(六) 刈萱桑門筑紫いへづと 三段目切 宮守酒の段

 此外題は享保廿年卯八月(大正十五年を距る百九十二年前)豊竹座に上場した筈である。作者は並木宗介(*並木宗輔)、同丈助と聞く、役場は元祖越前であるとの事、然るに故摂津大掾が故団平の絃で、明治十四年の十一月に此段を語つた時、団平と大掾との工夫で、此段を駒太夫風に譜を付けて直して語つたら、非常に評判が悪くて、大失敗をした。其後明治十九年の五月に故吉兵衛(江戸堀)の絃で又出したら、又失敗で僅かに十七日で千秋楽となつたので、旅稼をしたとの事。其後故豊沢広助で此段を語る時、大掾と広助(即ち絃阿弥)は、此二度の顛末の咄をするから、庵主は少なからず理屈を云ふた。其訳は
 「元来芸術と云ふ物は、伝統の力を以て崇高とする物である。一巳人の細工で成立つた芸術は、善にして良なる種類の物でも、浅薄と云ふ事は免がれぬものである。殊に此義太夫節は、古来よりの伝統のみに因つて、風格を異にして居る其(風)と云ふ物を構はねば、声の好い者の奴鳴勝ち、腕の達者な者の弾まくり勝であつて何も修業をする必要はない。 一段/\/\と語り始めた、古人の風格を辿らねばならぬからこそ、師匠に就いて、艱難辛苦、血の涙を出して習得するのである。故に若し、此宮守酒が、果して越前風と伝はつて居るならば、ナゼ越前風を習得せぬのであるか、庵主は殊に不満に感ずるのは、芸人の天狗と増長である。団平が、当時の勢ひは、腕も、見識も、飛ぶ鳥も落す有様で、天下無双の春太夫を弾殺し、人気に於て、天下一の越路太夫を弾くのであるから、ドンナことをしても仕たい放題である、故に、何んでも見識と、腕とに任せて、伝統の風を改竄するのである。元来、団平が後世に、崩れた芸を回復したのは数限りもなく、庵主などは全部夫れを感謝するが、改竄すると云ふ事は、余程の早計で全く不謹慎の行為と思ふのである。殊に駒太夫が、如何に名人であつても、丁度比の(苅萱)の書下しの時、播磨屋弥三郎と云ふ素人が、始めて芸人となつて、越前門下に加はり、駒太夫と云ふ名前を貫ふた時である、其全くの大序語り端場語りの風に、其東の元祖の風を改竄して易へるなどは、言語道断である、又越路も如何に先輩団平の申条とは云ひながら、恩師春太夫が死んで三年を終つた計り位の時に、元祖の風をかへて、此三段目を語つたと云ふのは、全く不謹慎の行為であると云はねばならぬ、故に両人とも芸道の天罰覿面にて不人気不入にて、芝居が長く持たなかつたのである」
と遠慮もなく言ひ放つたのである。之を聞いた大掾は
 「イヤ早全く旦那の云やはる通りでございます、其頃は何もかも、若い気に任せて、無我無中で遣つたに相違厶りませぬ、昔の豪い方は五十にして天命を知ると云やはつたそうで厶いますが私は七十越しまして始めて天罰を知りました、有難ふ厶りました」
と禿た頭から汗を流して懺悔したのであつた。広助(弦阿弥)(**絃阿弥)も嘆息して
「成程其の頃は、新町(*清水町)の師匠が(是れは淋しくてドウもならぬ。ドウも是れはガザ/\して弾いて居られぬ)と云ふて、易へて居やはりましたが、私共は年もいかず、芸の事は分りませず、只だ豪い師匠じや、恐い師匠じやと計り思ふて居りまして(今度も又我々の役の物も、易やはるかも知れぬから、夫を聞いて稽古を仕やう)などゝ、仲間同士で互ひに咄して居た事も厶りましたが、成程旦那はんから見れば、何も新町(*清水町)の師匠が恐い事も何もない、澄み切つた心の芸道熱心のお心で、遠慮もなく云やはる事を、今聞きますれば、其通りに違い厶りませぬ、其訳は団平師匠が彦六の方に行きやはつてからは(淋しい物は淋しいで六ケ敷、賑やかな物は賑やで六ケ敷、夫が塩梅よく弾けぬのは、力と修業の足らぬのじや、何でも芸人は気を付けて、凝らぬ事には淋しい訳も賑かな訳も分る物ではない)と云ふて夜通し一睡もせずに、思案して居やはつた事も厶りました、して見ると、越前さんの風は、風で凝り処がおますさかい、別に駒太夫風に易へやはらぬでもよかつたかも知れませぬ……二見さん、今度は何でも昔の越前さんの方で遣る事に致しませふ」
と云ふと、大掾も
「マア兎も角も、悪るい癖も付いて居るさかい、気を付けて稽古をする事に仕ませふ」
と云ふ事になつて来た。夫から初日が出て、庵主が聞いたのが、即ち生れて宮守酒の初物であつた当時聞いた人は覚へて居るであらうが、其大掛りで滓が抜けて無理のない粘り気の好い事と、腹捌きのサラ/\した所は全く真似の出来ぬ、天下無比の芸術と聞へたのであつた。
 五行本の枕は、丸本とは多少違ふて居るが、此方が良いと思ふ『月と雪との真中に。花と詠める後帯。男撰みのゆふしてが』の「本フシ」から越前風になるとの事、夫から『誰ぞ頼まん』と云へるまでの品格を、怯ず憶せず語り進む大掾の力量は、物恐ろしくて決して凡人の窺ひ知らるゝ事ではないのである。『テモいかいお心づかひ。私はゆふしでと申て。まだ人数にも入らぬ女』からの詞遣ひは、実に六ケ敷運である、此詞遣ひで此段の芸格が極るのである。夫から『あわれ此矢を貰ふ気な』と「カワル」心持が、聴衆に溢れかゝるやうに語る事『テモ粋な兄嫁御』から又「カワル」、夫からたゝら新洞左衛門の詞捌きが、又大離である。総て其気が浮かねば語れぬので、十分に読んで/\読み抜く事、夫からゆふしてが『かく成行は神の罰。神明怒りの鏑矢に。射殺さるゝ覚悟をして(*射殺さるゝを覚悟して)』と大掾が語つた時は、満場其芸力に酔はぬ人は一人もなかつたやうである。夫から新洞左衛門が詞のよい事と云ふたら、義太夫節でなくて、全く大掾の精神の発露であつた。『未来で夫婦と悦べども。悲む親が此世から夫が見へるかたわけ者』と云ふ時、庵主が双眼鏡で見たれば、大掾も広助(弦阿弥)(**絃阿弥)も瞼毛に涙の露の光が見へて居た。総て斯る決心と腹構へにならねば、斯る段は語れぬのである。