(十九) 花の上野誉の石碑(せきひ(*いしぶみ)) 四段目切 志度寺

 此外題は延享五年辰の二月(今大正十五年を距ること百七十九年前)、江戸肥前座にて上場した筈。役場は竹本住太夫と思ふ。此の人は二代目政太夫の弟子にて、住吉屋文蔵又国根ともいふ大達物である。加賀見山の七ッ目長局の段、又は伊賀越の八ツ目、岡崎雪降の段等も此人だと聞いて居る。此住太夫と云ふ人の風で斯芸の語り方が一段確定したとの事である。即ち「ツメ仮名」「ツメ間」と云ふ事に政太夫の真随を会得し、鍛練に/\を重ねて語り出した人で大隅や大掾などは其権化たる団平と火水になつて修業した人である。夫が古浄瑠璃の根本で、語ると云ふ事の起る本である。一二例を云へば、「長局」でも『見送りて』と云うて仕舞ひ、『スズリーノヲヲ』と云うて仕舞ふ。「岡崎」でも『既に其夜』と云うて仕舞ひ、『雨につけ風につけ』と云うて仕舞ふ故に、「志度寺」でも『見送りて菅の谷は』と云うて仕舞ひ「カヽリ」でも「チン」間を「ツメ」て『届かいで』と云うて仕舞ふが風である。其中に云うに云はれぬ情合の腹を見せる。此が総ての浄瑠璃に漂ふ事成つたのであるとの事である。作者は司馬芝叟、筒井半幸、其他三人であると思ふ。此段は書下しより大正十五年までの百七十九年間に、多くの名人を殺した役場であるが、或る時代には、此段の事を小塚ツ原と仇名した事があつた。即ち命を取らゝる段と云う訳である。今は命を取らるゝ程魂の入る、息の詰まつた芸人も居まいが、昔日から幾人も此段で倒れて、終に彼の豊沢団平も打止めに、此段で死んだのである。
ナゼ夫程豪いかと云うに、第一『聞より菅の谷口惜涙、物をも云はず一間の内、かけ込む向ふへテテン』と云う其『向ふへ』と押掛、息が、女の息ではあるが、弓を張つたやうに強い息でなければならぬ。『駈け込む向ふへ』と云うて息を詰めて、無際限に待つて居ると三味線の方でも『向ふヘ』と云ふエの仮名で息を取つて一所に「ハアッ」と息を合せて持てる丈持つて居ると、「テテン」と受ける、ソコで太夫は其「テン」で大きい息を入れて『源太左衛門』と語る。其処が大隅が第一に稽古に苦んだ処で、遣つても/\も源太左衛門は出て来ぬのである。夫からお辻の出が又六ヶ敷い。次に源太左衛門の「笑ひ」は躄りの滝口上野と同格位の難物で、躄の方の『胸の剣を呑み込む滝口……小田原さして出て行く』と、此段の森口の引込みは『高慢我慢、門弟引連れ森口は、悪口たら/\立帰る』を語る心持はヤヽ同じてはあるが、云ひ得られぬ妙味が無くてはならぬのである。大掾は此源太左衛門の引込に大いなる苦労をしたのである。夫から大難所は砂書である。その『花は昔し』の前に団平が其送りを弾く時、「テツン」と打撥が何の蚊のと批評は入らぬ、只だ満場の聴衆がビックリする程で毎日/\/\楽屋の者共までビックリして居つたとの事である。或者が団平に「お師匠さんアノ送りの「テツン」斗りは私共の非力では帰宅して何百度弾いて打つて見ましても、皆目音が仕ませぬが、夫も修業と勉強さへ致しますれば、アンナ恐ろしい音がする様になれるものでせうか」と聞いたら、団平は其弟子の顔を見詰めて「私は昔日から志度寺を度々弾かせて貰うて来たが、皆ンナ「マダ足らぬ/\/\/\/\」と斗つかり云はれて来たので、今お前の云ふやうな誉め詞は聞いた事がない。お前等ソンナ事では芸は駄目じやよ。其今の送りの処斗りを弾かふと思つて居るサカイ駄目じや。前からズーーツと弾いて/\/\弾込んで来て、アノ送りが弾ける訳になるから、送りが弾たければ前をウント修業しなハレ」と云はれたので、「夫れなら一生掛つても弾けませぬ」と云いたくなつたと云ふ咄を聞いた事がある。『花は』から『今は老木の乳母お辻』此からコロット気を変へて、淋しく沈んだ中に、尖く聞こゆる処がなくてはならぬ。砂書のヨミクセも六ヶ敷いが、夫は芸人が大抵知つて居るから、習ふがよい。祈りの場も種々の口伝があるが、夫は実地に就いて修業するのがよい。一体此段は、修業鍛練の結果を以て、語れるとか語れぬとか云ふべきもので、只だ聞いた丈位では迚も遣られぬものである。大正二三年の頃、庵主が前の鶴沢仲助を連れて博多に行つて居たら、三代目越路太夫が突然に来た。庵主は不思議に思ひドウして来たのかと聞いたら
「私は今久留米で興行をして居り升が、旦那様がお出になつて居ることを新聞で知り升たから少々お願があつて参り升た。其次第は私もモウ御覚(*御覧)の通り、両鬢に白髪が出て来升たが、只今大掾師匠に毎日志度寺の稽古に参つて居り升が、先月大阪を出升までに、丁度半期になり升が、マダ中々源太左衛門が帰へらして貰へませぬ。旦那様が今度お帰京掛けに、大阪で師匠に御面会に成升たら「越路も大分白髪も出て来て、可愛想じやから、モウいい加減に源太左衛門を帰へしてやつてくれ」と、旦那様から一声お掛けを願いたい為に参り升た」
と、之を聞く庵主は忽ちにして両眼に涙を浮べて同情した。夫から帰りに摂津大掾に逢つて、其事を云ふと、日頃篤実なアノ大掾が忽ちにして、忿怒の形相となつて、
「ソンナ事を越路が申升たか、夫は本人がモウ会得して居るのに、私が故意に無理な稽古をすると云ふ、旦那様に対する彼が告白で厶い升。私も可愛い弟子の事で厶いますから、会得さへ付て呉れ升れば大喜で厶い升。アノ奴マダ中々志度寺の会得と云ふ所まで参り升せぬから、私も心で泣いて悲んで居る処で厶い升。只今其咄を聞升て、私はモウアノ奴の事は絶望致升たから、今日限リアノ奴の稽古は一切致しませぬ。永年アノ奴を御贔屓下さいました旦那様に対しては相済みませぬが、芸道の事は致方厶りませぬドウか悪からず…」
との屹相である。庵主も扨て飛でもない事を云ひ出して、是は大変と思ふて、手を変へ品を変へて説得したが、大掾中々聞かず、庵主はトウ/\二度目の下坂に、越路の申分を取消として、無事に済んだのである。其時に庵主はフツ/\ソウ思ふた。アーァ何程好でも、志度寺などは稽古するものでないと。今日本一の越路太夫でさへ、其修業の惨憺たる事は斯の通りである。是が何よりの証拠の現実であるから、是で何事も説明が出来るのである。