(三) 天の網島時雨炬燵 (*心中紙屋治兵衛 上の巻) 茶屋場の段

 此外題は近松門左衛門作と聞く、多分享保五年子十二月(今大正十五年を距る二百七年前)竹本座に上場。其後五十八年目、即ち安永七年戌の四月廿一日(百四十九年前)近松半二と竹田文吉が改作し、心中紙屋治兵衛と銘を打つてから流行出した物と思ふ。此時に此段を、元中太夫改め三代目政太夫、俗に塩町、播磨屋理兵衛と云ふ(彦山の九ッ目や亀山噺の在所を驚く程語つた)人が語つたとの事であると聞く。此段を語るには「中太夫の四季変り」と云ふて、変りの名人であるから、人情の変りを大事に修業せねばならぬのである。夏が秋に変り冬が春に変るやうに、男女の人情、喜怒哀楽がサラ/\と変る丈けの修業の腕前がなければ、歯が立たぬ物である。庵主素より此様な物を語る了簡も、語れる物とも思はぬが、其芸道の筋合丈けは、故摂津大掾に就いて研究した事がある、其時の問答が床本にチャント書いてあるから、夫を左に掲げて同好者の参考に供へやう。(此本は今豊竹古靱太夫に与へて保存させてある)
庵主曰く。此段の枕は、普通の三味弾が朱を繰つた間で語つては駄目で、総て太夫の腹の間に引付けて、其模様に聴衆が心酔する様に語らねば先きの治兵衛が怒る時の変が出来ぬ。
大掾曰く。お説の通り。三味線はスネて弾け共、語るには心を引締め、腹に力を入れ、ユツタリ語り升。『堰かれて逢はれぬ』からは少々ウイて腹に物なく、カン張つた方がよろし。
庵主曰く。『身は空蝉の抜殻の』は『抜殻や』でなければならぬ。
大掾曰く。お説の通り。
庵主曰く。『アヽ有難い忝い』から以下は、成べく西風に止め/\がベタ/\せぬやうに注意を要す。
大掾曰く。お説の通り、併し女の情を持つやうに。
庵主曰く。『親方にせかれて』からは、足取と、産字と、音遣ひが、只の義太夫節では駄目である。其風を呑込まねば語れぬ。
大掾曰く。頓とお説の通り。
庵主曰く。『外には』より山に十分語る是から此段の本題に入る処。
大掾曰く。お説の通り。
庵主曰く。『内にも小春が』よりの変りは、太夫の腹に十分の変りが必要である。
大掾曰く。夫は違升。此変りは三味線の方から拵へ升。併男女の情の変りは、太夫の心構へが大事であり升。小春の心が嘘故尤も空々敷腹にて『突かれぬ胸にハット貫き』以下の小春の詞遣ひ、息の六ヶ敷事、此段にて此所の外なし。
庵主曰く。孫右衛門は真実小春を薄情物(*薄情者)と思ふてゐる腹構へが、芸力に出来て居ねば、先の文を見た時の変りが出来ぬから、其等の修業が常に大事である。
大掾曰く。貴説の通りで厶い升。『馬鹿を尽した此刀』以下は、旦那は之を詞と間違へて厶るやうに聞へ升。此等は皆地色で厶い升が、其地色の語り方が、ソンナ御修業では駄目で厶い升。
庵主曰く。『アヽ誤つた/\』以下は、治兵衛が天性正直者故、真実心から誤つた心で語る事。
大掾曰く。貴説の通り。
庵主曰く。「此治兵衛の出て行く所は」阿漕の平治が自訴に出て行く時の三味線を弾かせて語つては如何。
大掾曰く。平治は決心をして出て行きます。治兵衛は心がマダ十分残つて出て行きます。
庵主曰く。『ヤイ赤狸奴』からの治兵衛の詞は、又十分の山で語る、其息込が六ヶ敷い(*六ヶ敷う)思ふ。
大掾曰く。貴説の通りで厶い升が、治兵衛が腹立の余り泣く程セキ込む心持が、昔から滅多に出来た者が厶りませぬ。
庵主曰く。終りの『恋の道』で男泣に泣いて置いて『別れ』とトル事。
大掾曰く。ソウなくては叶はぬ所と思ひ升。
 以上の書抜にて、義太夫節の研究が、ドンナ物であるかと云ふ事が、初心の人にも分らうと思ふて書て置。声も音遣ひも節も足取も詞ナマリも大事は大事であるが、語る心持がチヤンと鍛練が出来て居らねば、今時の太夫の様に、皆節を付けて読むばかりの仕事に成るものである。