此段は享保三年戌正月、今大正十五年を距る二百九年前豊竹座にて、豊竹越前少掾(若太夫即竹本采女と云ふ)語ると聞く、又後年豊竹麓太夫も語つたとの事である、作者は紀海音であるとの事である。
此段は今こそ飯粒の乾びたやうな節廻しに成果てて居れ共、芸格から云へば、容易ならぬ品物である。一体元祖の語つた物は、一声聞いても恐ろしい思ひを起すべきものである、夫が越前の風と云ひ得らるゝのである、先「三重」のシャン。/\。/\。/\。が大変である。其「間」と「足」が大きい斗でなく、腹の底から淀まない大波の一ッ/\打やうな事になって居なければならぬ。夫で『入相過』が本当の越前風に語れるのである。『されば風雅の歌人』と語り出すのも、声の力、腹の力一杯と云ふが原則である、小さくては何にもならぬ。
此越前風と云ふ物は、「間」と「足取」と「節」と「音遣ひ」との四つは先ず跡として、間の一杯と、腹力の一杯とを、大汗になつて修業せねば、外の事には取掛られぬのである、夫が出来たら、大男は大男丈け、小男は小男丈け、声の大小善悪とも、出来る丈け一杯になる事である。其癖が付いてから、夫から「間」を一鎖りづゝ修業する事、「足取」を一鎖りづゝ修業する事、「節」を一鎖りづゝ修業する事、「音遣ひ」を一鎖りづゝ修業する事、夫が出来て、出る人形の情合を一切又一鎖りづゝ修業するのである。是丈け修業すれば、浄瑠璃は下手でも、越前風にはなるのである。茲に於て和田合戦の市若切腹も、日向島も語れる事になるのである、原料がなくて、品物が出来る例めしがない故其原料さへ整へば、其風の門弟たる筑前風なども、何でもなく語れる事になる、又其後の達者麓風の尼ケ崎、日吉丸、蝶八、八陣、等の如きは此越前風から見ればお茶の子である、今の浄瑠璃は、剣法も知らず、馬にも乗れず、軍術の駆け引も分らぬ武士が、棒千切れを振り廻はして、金鍬形の兜斗りの競争をして、大将顔を仕て居るやうなものである。本当の武術を知つた人の前に往くと、ポンと鍋蓋で押へ付られて、逃げ出す者斗りである、故に総てが一杯と云ふが条件で、先づ夫を修業するのである。
一杯と云ふのは、息を一杯に引取つて、其息を又一杯に出す事である。『修羅の街の戦と』と皆仮名の数を数へて語つては、ドうしても一杯になれぬ、「修羅の、街の、戦と」と文章を語らねば、一杯になれぬのである。『人もや』と云ふたら、掛文句であるから、止まつて『三浦が、孝行の』と「ネバリ」て、乗つて語るのである。総てソンナ風に一息づゝ一杯に語るのである。庵主が大隅に稽古を仕て貰ふた時『行つ戻りつ』と云ふ一句で満身の力も抜けて、飯も喰はれぬ程疲れ果てた事があるが夫は「チン」「ツン」と云ふて火鉢の縁を叩く大隅の「力」と「間」の恐ろしさの為で、今尚ほ胆に徹へて忘れられぬのである、『ユキーーイイツ。モーヲ、ドーオ、リーイツウ。トツ。オイツ。』が本当に一杯にならねばならぬ、夫を修業するので、満身汗になるのである。汗に浸ってヤット一杯になると、其処に何とも云得られぬ孝子の心情が浮んで来て母の病気を捨てゝ討死に行くに、其後髪を引かるゝ悲哀が漂ふて来るのである、夫が一杯から出た情でなげれば、芸が死んでゐる、今の太夫の情は、物真似の拵へた情である、夫で全部駄目である、夫から病母の「詞」が六かしい其「詞」にウント鍛練をして、「咳」でも拵へ「咳」でなく「病」と「涙」と「情」から出た「咳」が一杯に語れる事になれば客人の方は皆水を打つたやうになつて、又一杯に聴く物である、ソコで時姫が挟まつて、真に生動するのである、此「カラマリ」の役が生きねば三代記は駄目である、団平が「ドウか時姫が牛にならぬやうに願升」と云ふたのが、今では遺言と成つて仕舞ふたのである。
『思ひ遣つて呉れもせで』『オーモー、ヲヲ、イーイーイ、ヤーア、アア、ツ……テーヱヱ、クレーヱ、ヱーヱ、モヲセ、ヱ、ヱーヱ、ヱーヱヱデーヱヱヱ』「モヲ」と仮名切れになるから、牛を気遣ふたのである、故に「クレーヱヱモヲ。「チョン」セーヱーヱ、ヱヱーデーヱヱヱ」と云ふたら牛にならぬのである。即ち「モ」の字を上に付けるのである。
夫から『短夜』の「ヲクリ」が一番落付いて、大事に語らねば越前さんが仕置きの「ヲクリ」と云ふて後世に遺した型が失せるのである。
夫から『名にしあふ坂本』から段切までの語り方が尤もサラ/\と研究を要する処で、皆「字余り」に成つて居て、夫に何とも云へぬ情合と、運の妙味が付いて居るので、中々修業も面倒であるが、面白いものである。
要するに太夫には必要ないとしても、義太夫学を識りたい我々は、まず元祖義太夫の「筑後掾」の世継曽我、愛染川を識り、夫から若太夫の「越前掾」の日向島を識り、「政太夫」の爺打栗公平を識り「大和掾」の鐘場や恋十を識つて、夫から「筑前掾」に及び、忠九や楠の三段目、夫より「麓場」の女護島や、尼ケ崎に及ばねば、斯道変遷進歩の歴史を知る事は出来ぬのである。文字で云へば、先づ楷書の字画を識り、夫から行書、草書と時代、世話、真世話物と斯ふ運ぶのである、故に此三代記の如きは、声の据りと腹の力の覚悟が出来た堂に入つてから、奥を伺はんとする人の熱心修業する品物であると、心得て居らねばならぬ。庵主が聞いたのに、大掾が『時姫せき来る涙ながら』の一鎖りは永久死に至るまで、其鮮明なる情の漂を忘れぬのである。又大隅の『うら紫の色深き』の一鎖りは、永久其「ギン」の声の大きさと、徹底的なりし事を、死に至るまで忘れぬのである。総て名人には、一段に一ケ所若くは二ケ所位は、大身の鎗で突抜いたやうな、恐ろしい処があるものである。夫が今は飯粒細工のやうな浄瑠璃斗りになつて、全部甘い御馳走斗で、何でも幾百の付け味斗りにて腹を下す斗りである。或る老師匠の評に「アンナ浄瑠璃を語るのなら、一層の事、誉てくれ/\/\/\、銭を呉れ/\/\/\。と大声へで呶鳴つた方が宜いと思升」と云ふた事がある。是は少し酷評ではあるが、決して其傾がないと云はれぬのである。