(十七) 菅原伝授手習鑑 四段目切 寺子屋の段

 此外題は延享三年寅八月廿一日(大正十五年を距る百八十一年前)初日にて竹本座に上場せし物と聞く、同年 十月廿五日まで大入を占めた事六十五日間である。作者は竹田出雲、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲で、役場は豊竹島太夫であるとの事。此人は前にも書いた 通り、日本一の美音で三段目、四段目語りの大立者で、後には二代目若太夫に成つた人で、本名スワ町平衛門(*周防町平右衛門)と云うた。此段は素より四段 目に手が付いて居るから注意は当然の事であるが、何にせよ前の段は斯道中興の祖と云はれた筑前掾が、大序と三段目を語つた後に、此四段目を島太夫が語つ て、今日まで大流行する程、上出来であつたのであるから、一通りの事で引受られる役場ではないのである。先づ第一に紋下の筑前掾は大序と三段目即ち茶筌酒 の場、喧嘩の場、訴訟の場、桜丸切腹の場をブツ通して語るし、錦太夫は序切と北嵯峨の場のニツを語り、百合太夫は加茂堤の場と車引の二ツを語り、紋太夫は 二段目の道行と汐待の場と五段目のカケ合の三場に出場し、杣太夫は道行と五段目のカケ合に出場し、島太夫は杖の折鑑と東天紅と寺子屋の段とを語り、政太夫 は道明寺の切と天拝山を語り三味線弾も鶴沢友二郎、竹沢伊左衛門、鶴沢本三郎、同平五郎等、人形では初代吉田文三郎や桐竹助三郎、同門三郎、山本伊平次等 の腕揃で必死の活動をしたので、斯くは指道(*斯道)の大盛況を呈したのである。今時の太夫、三味線弾の如く、蚊細く蚊弱い者計りでは滅亡するの外ないの である。此大序の時間は、今時の紋下殿は丁度真夜中頃で、嚊と寝て居る時である。其他の切語りの太夫にしても一段を語る者は一人もない。
 先づ此の寺子屋の段は、音を「ハリ切」に通はするは勿論であるが、「三上」と「中」の音に最も大切な注 意をして修業して居る太夫は滅多に聞かぬのである。即ち『近付に』『機嫌まぎらす折からに』『主の源蔵』『色青ざめ』『あたりを見廻し』等平一面、「三 上」や「中」の音等計りが組立の基礎となつて居る。夫から此源蔵戻を六ケ敷/\と云へ共、太夫の語るのを聞いて見れば一つも六ケ敷所はない。夫は腹か抜け て居るから六ケ敷事も面白い事でないのである。即ち合邦の前でも此の寺子屋の前でも二人でブツ/\云うて居る間の腹構への六ケ敷のを、六ケ敷と云ふのであ る。昨今に『心ならず女房立寄』の「色」が成つて居るのが一ツもない、夫が腹に出来て居れば跡は語れる筈である。夫から『屹度見るより暫くは』で源蔵がモ ウ身代と思付くから駄目になるのである、コンナ所の源蔵は太夫も大事を取つて、腹に持てる丈け持たねばならぬ。即ち太夫の腹力の見える大事の所である。 『暫くは打守り』の「スヱテ」が四段目の「スヱテ」で、増補布引の四段目の『ハツト計りに行綱は暫し詞もなかりしが』も、夕霧の『伊左衛門ハツト堰いたる 顔色にて暫し詞もなかりしが』も皆四段目の「スヱテ」である。夫から『忽ち面色和ぎ』でモウ身代と思ひ付く、夫がマダ行かぬ。其弱身を遁がるゝにはマダ疑 の心を以て『忽ち面色』と云ふて『和ぎ』を「中」にさへ(*「中」に)、ソーツと語ればマダ持つて行かれる物である。『ムウ器量勝れて気高い生れ付、公卿 高家の御子息と云うても恐らく辱かしからず』と軽く独言に語りて此で息で止つて『ヲゝ。テ扨てソナタは。マゝゝゝゝゝ。