此外題は延享三年寅正月(大正十五年を距る百八十一年前)、竹本座に上場し、作者は竹田小出雲、並木千柳、三好松洛である、役場は豊竹筑前の掾と思ふ。故竹本摂津大掾は八十歳の老齢で、此段を引退の語物とした。三味線の豊沢広助(名庭絃阿弥)も七十余歳の老体で勤めたが、庵主此の時、出抜けに下阪して、文楽座に聴に往つたら、大掾が庵主の旅宿に来て曰く
「旦那、今日出し抜けにアンタのお顔を見升したサカイ、甘く出来ませなんだ、明日最一度聴いておくんなはれ、今日は是から広助と弾合せを仕升て、明日は講座で語り死ぬ積りで語り升サカイ何にしても明治十四年から、アンタに御贔屓になつて、四十年近く聴いて貰うた語り仕舞ひの聴いて貰ひ仕舞でおますサカイ、此親爺の語り死ぬ所を聴いとくんなはれ」
と云うて帰つた。サァ大変、明日はシツカリ聴かねばならぬと、朝早くから他の用を片付けて、用意を仕て居ると、其所へ大隅太夫がヒヨツコリ来た。丁度鶴沢仲助も連れて往つて居つたから、咄が大ハズミである。ソコデ庵主は、
「ヲイ/\今日はソンナに八ケ間敷云うて呉れるな、昨夕大掾の親爺が来て、明日は語り死ぬからモウ一度聴いてくれと念を押して帰つたので、夫をシツカリ聴かねばならぬから、色々外の咄を聞いて、頭が乱れると困る、飯を喰うてソロ/\出掛けねばならぬから…」
と云ふと、大隅も仲助も、
「お伴して宜う厶り升か、何にしても師匠が語り死ぬと、旦那に誓言立てた芸を聴かずには居られまへんから」
と云ふから、
「宜しい連れて往くから」
と云ふと、大隅が、
「私は新町(*清水町)の師匠(団平)に、脂も抜ける程責められて稽古致升した」
と大天狗である、ソコデ庵主は、
「其お前の修業と大掾の語り口は違ふか」
と問ふたら、大隅は大得意になり、
「中興の元祖此さん(筑前掾)の風で、厶ります丈け、私の考へ違ひかも知りませんが、二見の師匠(大掾)の語り方とは大分違ふ所が厶り升、(第一)枕の運びが違ひ升、(第二)爺媼の思惑の詞の立方が違ひ升、(第三)二人の嫁争の息の使ひ方が違ひ升」
と云ふから、
「ドンなに違ふのじや」
と云ふと、大隅は飯を喰ひ止め、茶碗も著(**箸)も下に置いて、
「コゝがコウ違ひ升、アソコがコウ違ひ升」
と一々膝を叩いて講釈を始めた。油を掛けて煽てた庵主の面白さと云うたら無い、何にせよ命掛けで稽古をした大隅が、真面目になつて講釈するのであるから、又と聴く事の出来ない稽古である。夫から三人連れで文楽に行つたら、大隅は中風で足が叶はぬので、桟敷に上れぬのを、仲助が押上げて遣つて、ヤツト坐り込んだ。大隅は仲助を頼んで、楽屋の大掾師匠に、
「旦那のお伴をして来升たから、前で聴かして戴き升」
と断りに遣つた、大掾は目を光らかして、
「大隅も二階に上れるやうで結構じやナア」
と云うたと、仲助が報告して来た。サア大掾が語り出したから、庵主は両人に、
「僥舌(**饒舌)る事ならぬぞ」
と云うて聴いて居たが、其面白さと云うたら無い、大掾も広助も、離業斗りで、掴んで捨てるやうに語つて仕舞ふた。庵主は打倒されたやうになつて、フイと大隅と仲助を見ると、両人共膝の上は小便でも垂らしたやうに、汗でズク/\に濡して居る。ソコで庵主は、
「ヲイ大隅、お前が講釈した個所々々は、唯の一つも違ふて居ないでないか、何所が違ふのじや」
と云ふと、大隅は腕を組んで、ウーンと考へて居たが、暫くして、
「旦那、新町(*清水町)の師匠で鍛へたのは、二見の師匠の方が、私より先輩でオマスわい。夫が私のやうにギコチなくならないで、綿のやうに成つて居升わい。又広作さんも(広助の事)考へて見升と、ウント新町(*清水町)の弾きやはるのを聞いて居やはり升わい。夫れかと云ふて、コーは遣れぬ物でおます……旦那、此段をコウは語れませぬわい、
マアニ人共に此年にならねばナア……アーア長生き仕たうオマスなア……」
と云うた時、仲助は側から、
「旦那、私は長年大隅さんと懇意にして貰うて居升が、コンナに感心しやはつた事を見た事がオマヘン」
と云うから、庵主は、
「夫が大隅の力のある処である、力がなくては此感心は出来ぬ物じや」
と云ふたら、矢張り大隅は腕組をして考へて居た。此時が大隅と庵主との生き別れで、間もなく彼は台湾に行つて死んで仕舞うた。大隅も是で感心死をしたかと思ふ。個様な物であるから、此位に三段目を語つてこそ「切語り」と云はれるのである。其後三代目越路太夫が此段を語つた時、弥太夫が此端場を語つたが、立派に越路太夫は喰はれた。夫で越路に庵主は忠告した、
