(九) 近頃川原立引 お俊伝兵衛 堀川猿廻しの段

 此段は近松半二の作と聞くが、初演の年代甚だ詳からず。何でも元文三年頃、京都布袋座にて、竹本河内太夫が立看板を出して、未曾有の大入をなせし時、二代目豊竹八重太夫が勤めたのが初演なりとの事なれど、確かとも思へない。併し此八重太夫は、音遣ひと足取の名人、殊に太夫として口捌きのよき人で、世に語呂の伊豆平と云ふ仇名を付けられた位評判の太夫である。其名も、此堀川の段で名高くなったとの事である。節付けは西風であるが、東風で修業した太夫故、チョイ/\其風が交つて居るよふである。
摂津大掾は、『ヲヽお鶴さん』と云ふと、目が明いた人のよふに聞ゆるとて、『アゝ。お鶴さん』と語つて居た。婆さんの詞の処はなる丈淋しく語る事に心掛けねばならぬ。此謡は元園八節の鳥部山から取つたので「一人来て二人連立極楽の」と云ふ文句の奥であつて、節も大方園八の風を取つてゐるやうである。『女肌』から『立姿』までお鶴で、『男も』から『色盛りをば』までが婆さん。又『恋と云字』から『捨小舟』までがお鶴で、『どこへ』から『島迚もなし』までが婆さん、『鳥部山』から『後髪』まてがお鶴で、『弾く三味線』から『祗園町』までが婆さん、『茶屋のやま衆』から『色酒に』までがお鶴で、『乱れて』から『騒ぎ合ふ』までが婆さん、夫から合の手があつて、『アノお面白さ』がお鶴である。『染殿』から『某』までが婆さんで、『去年の』から『かこ付けて』までがお鶴で『忍び逢うた事』から婆さんである。此掛合が婆さんとお鶴とハッキリ分るのが滅多にない。修業の鍛練を積まねば此謡が賑かに計り聞へて、ボコ/\三味線の貧家の稽古屋風に淋しくは中々聞へぬのである。是れが淋しく薄煙りも立兼ねたやうに聞へてこそ、此段全体の主意が動いて来るのである。与次郎の出が尤六ケ敷いので『息せき』も『母を大事と』も太夫腹一杯の気構へが聴衆に移つてこそ、芸と云はるゝのである。聴衆が堀川は派手なものじやと云ふたら此段は語れて居らぬのである。此点になると摂津大掾も大隅太夫も予はマダ感服する事が出来ぬ。況んや其他をやである。『婆さんの身悔み、与次郎の慰め詞』等は此の段の眼目として六ケ敷所であるが、要するに音を陽気に、腹が一杯に陰気で、夫がハッキリ聴衆に分らねばならぬ。夫から今一つ六ケ敷いのは、三味線が全部反対の腹構へにならねば、其芸の色合が浮いて出ぬのである。今時語る門付け見たやうな堀川ばかりでは、浮いて面白い計りで、沈んだ此親子暮しの境界に、満場の聴衆を引込んで、淋しき中に潜んだ人情の詩を聴衆に読まする事は出来ぬのである。此段は義太夫節中に珍らしく泣処の少ない段であるが、夫でウンと泣かせねばならぬ責任があるのである。第一正直一図な与次郎が、孝心の詞を語り尽し得る人は、真正に孝を知るの太夫である。『微塵も案じる事はないぞやと』顔を母の前に押し付て「ヲス」、夫でも母の一度沈んだ気は浮立たぬ。与次郎は何とかして母を慰めて気分を浮立たせやうと思ふて、今まで嘘八百を並べた以外、何物か捕へ来て母を慰むる種にしやうと思へ共、貧家の事故モウ種切れである。其の種を捜し求むる節付けで、「夫にマダ/\と」捜して居る、ソコに「ヲ」と家の事を見付出して、拍子を打つたら、三味線弾きが(イヤ)と乗せる、夫に乗って『マダ/\/\/\/\』と語ると、文章も情も節も皆語れる事になるのである。夫から『母に案じをかけさせぬ』との一句が語れた太夫をマダ聞た事がない。此一句丈けが与次郎で涙の流露する処、『遥か増しでもあろふかと』と云ふたら息でピタッと止まつて、一ぱいの涙で引息を十分に取つて、大ヘタリにヘタッて『母に案じを』と腹の涙で語るのである。夫からお俊との三人の取り遣りも、引〆めて淋しく、又お俊の心情を語るには、「半太夫」と云ふ節付けで、一番太夫の気を付けねばならぬ節と足取である。『更け行く』と云ふ送りになつたら、此浄瑠璃はモウ片付いたやうな物であるからこの先は三味線をドン/\鍛練さへすれば運ばれるものである。お俊の「サワリ」はベタ/\せぬやう、引字せぬよふ、仮名切りをビタ/\と切つて三味線に弾かせ、婆さんの自覚の述懐を大事にして、詞ノリや地色崩を克く習ふて、腹に情を失はぬよふ、サラ/\と語り、猿廻しになつたら、体を全部三味線弾に遣つて仕舞ひ命令の息と間と足を取違へぬやう、与次郎と云ふものを忘れぬやう語つて、段切になつたら、少しの休み気もなく、太夫は間で三味線をマクリ立て、三味線弾も又間で太夫をマクリ立てるやうにして、ズキンと語り捨て弾き捨てるのである。