此外題は享保五年子の十二月(大正十五年を距る二百○七年前)竹本座に上場せしが始めと思ふ。尤も其時は大近松の作で、後には半二、文吉などが増補した物が多く用ゐられたのであると思ふが今語る紙治は染太夫が此役場を語つたと聞く、尤も宮戸風とは云ひ伝へてある事もあるが其方は格別残らず、只「ヲクリ」斗りに其風が残つて居る許りで、先づ名人染太夫の風が勝利を占めたものゝ様にと(*様にも)思ふ。此名人染太夫は又大家の宮戸風には、大分尊敬を払つて語つて居る事が分るが、何様一代の名人染太夫の語り風は又格別であつて、浄瑠璃古咄集と云ふ本に
「染殿が此段を語り出すと其儘、年増髷鉄漿(*かね)付けの女房衆達は、おさんの思ひ余りに貰ひ込んで、一人も顔を得上げられざりし」
と書いてあるにても、染太夫が如何にその情念の腹構へが切実なりしかゞ分るのである。
総て斯る心中物などは、嫌気が射す程情念の切実を捕へて語る位にして、聴衆には丁度好き程度に感覚する物と云ふ事を聞いて居る。それは其筈である。元来が世話仕立ての物であるから、運びと腹捌きがサラ/\と出来て居るから、余程其情を腹に噛み分けて畳み込んで持つ事が濃厚でなければならぬ訳である。時代物になると、節付け足取共、其情緒を懇篤に辿るよふに出来て居るから、余り執拗く語ると所謂「拵へ過ぎ芝居臭く成る」の虞れある訳になるのである。
当時染太夫の芸風を海棠の花に譬へ、彼の牡丹や、芍薬や、梅や桜の如く美やかな物の群を脱して、色合ひと云ひ、姿と云ひ、頚な垂れて青芽の先を失はず、一種忘れ難き思ひを、永く残す色気と、悲し気とを深くする、無理のない芸風と云ふたのも、至極尤もである。先づ伊賀越の五段目、饅頭娘を聞いたら、直に感ずるのである。作としては何でもない、小児欺しのよふな、すら/\と書いた夫(*書いた物)を、アノ皮肉さの芸風はドウである、満足に真似の出来る者は一人もないではないか。其次に沼津の里となりては、師匠(*先輩)の男徳斎、即ち咲太夫を前に廻して「小揚」を語らせ、チヤリの名人古今一品と云はれた程の咲太夫が、目の廻るよふに面白く語った跡に出て、『お米は一人物思ひ』と語られるかドウか。皆々責任を以て考へて見たら分る。夫が大成功であつたればこそ、今日まで其芸風が残つて居るのである。其他教興寺であれ、吃又であれ、皆名人中の名人元祖義太夫や政太夫やと云ふ天下の一人者が語つた物を染太夫が語れば語る程、其自分の風を残して行つたとは、何と云ふ恐しくも又尊き芸人であらう。即ち此紙治の如きもチャンと名人の一人者たる、宮戸風に敬意を払つて語つて居るが、残つた物は、染太夫風斗りとあつて、世に伝へられて居るのである。即ち『直ぐに仏なり』の「チヽン」で裏に廻る、アレが宮戸風との事、筑前掾の語つた菅原の三段目、佐太村の「送り」から『年は寄つても恐いは親、上へも上らず犬つくばい』アレが宮戸風と聞いて居る。即ち『門送りさへ、ソコ/\に、治兵衛側に有合す、定木を枕うたゝ寝の』皆宮戸風の運びと聞く。夫から『涙にしめる其風情』と語るに『しめる』の音遣ひが皆ドカ落ちであるが、夫が染太夫には決して無い事と思はねばならぬ。此人のお蔭で、総て何でもドカ落にならぬよふに、浄瑠璃の天下の掟が極つたと云ふてよいのである。『しめる』を高い処から出て、即ち『シメー』と高い処から『ヱー』と産む処が「二」に落ちるのが悪い、『ヱー』と持つ処は、最一つ『ヱー』と「三上み」から「三を放した」処に漂よふて「二」に落ちて又「三上」に戻つて『ルーウ』とならねばならぬとの事、又政太夫の語つた忠臣蔵四段目の『一間もヒツソと静まり』の如く、それは「二」の音の咄ではあるが『シズウーウ』と『ウー』の産みが、モウ一に落ちて居る、夫がいかぬので「チン」と聞いたら、高い処から『シズ』を下がらぬよふに、夫から『ウーウー』を産む時に、先づ「二の上から二を放した処」と順に下つて、挨拶をして下るのである。夫が修業する処である。それで大掾や大隅などが今の奴共は「無理斗り云ふ/\」と云ひ死をしたのは夫である。夫は無理に相違ない。梯子の段を一段目から七段目に飛下りたり、三段目から十段目に飛び越えたりするのを聞いて居ては堪つた物でない。浮雲ないと云ふよりも、無茶苦茶である。
庵主は永年大掾、大隅の浄瑠璃を聞き殺す程聞いたが、ソンナ無理な処は一ケ所も、又一度もなかつた。今の太夫衆の語るのは、飛降り飛越してないのが一つも無かつたのである。夫は修業する処の目標が違ふて居るからである。『お三は惘れつく/\と』宮戸地で語るのに、又一つもお三が惘れたのがない、只だ良い声はチヨイ/\聞こえたが、ソンナじやら/\した処ではない、是がお願ひじやからよく魂を据えて聞いて置いて貰いたい。貞操無二の女房お三が、天にも地にも掛替へない大事の/\夫が姑に向って、情婦小春の悪口愛想尽かしを云ふて、誓紙まで書いて渡した跡故其夫たる治兵衛が、満身の情愛の復帰する処は、女房たる自分である。私に元の通りの愛を注ぎ掛けて呉れるのじやと、心の底から喜んで、昼寝の蒲団をソーツと除て見たれば、其蒲団の襟に(*襟が)、治兵衛の涙に浸つて居るので、ビツクリして扨ても/\男の女に執着した心は、斯くも恐しい未練がある物であらうかと思ふ一刹那の『惘れつく/\と』である。夫は良い声処の騒ぎでない。涙に張り切る叫びである。夫が聴衆の腸に短刀でも突込まれたよふに刺されるから、聴く女房達は耐へ溜らぬので、声も得上げなかつたのである事が分るのである。夫に治兵衛が空ら/\敷、夫を胡魔化す積りで『子まで成した二人が中』と云ふたから、お三はモウ中々承知せず『イヱ/\憎いそふな/\』と強き叫びが溢れ出て、ピツタリと得も云はれぬ息があつて、『憎ましやんすが嘘かいなア』と涙で語るから、此を聞く物が人間では溜つた物ではない。劇を超越して、実際以上の打撃を受けるのである。大掾が『憎いそふな/\』と云ふ時の顔は、何時も恐ろしくてビツクリするよふな声を出して居た事は、知つて居る人がマダ何人も居る筈である。大隅は斯く云ふた事があった。
「春太夫師匠が云やはりました。お前等に染はんの芸が分るか。俺は紙治を語ると、毎日体が痛ふなるがナ。大の男が優しい正直な貞女のお家はんのお三さんが、悔やしい残念なと云ふ張詰めた心の真似を為るのじやさかい叶わぬがナ。それが中々甘く行かぬので難儀するがナ」と咄したと聞いた。