(十二) 中将姫古蹟松 雪責の段

 此外題に就いては庵主色々後人の為にと思ふて調査をした事があつたが中々分らぬので、止むを得ず故竹本摂津大掾に手紙を以て問合せた処が其返事は左の通りであつた。
前略陳ば近頃扇屋之段御研究遊ばされ候由不相変御心掛の段難有奉存候、且又中将姫の事御申込に付色々取調別紙に書留御覧に入候併し五行本に有之は初代竹本綱太夫増補を致候故少々丸本と相違致居候右御承知被成下度候 下略
大正四年十一月十七日                   二見金助 拝
別紙書抜
○中将姫蓮曼陀羅 岡本文弥(年号不詳)
○中将姫 宇治加賀掾(同断)
○当麻中将姫 当流竹本筑後掾(宝永の頃か  作者不詳)
○ひばり山姫捨松 豊竹越前掾(元文五年申二月六日―今大正十五年を距る百八十七年前―作者並木宗輔)
只今其本手元に無之候間取寄せ中に御座候何れ相分り次第跡より可申上候  以上
此報告に因るも一寸捕捉する処に苦むのである。庵主の調査は古事来歴の謂はれ因縁を述べ立つる為めでなく、其芸風の幽玄にして後人の努めて仰鑚すべき所の一端でも、世の人の為に書残して置たいが一杯で、及ばぬ力で之を模索するのである。夫には語り初めた芸人の名前を識るが第一である。古事来歴や、字句の難解は学者に聴けば一度で直ぐに判明するが、古名人の芸風は其人々の特長妙技が伝来相続して、一種筆にも尽し難き高雅優秀の風を漂はして居るのであるから、夫を捕へて研鑚修業せねば芸にも何にもならぬのであるから、夫に接触したいのである。而して此中将姫は摂津大掾でさへ俄かに誰々の風であると答へる事は出来ぬのである。左すればアレ程一世を風靡させた摂津大掾の中将姫は、摂津大掾独特の語り風を以て一冊を纏めたと見ても差支へあるまいと思ふ。曾て庵主は大隅太夫と共に此大掾の中将姫を聞いた時、大隅は「此中将姫は此師匠の為めに書下して手を付けたのじやと思ふて聞かねばならぬので、新町(*清水町)の師匠(団平)の弾いて居られた時もソー云うて居られ升た。兎てもアノ通りを辿つて語る太夫は又出来ませぬから」と云うて居た事があつた故に、庵主は現在の中将姫の語り方は摂津風と極印を打つて研究して差支ないと絶叫するのである。扨てソー極めて之を後人に修業させよふと思ふと、サア其の芸格の狭くなる事は夥しき物にて、何にさま大掾と云ふ人は「ヱ」の譜より「サ」の譜までクリ上/\しても尚ほ余りて居ると云ふ上の音の豊富な人故、夫を風としては学ぶ境域が誠に困難である。然らばと云ふて加賀風,越前風に辿る事は微力な芸人としては尚ほ/\困難であるから、此は大掾一代限りの物として、丁度アレ丈けの声の質と芸力とを持つた芸人の出た時に完全に其大掾風の譜音を辿らせる事にせねばならぬと思ふ。左すれば一般芸人の学ぶべき譜音の目標はドウしたら良いかと云へば、庵主は当然増補した綱太夫風が良いと云ふのである。現に綱太夫は此外題を増補して語つたのが今語る此の古蹟の松であるから、夫を辿るが当然である。而して大掾も矢張り綱太夫風で語つては居るが、アノ大掾の天性の美音が又其上に加味されて一種の品格を添へて居るのである。然らば綱太夫風としてドウ語れば良いかと云へば、予ても云ふ通り三味線の方を克く熟練させて出来る丈け派手に弾かせ太夫の方は総て上下の裏に廻る事と、低き「ニジツタ音」とに漂ふて陰気に/\と運び、夫に根強き情合のからむよふに語らねばならぬ。夫が全体に其心持を忘れてはならぬ。先般であつた三代目越路太夫が座主に望まれて此中将姫を文楽で語つた。庵主は大掾が語つた跡故、ドウであらうかと人知れず心配をして居た。又世間の評判も余り能くなかつたが、折柄庵主不図一日の閑を得て此段を文楽に聴に行く事となつた処が、実に驚いたのは越路太夫の運方であつた。総て大掾の語り風に拘泥せず皆「ニジッタ」音で運んで居た、此丈は間違もなく越路の力で語つて居る事が分つて、聴く庵主は現つになる程面白かつた。此の太夫は語り口の悪い物もあるが、芸力は慥かに認むべき物が有ると云ふ事を、庵主此段で屹度値打を付けたのである。夫から直に庵主の宿に越路が来たから庵主は飛付くやうに「今日のお前の中将姫は師匠臭くなくつて綱太夫臭かつたので堪納する程面白き珍しい語物を聴いて、大阪に来た甲斐があつて有難ふと御礼を云ぞ」と云ふたら、越路は頭を押へて「ワタイ叱らるゝじやらうと思ふて心配してました、飛でもない物でお誉に預り升てビックリしました有難ふ厶い升」と謙遜するから、 一入悦しく又可愛くなつて色々御馳走をして、夜と共に芸道の咄もした。其中庵主はお前の師匠は俺にコンナ遺言をしたよ。「アンタに中将姫の事はお稽古して置升たが、ドウカ「下駄」が角力取りの「下駄」に成らぬように願升。若し弟子共が角力取の下駄に語り升たら旦那はんから叱つてやつておくんなはれ」と云ふたよ。今日の下駄の『鼻緒の締りよく』は「ギン」の譜を聞いた、「ハリキリ」から「ゲーター」と自然に「ギン」に落なかつたよ」と云ふと、越路は翌晩又来訪して「昨夜アンタがアンナ事を云ひなはつたから今日は「下駄」の所になつて気になつてヤリ悪ふて難儀しました」と云ふて居た事がある。是等は越路の美談中の一とすべき謙抑の詞であるが、全く中将姫は面白く聴いたのである。世評の悪るかつたのは先代越路の山の語り方が永年聴客の耳に染込んで居るからの事である。併し芸格の品位一方から云へば、三代目越路の中将姫は屹度後世の手本になると思ふ。只だ夫をハツキリと聞分けるお客と芸人の無い今日としては残念な事である。