(十一) ひら仮名盛衰記 四段目切 神崎揚屋の段

 此外題は元文四年未四月(大正十五年を距る百八十八年前)竹本座に上場した筈である。作者は文耕堂、三好松洛、浅田可啓、竹田小出雲、千前軒等の作と聞く。役場は世にも名高き竹本大和太夫の門弟、竹本大和少掾藤原宗貫と云ふて元祖義太夫の弟内匠理太夫の倅であつて俗称を近江屋三衛門と云ふ人である、始め三輪太夫とも内匠太夫とも云ふたが、是が則初代の大隅太夫である。明和三年戌の十一月八日、六十五歳で死んだが辞世に「折るゝともひびきは残れ雪の竹」と云ふたやうに、斯道節語の巨擘(きょけつ(*きょはく))と云はれた人で「ノリ地」の名人であつたとの事。彼の「安達の三段目」や「恋女房の十段目」など時代物計り語りてゐたが、寛延二年巳七月即ち此時より十年目に世話物として「双蝶々曲輪日記」が書下しの時自から望んで「橋本の段」を語り始めて「ノリ地」や「地色の運」や「詞遣ひ」等世話物語りの範を後世に残されたとの事である。即ち今日まで「大和風」と云ふて「ひゞきは残れ雪の竹」でチヤンと其風が残つて居る。五行本にも依るが此段の黒朱には多少の間違があるやうに思はるゝのである。
庵主は此段を竹本摂津大掾が語る折最も熱心に聞いたが、或る時「故五代目鶴沢仲助」に命じて、
 「お前少し隙を拵へて大阪に行て大掾に俺が云ふたと云ふて「神崎の揚屋」を稽古して「詞遣ひ」をよく覚へて来てくれ、アノ詞遣ひは大掾の死後には決して稽古して呉れる資格の師匠はなくなると思ふから………」
と云ふたので仲助は早速大阪に行て大掾に咄すと,大掾曰く
「旦那はんが態々稽古にお前をヤリヤはつたからには詞丈では稽古が出来へんがナ、前からの「地合」の仕込で「詞」になるのやサカイ、「地合」からよく覚へて往て旦那はんに聞かせて上げとくれ」
と云ふて仲助を自分の宅に泊まらせて置いて毎日丸一段を語り聞かせて稽古をしたのである。ソウすると越路太夫や南部太夫の門弟供が不平を起して
 「我々は芝居を抱へて居て、毎日稽古に往ても師匠は二階に計り仲助と共に引籠つて居て一寸も稽古を仕て呉れはらぬ」
と云うて、大掾の女房のお高に色々と仲助の讒訴をした。お高は女の事ではあるし仲助を呼び付け
「寛や(昔の名を呼ぶ)お前知つての通り師匠は今文楽で「尼ケ崎」の大役が出て居る、贔屓の衆からも「モウ年寄の冷水、「尼ケ崎」は引受けな」と云はれた事が度々の処に、師匠は年を取れば年寄の「尼ケ崎」を語りますと云ふてトウ/\引受けて語りやはる事になつた。夫にお前はんが朝から二階に師匠を引上げて毎日丸一段の稽古、若し師匠が病気にでもなつたら芝居の方も贔屓客の方も大変や、明日から当分稽古を止めとくれ」
と手厳敷云はれたので、仲助は其翌日大掾の前に平伏して
 「お師匠様昨日お家さんから是々のお咄がございましたサカイ当分お稽古は御遠慮申上たう存じます」
と云ふと大掾目をピカ/\と光らして女房と越路と南部の居る前にピタリと座つて
 「是お高、私は外の事なら何でもお前達の意見も注意も聞くが、芸道の事丈には口を入させぬ。私が寛三郎の稽古をするのんで,弟子共が悋気をして、ボヤいて居るによつて、お前は弟子が可愛さにそんなことを云ふのであらうが。私は寛やに稽古して居るのではない、「東京の旦那はん」のお稽古をして居るのである。明治十四年から御贔屓になつて、私位の芸人を何のやうに思召してか魂を入れて真剣で聞いて下さる。此「揚屋」も前に語つた時聞いてくりやはつて、「アノ「ひらがな揚屋」の「詞」はアノ親爺が生きて居る中に聞て置かねばならぬから死なぬ中に早う行て聞いて来い」と此世智からい世中に態々仲助をお越して下はつた。