(十六) 菅原伝授手習 三段目切 佐太村の段

 此段は延享三年寅八月(大正十五年を距る百八十一年前)竹本座にて上演した物と思ふが、役場は竹本筑前掾(*豊竹筑前掾)(此太夫)、作者は竹田出雲、並木千柳、三好松洛であると思ふ。此の人は義太夫節中興の祖と云はれ、「低調子の初まり」にて名人である。常に故師豊竹越前掾の孫に当る豊竹島太夫、即ち二代目若太夫を輔佐して引立てゝ居たが、此の芝居にては、自分が三段目を語りて、島太夫には四段目の寺子屋を語らせたのである。サァ此処を今時の太夫共が良く味はねばならぬ。役争ひや顔揉斗りをして、其語る芸術は何を語つても、同じ節と同じ音遣ひ斗りでは物にならぬ、素人やお三ドンの焚いたゴチ飯のよふに、口に入れても咽に下がらぬ物斗りを語つて、人に聞かせるのは、罪悪の甚敷ものである。此筑前掾の語り風は、種々の口伝もあるやうじやが、先づその一二を云へば「ハルギン」と「ハリキリ」の音を上手に遣ふことが、其風の最も著るしき物であるとの事。
此人が延享に此菅原を出した時、島太夫の前を語つて、先づ「大序の口」と、三段目を「茶筌酒」と、「喧嘩場」と、「訴訟」と、「桜丸の腹切」とを、ブッ通して語つて居る。ソウして島太夫には四段目を語らせて居る。又夫から六年後、宝暦元年未には、一の谷嫩軍記を出して、其時には此島太夫に「須磨の浦組打」を語らせ、筑前掾が三段目の「陣屋の段」を語つて居る。今時の太夫は、此佐太村を三ッにも四ッにも分けてゞなければ、語らせる資格が無い物斗りとは、情けない事ではないか、況んや大序などは「紋下」の太夫の語る物ではないと心得て居る。
 先づ『年は寄つても』から語るとすれば、其送りは『あらず戻られし』が「宮戸風」であるとの事。『今日の御祝儀、お目出度い』は松王梅王の二人の詞である、大隅太夫は『塵をひねらぬ斗り也』の声が初役の時徹底せぬと云ふて、心から慣慨して居た。又『雑煮祝はしてたもやいの』と「ツン」『折れた桜は見ながらも』「トン」『誰(たれ(*た))が仕業ぞと咎めもせず』等の「三味」と「語り方」が前後を押へ付けた、何とも云ひ得られぬ丈けの面白き心持が漂はねば話にも何も成つた物でない。「スヱテ」の節も、総て「ハリキリ」の音が漂はねば風にならぬ。総て何処も彼処も「ハルギン」と「ハリキリ」の音に妙味を持たせる事。『夫婦は門ヘ、白太夫は唾を呑込んで』「チーン」「ウレイ」『奥へ行』の処で、庵主が曾て故鶴沢仲助と引合せをして居た時、庵主が大事の金に松の高彫した矢立に朱を入れ章を打つて研究して居たのに、仲助が『唾を呑込んで』の次に「チーン」と弾いた「間」と、腹込と「音(おん(*おと))」が如何とも云ひ得られぬ情の強い気合と腹合と「間」に弾けたので、庵主は思はずポイと白太夫になつて、『奥へ行』が心の底から云へたので、嬉しさの余り、後を語る事を忘れて、仲助の顔を見詰めて居たら、仲助は自分が弾いた「間」が悪るいのかと思うて、
「イケマヘンか、モ一度遣つておくんなはれ」
と云ふから、庵主はソウでなく、余りの面白さに何か褻美(*褒美)を遣りたいと思ひ、手当り次第の物を心で探して居たが、生憎羽織も着て居らず、煙草入もなく、手に触れた右の金の矢立を執つて、
「俺は永年菅原の三段目を研究して居るが、今お前が弾いたやうな、白太夫の這入の「チーン」を聞いた事がない、余りの嬉しさに之を「チーン」の褒美に遣る」
と云ふて、其矢立を投出したら、仲助は見る間に座蒲団を下りてお辞儀をして、
「私はソンナに賞めらるゝ、今の「チーン」をモウ忘れて仕舞い升た。只だアンタが『白太夫はーア唾を呑込んで』と云やはる時、白太夫が今度出て来る時には、子供の桜丸に腹を切らせる刀を、三宝に載せて出て来ねばならね(*ならぬ)のじやから、アンナ腹で、アンナ足で、アンナ心持で語りやはるのじやナァと、コウ思ひ升した丈けで、今はドンな「チーン」を弾いたか分りませぬ。併し私の此下手でも、此「チーン」一つで金の矢立を戴き升たと云ふのは、一生に二度とない冥利で厶い升から家の宝に致し升」
と云ふた時は目に涙を一杯溜めて居た。故に芸術は人に聞かす物、人に見せる物と思うては間違である。自分が人も我を忘れて、其境涯になつて演ずるので、夫を無心の第三者が、見物となつて見たり聞いたりするのである、故に云換ゆれば、
「芸人が我れを忘れて、其境涯になつて楽んで居るのを、外から見て面白いとか、面白くないとか感ずるのである。其無我の境になるのが修業である」
夫から『兄弟夫婦に引別れ』から、桜丸の「地詞」は、多く「河内地」に語り、白太夫の「地色」は、筑前風にて、殊に情に迫つた息で語り、又お八重の「地詞」は、例の「ハルギン」「ハリキリ」の音にからまつて何とも云へぬ面白い運にならねばならぬ。殊に段切になつては「大和地」と、「地色」とからんで一種特別の「ノリ地」に語らねばならぬ。コンナ事を書けば限りもないが、此僅か斗りの『年は寄つてもから』の修業でさへも、義太夫節中の興味には限りなき面白味があると云ふ事を味ふはねば(*味はねば)ならぬのである。