よい子じやノウ』と長門太夫が語つ た時は、其息組みに見物も引倒ほされる程驚いたとの事である。総て斯る所は太夫の腹構へ計りで生きて来る物である、夫が源蔵戻りの六ケ敷所である。松王の 『ヤレお待ちなさアれと』は遠い所から云ふて、『暫く』と「中」で云ふ事、『憚りながら』から傍近く物を云ふ事、『病中なから』『病身の願』等総て腹で拵 へて息で「ヘタツテ」云ふ、之を仕込と云ふ。夫でなければ二度する咳が生きぬ、此松王作病の拵へが首実検の時三度目で様子を覚られまいと云ふ、即ち『ム ウ、こりや是菅秀才の首打つたはまがいなし』と大きく云ふて大きく咳をして、息で『相違なし』と語るのである。『時平公のお目に掛けん』と云うた後、直に 松王が物云うてはイカヌ、如何にも病苦に悩むよふに、息で低く『イカ様暇取つてはお咎も如何、拙者は此よりお暇給はり』と云うて、息で『病気』と止つて低 く『保養を致したし』と云ふ事。『玄蕃は館へ』と高く云うたら、息で「ヘタツテ」、『松王は駕籤に(*駕籠に)』、又息で腹に泣いて「ヘタツテ」「ユーラ アーレーテ」「テツツン」をゆつくり弾かして『カーアーアーアア、ヱヱヱーリーイイ』「ツントン」と又ゆつくり弾かして『ケーヱーヱーリーイイ』「トン。 トン。トン/\/\/\」と此所で庵主が弾かして置いて湯を呑んだら、大掾はピタツト稽古を止めて仕舞うた。曰く、
「私は皮肉でアンタを苛るのでは厶いません、折角此所まで力を入れてお稽古仕やはつたのに、其処で湯を呑 みなはる位ならお稽古は丸で出来て居ませぬ。源蔵夫婦は戸の内より息を詰めて外の様子如何にと窺ふて居る所ダツセ。大隅は此所で「トン。トン。トン」と弾 くのに息を抜いたので団平師に「ドヤサレ」ましたと云うて居ましたから、私は「夫はお前が師匠(春太夫師)の語りやはるのを聞いて居ないからだ」と申升 た。師匠春太夫は此所では『夫婦は門の戸』まで、目が血走つて居升た。アンタ湯を呑みなはるなら『あたリキョロ/\見合せり』で、ゆつくり呑んだらどふだ す、アンタは此所で丁度貧乏人が晩の米買に行くよふに、息が駈け出して居なはるさかいコンナ事に成升、今夜は宜ふ思案して置きなはれ、明晩又聞に参り升か ら」
と云うて大不機嫌で帰つて仕舞うた。夫から『健気なヤアツーウウヤアアーアア』と音を遣ふたら、大掾に又叱られた。
「ナゼそんな所で売りに来やはり升、見ツともないじやおまへんか、前には『立派な奴、悧巧な奴』と云うて 居なはるじやないか、只だ息を詰めて『健気な奴』と詰めて止まつて居やはれば、ドンな阿房の三味線弾でも屹度迎へに来ますがナ、其時に『ウーウウヤーアー アア』と云うたらドウだす。夫でないと又『コーコーヲヲーノーツーウーデ』でと云はれぬ事になり升じやおまへんか、『九ツで』と「色」にでも云はねば始末 が悪るいではおまへんか、ソナイに新町(*清水町)の師匠に死別れて外の三味線引で我儘を云うて居る大隅や、年取つてドウにか前をせねば商売が出来ぬ私な どの講座でする悪るい事計り覚えやハツテはドモなりまへんがな、アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えて上げたいと思ひ升て、一々調べた上でお 聞かせ申て居升がナ、少しは気を止めて聞トクンなはれぬと困り升がナ」
と木葉微塵に叱られた。
 夫からいろは送りの段切り、人形分けをハツキリしてなら唱ふても宜い。

参照:杉山茂丸(其日庵) 三代竹本越路太夫宛書簡 国立劇場上演資料集481:120-126,2005.9.10