何と云ふ有難い事であらう、私は毎日芝居で「尼ケ崎」を語つては居れども、誰アれも魂を入れて聞てクリヤはる人はない。年を取つて何事も思ふやうに出来ぬから弟子共でさヘヨウ聞いてくれぬ事となつて来た。夫に「東京の旦那はん」は何処か少しでも耳に掛つた事があつたと見へて親爺の事を忘れずに、仲助をおこして下はつたからには一生懸命に稽古して居升、夫をお前は横から何を言ふのや.又弟子共も、其所に持つて来て居る本は此の芝居で今語る本やないか、芸と云ふものは商品のやうに今入用やから、今仕入やうとしても手に入るものやおまへん、私が今語つて居る「尼ケ崎」でも、私は一度も師匠に稽古をして戴いたのやないぞへ、師匠のお稽古は、「端場」か「道行き」か「掛合物位」で、其他の「切物」は、師匠が御連中様か外のお方にお稽古をして居やはるのを側から聞て置いたのが、今日年を取つて役に立つ所、毎日々々有難い/\と思うて語つて居升、殊に「東京の旦那はん」かてお素人じやぞへ、今「神崎の揚屋」がお入用じやからで、寛やが稽古に来て居のとは違升ぜ、聞いて置ねばアノ親爺が死んで仕舞へば聞かれぬからと云ふて、寛やをおこしやはつたのやから、其お心掛けが芸道の本筋で私は心から有難いと思ふサカイ一生懸命にお稽古をして居るのや。お前方も其心掛けがあるなら、ナゼ私が寛やに「神崎」の稽古をして居るのを、今の中に聞いて置いてくれぬのや。今は今語る物斗りを稽古して、若し今度神崎の役が付いた時に、サア「神崎」が入用になつて来たと云うて、毎日「神崎の本」斗りを持つて来ても私は決して稽古を仕ませぬ。ソンナ事で「神崎」が語れる物ではないから…私は決して弟子が可愛ふない事はない、弟子が芸を軽んじで自身の芸の一大事と思ふてくれぬ…其心に対して稽古をせぬのであるから、決して師匠を怨んでハタに讒訴などする事はならん」
と懇々と説諭して聞かせたので、越路や南部や女房は申に及ばず仲助は只だ芸道の威に推されて、有難涙に咽び、顔も得上げなかつたとの事である。夫から仲助は東京に帰つて来て、庵主に其咄も「揚屋の段」も聞せてくれたが、其後庵主の指図で柳原伯へ此「揚屋の段」を稽古させ常に側で聞いて居た。丁度仲助が大掾の教訓を受けた頃は庵主は児玉大将と大阪と京都の間に滞在して居た項であつたから、大掾が「尼ケ崎」の役のある上に「神崎」の稽古は少し気の毒と思うたから、暫く稽古を止めさせやうと思うて居る所に,或日大掾が講座で卒倒したと云ふ報知が、京都の旅宿に来た。サア大変、此は女房も弟子共も庵主が大掾を殺したやうに云ふであらうと思ふて、「此は仕方がない大掾の死骸は俺が拾はねばならぬわい」と決心して居たら、幸ひに漸次全快したので庵主は医者に頭を下げた位で事済んだ。
 一体此「神崎の場屋の段」と云ふやうな物はマア此位な大騒動の物であるから.事只だ筆の先などで、芸道のなやみを書解かれるやうな物ではない、何れ折を見てポツ/\書いては見る積りではあるが、先大体に於て此段の「品合」と云ふ物が第一の修業である。夫には「詞」が根本である。「地合」は又全く別の修業と云ふ事に気が付かねばならぬ。マア一寸分り易く云へば此段の風は『世なりけり』の出から『爰も名高き難波津に』と語る処や、総ての「ウクオクリ」「地色」等まで殆んど上下に「ニジッタ」音で運ぶのである。「麓風」などは「ギン」の音を「ニジツタラ」先づ其風にはなるそふじやが,此段の風は「地合」も「詞」も総て其心持で運ぶ修業をすると思ふて居たらよからうと思ふのである。