ。四段目の「三重」には、多く「裏」で出る事が多いが、此「裏」は一種特別である。夫から枕半枚は容易の心掛では云へぬ。大抵泥濘を象が歩るくやうに語るか、講釈師が居睡りを仕て居るやうな語口に了るが、ソウデはない。只腹に呑込んだ厳粛と、悽愴の気で語るのである。即ち『塩谷判官』と語り出すに、政太夫の風がある、『扇ケ谷の上屋敷』と言ふに四段目の音がある、『事厳重に見にけり』と云ふに、云ひ得られぬ悽愴の気が漂はねばならぬ。『かゝる折しも』から気を変へて、品良く語り、音使ひと「ギン」の音とを落付かせる事を忘れてはならぬ。郷右衛門と九大夫は「色」に語つて、外は大抵「中」に語る事は皆人の知る処である。此は多く四段目にある条件である。『早玄関』から総て河内風を忘れるやうに(*忘れぬやうに)、品良き「中」の音にかゝつて運んで行き、「石堂と薬師寺」の語り分けが、政太夫が天下一品であつたとの事である。『加古川本蔵に抱き止められ』は『やらんに抱き止められ』の方が良いとの事。『湊川にて楠正成』は云はぬが良いとの事。『廊下の襖踏み開き』は『刎ね開き』の方が良いとの事。『ハット計りにドウと伏す』の一語は、御上使に平伏するのではない、『主人の有様見るよりも』ハット腰を抜す如き驚きと、落胆の『ハット計り』である。其次に来る『ハヽヽヽヽヽ』は御上使が進めと言つて許せども、一寸腰も立兼ぬると、一方は敬意を御上使に表するのと、二つの意味にて、『ハツハツハヽヽヽヽヽ』と云ふのである。判官の遺言は、息で聴衆を釣付けて置いて、最も低い小声で、大星に云ふ、夫が大劇場でも聞えるやうに、芸力を養はねばならぬ。『拳を握り』云々の「クリ上」は、尾籠にならぬやうに、大星の腹合が聴衆に徹底するを主として語る。『シズ/\と舁き上ぐれば』は此上なき憂を含んで語る、『御台所は正体なく』は人目も構はず、泣いて良いとの事である。『嘆き玉ふを慰めて』は、是非「地色」に語らねばならぬとの事。『御菩提所へと急ぎ行』は、此一句を今一段語る積りにて、ユツクリと充分に憂ひを含んで語れと云ふのが教ヘである。