「如何に表方から語れと云はれても、此段を引受けると云ふが、お前の心得違じや、「何様此間師匠が語り升た斗りで厶い升から、マダ程もないので、お引受出来ませぬ」と云うて断らねばならぬのじや。お前でなくとも唯だ語る位なら誰れでも語るが、夫は語ると云ふ物じやない、唯だ云ふ丈けである、此段丈けは是から気を付けねばならぬぞへ」
と云うたら、越路は、
「ハー豪らい事を致し升た、師匠の罰と、アンタの御贔屓の罰と一所に当り升た」
と云うたが、嘘にも是丈け云うた越路太夫も亦、斯芸の力は、慥かにあつたと思はれたのである。其丈けの事の判る太夫がモウ一人も居らぬ事となつて来た。
扨『早夕陽も傾く頃』の「ハルフシ」は成丈け明かるく語る事。『表へひゞ敷女乗物』は気を変ヘて、『女乗物』は成べく「中」で語る事。『しづ/\入るを』を大隅曰く「長門さんは「フシハル(*ハルフシ)」に語られ升たと聞升たが、考へ物で厶い升」と云うて居たが、大掾は矢張「ハルフシガヽリ」に語つて居たやうである。『祖母は不思議イーーーーと』と大掾白眼を出して息を持つて『打ながめ』と「色」で云ふて居た。又息があつて『此住みはびたあばら家へ』までは独り言のやうで、『結構なお姿』から一寸「カワリ」気味があつた。『ツイかゝとおつしやつて下さりませ』は何とも云へぬ上出来で、田舎婆々の情がパツト浮出て居た。此等は其時聞いて今でも慥かに覚えて居る人が沢山あると思ふ故、聞いて見れば直に判るのである。『聞いて手を打ち』の下、息を抜かずに押へて『是は/\』のよかつた事も亦格別であつた。総て此段は「詞遣ひ」「地色」「地中」「中」「色」とも実に/\鍛練を要する事にて、夫でないとアノ越路太夫でさへ初役では可愛想な程情が浮かなかつたのである。「覚えて、呑込んで」掛ると云ふ強味は斯る段の最大要件である。『娘を連れて奥間へ』から『鹿ヲドリ』の辺から「ギン」の音の遣方に気を付ける事。『何と、モウ中を直ろかい』は丁度大掾が地詞で、浄曲とは思へない程良かつた。以下の祖父祖母両人の昔咄のとりやりと云ふたら、絶妙であると歎賞したのである。大隅は仲助に斯く云うた、
「寛や、私が恐れるのは、是じやよ、自分が我で云うて居る時はソーモ思はぬが、斯う聞いて見るとハツキリ恐ろしさが判るでナア」
庵主は元来大隅と云ふ男は、ドコまで芸に力があるか判らぬと思うた。此一言は千古の金言である。誰も自分天狗で云ふて居る時は、己惚れて居るから判らぬが、斯る達人の語るのを聞いて、自分の芸の未熟がハツキリト判るまでに聞く芸の力のある者が、世の中に幾人あるであらうか。『語れば祖母は泣出し』から『別れ/\にならふかと』と語るのを聞く庵主はモウ涙を催したが、オペラグラスで見たら、大掾が目にも、……フツト又見た広助の目にも涙が光つて居た。夫から謡がすんで跡の「カワリ」は此段の一大事である、此辺の心持の「カワリ」が甘く行かぬと照葉、おとはの「詞遣ひ」も「地合」も中々甘く行く物でないのである。『コレお祖母、早日も暮れた看経しませふ、仏壇へ御明し上げてくれ』の詞が「シホレ」気味になりたがる物である。夫が大々的間違ひである。此爺父の心の中にはモウ死ぬ覚悟をして居るのである。其気が屹度浮かねばならぬから、中々「シホレル」所の事ではない。『無明を払ふ大燈明、胸の曇りを晴さふござれ』は「カワリ」てさびし気も「ウレイ」気もあつて宜いのである。『コレ照葉様、其頼み人は誰が事』から又がらり「カワリ」て芝居が初まるのである。此段は忠臣蔵九段目山科の段の如く、「地色」で「フシ」を語る所が沢山あるから、能々先輩に就いて修業せねばイカヌのである。『歯の根を砕き身をふるウウ、イイ、イイ、イーーー』と語る時、太夫が心の底から、おとはの心情に成抜いて悔しい心持を語ると云ふが秘伝であるとのこと。ナゼなれば『ボウつと、もゑ立火焔はいかに』の「コハリガヽり」の「カワリ」が移つて語れぬやうになるのである。是から先の「フシ」「詞」とも斯様な風に研究して習得するが肝要と思ふが、兎も角に、「ノル」と云ふ事と「ハリ切」と「ハルギン」と云ふ音遣ひを忘れては、筑前場は語れぬと云ひ伝へられて居るのである。『見るに恟り』から『唐天竺が責かけても』と「地色」と「詞ノリ」をよく淀みなく鍛練する事、此所が此段の芸術的の性根所である。夫から『障子ぐはらりと引明くれば、あけに染みたる祖父祖母の』此からの「地詞」を最も深刻に語る事、併し腹はサラ/\と持つてベタ/\せぬやう是所が加減物で聴衆が糟を食はする所、『二人は死骸に取付いて、前後にくれし折からに』爰まで漕ぎ付くればモヴ安心で、是からは公綱と正成の押合となつて普通の浄曲になつてお仕舞になるのである。