(五) 檀浦兜軍記 三段目の口 阿古屋琴責の段
此外題は享保十七年子九月(今大正十五年を距る百九十五年前)、竹本座に上場した筈である。作者は長谷川千四と聞く。役場は竹本大和太夫との事である。この人は前名彦太夫と云ふ名人にて、此段を語りて翌年丑三月に死去した筈である。其後東の豊竹座にて此外題を上場せし時は、豊竹駒太夫が此口の場を語つたとの事。此の人は音遣の名人にて今に至るまで此場を駒太夫場と云伝へて居るが、彦太夫の西風も、チラ/\と交りて居るとの事である。併し此駒太夫と云ふ人は、声曲上天稟の妙手にて、後世に其風格を残した、名高き達人であつて、此人の風斗りが持て囃さるゝのである。此外題が竹本座の大和太夫にて上場せられて、三年の後、享保二十年卯の八月、豊竹座にて「苅萱桑門筑紫いへづと」を上場した時、此駒太夫は始めて豊竹座に入座し、素人の旦那衆播磨屋弥三郎が、豊竹駒太夫と云ふ芸名を貰ふたのである。故に此琴責の段は大和太夫の語り始めにて、駒太夫は其風を辿りて語つた物に相違ないのである。故に長谷川千四が、古昔(*むかし)の自由主義の如き学者の徐祥とか云ふ人の書いた名文を拾ふて来て『鳧の脛短かしと雖も、之を継がば憂なん。鶴の脛長しと雖も、之を断ば悲みなん』と堂々筆陣を布いて書出した其の『鳧の』と語り出すのに『カーモーヲノハギ』と語らぬ、元祖義太夫が語る「原則」とも云ふべき掟は「一」の絃を「ハジク」音に響くやうに、字を詰めて語る事を、西風の根本と心得ねばならぬとの事である。故に『カモヲーーヲノハギ』と「ノギン(*ギン)」の「ニジッタ」所に止めるとのこと。是は西風として決して忘れてはならぬとのことである。即ち『民を制すること』も『ターミーーーイヲ』とは西東とも決して義太夫節では云ふ事はならぬとの事、二字の仮名は大抵「ツメ」て語り出すので、『タミーーーーイーーヲセイスコト』と音を遣ふのである。此段斗りでなく、吃又でも『家貧く』を『イーーヘーーエ』とは語らず『イエーーーーエマヅシクテ』と何時でも「一」の絃を「ハジク」音をトックリと据へて後を語るのが、政太夫風でも、筑前風でも、同様である。昨今琴責を方々で聞いて見るに、斯道から押して見ると、耳立たぬのは、滅多にない。大抵東西分からぬ遣り方であるやうである。此頃注意して聞いて居ると、古靱太夫丈は総て夫等に気を付けて語つているやうに思はれるのである。古老の咄に聞いて居るが、故摂津大掾が明治元年の辰年、即ち彼が三十三歳の時の閏四月二十六日から、大阪稲荷文楽座にて、此段の「阿古屋」を語りし時「重忠」は茂太夫、「岩永」は咲太夫であったとの事、夫から四年目未年の八月一日から又同座で此段を語る時は、彼が(三十六歳)、「重忠」で、「阿古屋」がむら太夫で、「岩永」が古靱太夫である。此両度とも、三味線は新左衛門であったそふじやが、三味線が第一の呼物であつたとの事である。庵主は或時彦六座で風斗此段を聞いた。大隅太夫が「重忠」で『例の粗忽と、重忠押止め』から重忠に語つた、『マーーアーーズ』「チン」『マターーアーーアレーエエヨ、イワナガ』と「中」で止めた時は何だか其息組に押されて恐ろしい思ひがしたので、四十年後の今日まで、夫斗りが耳に残りて、外の役は誰が並らんで居つたか、皆消へて少しも記憶に残つて居らぬのである。コンナ物であるから修業の力量は一文高な物で、良加滅の胡麻化しでは、影も形もある物ではない。故に稽古と云ふて「イニシヘ」を「カンガヘル」と云ふ修業が第一である。それに少し語れたり、弾けたりすると、古人の苦心の芸術を捨てゝ、自分の力丈け相応の拵へ事斗り振り廻すから、芸も人も堕落する斗りである。トウ/\人気も評判もない、今日の如くになるのである。夫から古は三曲の稽古は全く本文より離れて修業したものゝやうである。只謡ふ斗りでなく、責めらるゝ気を失はぬやうに修業せねば「琴責めでなくて、琴うかれになる」と古人が云ふて居るそふである。夫から段切になつて『バチリセウアル』と語呂で『バチリ』と云ふのは良くない。『撥』で止めて『利生ある』と語るとの事、又『直なる道こそ有がたき』でなく、矢張り丸本の通りに『直なる道の、言の葉や』と語りて『言の葉や』を三段目切の「三重」に残すやうに語るがよいとの事である。