(十八) 義経千本桜 三段目切 鮨屋の段

 此外題は延享四年卯十一月(大正十五年を距る百八十年前)竹本座に上場した物と聞く、又作者は竹田出雲、並木千柳、三好松洛の三人と聞く、役場は斯道中興の祖とも云ふべき、豊竹筑前掾、即ち竹本此太夫であるとの事、人形遣ひの吉田文三郎は、此外題で独特の工夫を凝らして忠信の人形に源氏車縫箔の広袖を着せて、後世の型となつたとの事である。庵主の永年の経験では、
摂津大掾の此段は前半が良くて後半の方が不十分に感じた。
大隅太夫の此段は前半が不十分で後半の方が良かつた。
三代目越路太夫の此段は全体に良く語つては居たが、音遣ひに足取が筑前風にならず、芸を聞いても恐気が少しも無かつた。
大掾の惟盛、内侍、六代の上品さは誰も真似が出来ぬが、権太と梶原の腹合に満足しなかつた。
大隅の惟盛、内侍、六代の品の悪るさは、天下一品であつたが、権太、梶原の面白い事も亦た天下一品であつた。
越路太夫の各々の人形は其腹組が受け取れなかつた、夫は良く語る事に努めた弊害と思はれた。
斯くの如く此段は誰が語つても満足には行かぬ、近代の名人大家が語つてさへも完壁(*完璧)とは行かぬので、此段の満足なのは只だ型を残した此太夫一人であるかも知れぬ。此を聞いて見たらばドウだか分らぬが、何様大正十五年から百八十年前の事であるから、誰れも聞いた者がない。只だ残つて居る風格に因つて考へて見るに、大分場外れの名人で、其の修業の苦心も努力も恐気立つ程に練上げた音節と思はれる。此筑前風は大掴に決して忘れてならぬのは、「ハルギン」の音と、「ハリ切」の音と、「ギン」の音の遣ひ分けである。大略夫さへ分れば筑前風じやと云ひ得られるとの事である。
 先づ『春はこねども』の三下りが「ナヲッテ」、『風味も』と云ふが「ハリ切」から出る、『早漬に』も『味い盛り』も一寸とは「ハリキリ」「ハルギン」の音に響いて、挨拶をせねばならぬとの事、此等音の挨拶が全く風であつて、『モウ戻らるゝ』も『噂半へ』も『明桶荷ひ』も同じ事である、其他『優男』『冠きせて』も又同じである、夫から『おことが様な者あろふか』の音遣ひがシットリ据はらねば『昔はいかなる者なるぞ』との播磨大がゝりの節が品よく語れぬ物であるとの事、此以下皆音遣ひに馬鹿げた勝手な事を云はず、丁寧に修業してキッチリ覚えて後でなければ語つてはならぬ。『栄華の昔父の事』の結びは決して声を聞かせる了簡ではならぬ、全く惟盛の境遇に同情し、浮世の盛衰を思ひ遣つて心で泣いて語らねばならぬとの事。それから『娘お里は今宵待つ』の「長地」からは全く気を替へて語る事、『奥へ行跡』の「ハルフシがゝり」も皆此種は「ハルギン」に挨拶する事、『蒲団敷』からパット変りて、『惟盛卿はつく/\と』と云ふ腹構へと心持と運の語り方の良かりし事、天下摂津大掾の右に出る者はあるまい。只此五行(いつくだ)り斗りの文章で毎日ホロリとさせたのである。夫から若葉内侍の出の「地ハルサワリ」と云ふ文弥がゝりの三味線は先代の江戸堀吉兵衛の右に出る者はあるまいと思ふ、夫から先の「ウケ」は皆格別に悪るかつたが、此文弥の「チン、チリンチテテレツツン、ツツンツン、ツン」と弾く其音と云ふ物が天下一品で、其間の大きさと鮮やかさと云ふたら、誰も真似は出来ぬ何百年でも残る程の文弥であつた。又夫から先の「ウケ」の良かつたのは先年死んだ広助(絃阿弥)であつた。此人の「間弾き」「ウケ弾」は又前後に誰も争ふ者はないと思ふ。只だ感嘆する斗りであつた。此広助が寺子屋の『嘆きも漏れて菅秀才』から以下と、鮓屋の『神ならず』から権太の出迄の弾方は、庵主の聞いた多くの中で広助が大関であつた、其他の多くは全部駄目/\/\である。コンナ処は全く修業と、一心の平生に於ける鍛練が熟して、コンナ面白い芸が出来るのである。『知らぬ道をば行迷ふ』の「ギン」の音遣ひは大隅太夫が良かつた。『早くも結ぶ』の処の「トンジャン」此に太夫の力丈の「間」があつて『夢の体』と出るのである。夫から又太夫の力丈の「間」があつて『表に内侍は不思議の思ひ』と語る、総てコンナ心掛けで芸はサラ/\と出来ねばならぬのである。三代目越路太夫が文楽で語るのを聞いた時、『都でお別れ申てより、須磨や屋島の軍を案じ』「テン」に付いて『一門残らず』と出て来たから子供の時から贔屓の庵主は聞いて居られぬので、宿に呼んで「浄瑠璃はよく語つても、筑前の風になって居らぬ、『都でお別れ』は「中ギン」から出て『軍を案じ』「テン」『一門残らず』は「ハリキリ」に挨拶して出ると大掾よりも大隅よりも聞いて居る、お前も其辺に気を付けて語つて筑前物は筑前風に語つたがよいと思ふ、夫と云ふもお前が只語る事斗りを考へて古浄瑠璃と云ふ物を知らぬからの事じや、夫が分らねば、斯芸は全部滅亡じやぞ」と云ふと、越路は腕組をして考へて居たが手を突いてお辞儀をして、
「有難う厶い升、鮓屋は総て其音で厶い升か」
と云ふから、
「ソージャ付き離れは別として音は総て其心掛と聞いて居る」
と云ふと越路は屡々礼を云うて帰つたが、其翌年東京の歌舞伎座に来た時、庵主が聞に行つたら、只の一ケ所も「ハルギン」「ハリキリ」「ギン」の音を間違へずに語つて居たので、庵主は驚き賞讃の余り褒美として羽織一枚と、庵主が大事の印籠とを遣つた。此男は権太以上に語り取る太夫と、今一つ咄になつて居る。以下能く習ふて練修して語るべきである。