此外題は正徳元年卯三月、今大正十五年を距る二百十六年前の作とは聞いて居るが風は分らぬ。後年此太夫が語つて其の風が今日残つて居るとの事である。竹本座にて上場した筈、作者は近松門左衛門と聞く。
庵主は此段を大隅太夫に聞き、又摂津大掾に聞いたのである。昨今素人連中にボツ/\語る人が出て来たから、特に書いて置くが、コンナ底力の要る、腹加減の六ケ敷い浄瑠璃を、聞き覚えと、三味線に合う位丈けで、決して語る物ではない。此種の物はキッチリ覚へた上、更らに鍛練と云ふ物が語らせる物である。又大概なら三味線弾の方でも、一度や二度の弾合せで語る人には断るが好いのである。道楽にも戯れにもならぬ、只だ見苦しい丈けである。商売人の太夫は、鳥鷺覚えでも三十日斗りは毎日語らせて貰ひ、又稽古も付けて貰ひ、三味線とも毎日弾合せるのであるから、ドンナ鈍物でもソコ/\には筋道が歩行るやうになるのである。若し素人で語るなら、芸人、旦那衆であらうが、何であらうが、先づ虱殺しにキッチリと覚へて、夫から自分も三味線弾も、体を打込んで三十日位は弾合せて、目を塞いで居ても、音と間と足と腹の塩梅が夫になるまで鍛練をせねば餌の無い針で魚を釣るやうな物で、魚の方でも食やうが無いのである。庵主は「此段を稽古してくれ」と大正元年に摂津大掾に申込んだ処が「私は明治五年の十一月(庵主が八歳の頃に)松島文楽で語つた儘に役が付きませぬから、十分調べましてお知らせ申升。自分の稽古にもなり升から、是非御稽古を致たい」との返事が来た。夫から庵主は直に本を書かせ読初めて準備に取掛つた。夫と同時に故鶴沢仲助には、故団平の朱章を繰らせて、手馴らしに掛らせ、又大掾の方でも早速に六代目豊沢広助に交渉して、朱の方の調べを頼んだとの事。夫から大正二年の初めに「一度聞いて頂き升」との手紙が来たから、下阪して叩きで聞く事になつたが、丸で音の運方が庵主の思惑と違ふて居るので、大変な困難をした。兎に角癖物であるから、夫を大体に呑込まねば、覚へると云ふ道に入らぬのである。そこでヤット筋合丈け合点が行つたやうだから、其年の四月に又大阪に往き、今度は大隅太夫を呼んで聞いて見たが、茲に「神人合一天地一貫」と云ふ妙理があるのは、数百年前の戯作、近松の筆の痕が現実化して生動して居る事は、大掾と大隅と全く一致である。音も間も足もチャンと一致であるが、只だ違ふ処は、語る腹加減である。夫が大隅も人間、大掾も人間、別個の活動をして居る個性がある。自己の見識でチャンと人形が違ふて居る。一例を云へば、大掾の忠兵衛の腹構への好いことは亀屋の養子としては勿体ない程の品格であつた。又一方大隅の八右衛門の好い事と云ふたら、気前格好共、其詞の止め止めに生動して今尚ほ活きたる人形が生動して居るやうである。アレでこそ木偶の人形を活かす技能を芸人に一任して、数百年芸界を驚倒せしめたのであらうと思はせた。夫から又余りの面白さに其年の六月に行つて、大掾に就いて又聞始めた。其面白さと云ふたら、一人一役の気の抜けた千両役者共の仕る芝居などの追付く物ではないのである。其後三代目越路太夫の語るのを聞いたが、之は三味線の吉兵衛とともに、初役と見へてマダ足取が付いて居なかつた。
先づ初めの歌が「ナヲル」と「青編笠」となる。直ぐに音の癖があるので、サア大抵の芸力では、人が聞いて呉れぬ「サイハラ」になつては最と腹捌き良くサラ/\と語らねばならぬ。「梅川の出になつて」一寸気をかへて浄瑠璃に這入らねばならぬ「夕霧文章」になつては全く絃に離れて、禿声を忘れずに語る方が本当である。夫から「詞ナマリ」と「地色」とを面白くコナスのである。夫で人を厭かせずに運ぶと云ふ事は、全く力と見識との結晶で「平伏して聴け」と云ふ芸に恐ろしき威光がなくてはなれぬ事である。此は度々芸人にも云ふ事で「良く語る面白く語る」丈けでは、真西物のスネタ物は、直に腰が砕けて仕舞ふ。少しでも語る方に手薄き事があつたら、芸の命が無くなるのである。故に却て盲目蛇に怖ぢずで強身があるのである。役揉みと給金争は、芸格が分つては中々出来ぬ物である。兎も角物を識つて鍛練をするのは、芸人として中々の楽みである。決して他人の財産にはならぬ。必ず間違なく其人の所有財産となるのである。良き役が付き、高い給金が得らるゝのは、
一時的でなく、永久である。其上に自分の楽みと云ふ物が、大変な物である。
「八右衛門の出」からは普通の浄瑠璃にはなるが、「色」の語り方が一つ/\に違ふ。夫は「総ての人の心持」が、詞と地合の変化で聴衆に「ハッキリ」と移らねばならぬ。『心も残る三百両』から『越後やに走り付』までの心持は、大掾も大隅も余程面白かつた。今以て耳には残つて居るが、口には言へぬのである。夫は云へね(*ぬ)が当り前である。彼等は芸が「心持に出来て居るからである」「八右衛門」は敵役でない所に面白味も、芸の力も入る所で「忠兵衛」は悪人でなくて悪事をなす所、心身梅川の情に包まれて居る中に、チラ/\と良心のヒラメキのある所に妙味も鍛練の秘奥もあるのである。「梅川の事を」書くと長くなるから他日に譲るが「梅川」は全篇を通じて、大掾が天下一品である。『夕告鳥』から『跡は野となれ大和路や』の段切は、大隅太夫の息込みの漲溢して居つた事と云ふたら、庵主などは放り出されたやうに、ジャンと〆めた後まで、驚き惘れて居たのである。庵主なども聴天狗では大抵人に負けぬが、芸もアゝなると即座に天狗廃業で、人にまで忠告して、滅多に語るなと云ひたい気になるのである。此新町の三味線は六代目広助が昔の清七や、団平の朱章を調べて故仲助に稽古して遣る積りで待ちに待つて居たのに、トウ/\稽古に行かぬ中に仲助が死んで仕舞ふたから、其後広助に会度に膨れ面をして居るのである。