はしがき

此冊子を読まんとする人は、先づ第一に、此「はしがき」を能く読まれたい。
一、義太夫節と云ふ物が、距る貞享二年乙丑(今大正十五年を距る二百四十二年前)大阪道頓堀の西に、櫓を揚げて以来、此芸が満天下に流行したが、流行するによりて名人が輩出した。名人が輩出したから、其妙芸が拡大して来た。芸妙が拡大して来たから、修業が烈敷なつて来たのである。
二、然るに若し芸道が、此の反対になつて来たらば大変である。修業が粗末になつて来ると、芸妙が廃れる。芸妙が廃るれば、名人が無くなる。名人が無くなれば、斯芸が極端に衰微する事になるのである。
三、即ち現今は、斯界に衰微荒廃の暮鍾が鳴つて居る時である。夫を回復するには、修業を烈敷する外はないのである。修業を烈敷するには、芸妙が解らねばならぬ。芸妙が解つて来ると、名人が出来て来る。名人さへ出来れば.満天下に流行の実が挙るのである。
四、其芸妙とは、何であらうか。即ち名人優越の風である。其優越の風は、ドンな物であるか、其学的材料が、古来より口伝/\斗りで、今は少しも無いのであるから、自得の外得られないのである。自得の妙風は、修業の鍛錬から起るのである。
五、今庵主は、其妙風の何物たるを穿鑿する、百千万分の一にでも、参考となるべき資料を発見したいと、藻掻きあせりつゝある、一人である。
六、而して其修業の資料は.元々口移しの仕事で、咽と腹と頭の働きで、空気の顫動させ方、即ち声の働きを、定規とせねばならぬ物が、筆や墨で、決して書き顕はされる物ではない、是を芸道の妙風と云ふのである。
七、其口移しが、古代には、名人も沢山あつたであらうが、庵主等は、其名人の口移しには、接する事が出来ぬ訳であるから、先づ近代に於ける、豊沢団平の言ひ残した事を始めとして、次は竹本摂津大掾、竹本大隅太夫、名庭絃阿弥等に就いて、熱心に修業し、又咄を聞くの外無いのである、夫以上の事は到底庵主では不可能であつた。故に此書は右三四人の咄の聞書の一冊子と思ふて貰いたい。
八、右の訳故此冊子には、庵主が熱誠に、其聞いた事を基礎として、細大洩さず記憶を探つて書く事とした。
九、併し庵主とても、神でない限りは、間違ひ、憶え違は、沢山ある事と信ずる。去り乍ら、以上の三四人も、決して庵主斗りに、斯る咄をして聞かせた事とは思はぬ、屹度他の門弟や旦那衆などにも、咄した事と思ふから、少しにても、間違の事があつたらば、他に聞いた人々は、ドシ/\之を訂正して呉れるのが、単に庵主の為めでなく、斯道の為めであるから、此冊子は全く其非難訂正を受ける為めの、題材として書くのである。
十、総て芸道は、末になると、枝葉斗りを攻究(*研究)して、根本を忘れる物である。斯芸も太夫や絃師が、乏しき学術を以て、文章などを弄り廻して、斯芸の基礎問題たる、咽と腹と頭の修業を忘れて居る傾があるから、芸道が斯く堕落して、衰微斗りするのである。文章は学者に聞きさへすれば、 一度の訂正で、永久の改善が出来るが、芸道の方は、火の出るやうな修業と、鍛練でなければ、決して訂正は出来ぬ物である。
十一、扨て其芸風とは、ドンな物かと云へば、
此義太夫節と云ふ物は、摂津国東成郡、四天王寺村の土百姓の子が、天性浄瑠璃節を好み、井上播磨掾と、宇治加賀掾との、芸風を比較し、播磨の長き所を縮め、加賀の短かき所を伸ばして、声の表裏を付け、運びの上に「舒破急」を定めて、総体を能楽の式に形どりて、一流を立てたので、夫が世に斯くまで流行したのであるから、夫を基礎として、庵主の聞いた事丈けを、書いて見れば
(1)竹本義太夫、即ち筑後少掾は大音嬌喉で、「其文章を語る中に謳ひ、謳ふ中に語る」と云ふ、絶妙の意味を失はなかつたのである。(東(*西)の元祖)(貞享二)
(2)其門弟竹本若太夫(*豊竹若太夫)、即ち豊竹越前少掾は「嬌喉美音であつて、「一」の音が、前後に無い程、斉なうて「一二三のギン」の音の遣ひ分けが、最も名人であつたとの事。(東の元祖)(享保三)
(3)其門弟豊竹駒大夫は、絃師に「高調子」を弾かせて、浮沈みの音遣ひの名人にて「詞」にまで、一種の音遣ひを鍛錬し、上下貴賎の品格を、語り分けたとの事。(享保十八)
(4)竹本政太夫(*若竹政太夫)は、義太夫の門弟にて、即ち播磨少掾であるが、此人は小音ながら「文章を」語る中に音の間から、謳ふ意味を漂はし「三上、コワリ」の音を主として、上手に遣ふたのである。(二代目義太夫)(享保十九)
(5)竹本錦太夫は、師匠越前少掾(*播磨少掾)の風を鍛練し、一種異風の音を遣ふて「一二三の中の音」を遣ふ事に上達し、「地中、地色、フシ落」等、四段目語りの風を、定めたとの事。(元文二)
(6)二代目政太夫は、播磨少掾の門弟にて、雑魚場十兵衛と云ふ人にて、深く師の風を学び「三上、コワリ」の音遣ひに上達し「詞止め、節切り」の語方に一種の風を残したとの事。(寛保三)
(7)豊竹嶋太夫は、二代目若太夫にて、東の元祖越前少掾の孫にして、天下無双の美音にして、腹強くして、声和かに、最も「大ノリ、小ノリ」の名人であつたとの事。(延享二)
(8)竹本河内太夫は、大和掾の門弟中にて「最も音遣ひの達者な人にて」京都の「立花河内」の音遣ひの風を、深く研究し「一二三ともニジツタ」音の遣ひ方を、自得したとの事。(享延二(*延享二))
(9)竹本大和掾は「詞ノリ、地ノリ、地色」の名人にして、斯道の何れの段にも此風を忘れる事は出来ぬとの事。(延享三)
(10)竹本鐘太夫は、筑前掾の門弟にて、大音にして、美声で「捨て間とか云うて「間」を大変に明けて、人形を息で活かす事を、鍛錬した名人との事。(延享四)
(11)豊竹筑前少掾は、陸奥茂太夫の門弟にて、斯芸中興の祖とも云ふ「低調子」にて派手に、賑かに、斯芸を語り活かした人にて「ギン」の音の遣ひ分け、働きは勿論「ハルギン、ハリキリ」の音を、上手に遣ふて、斯界を風靡した人であるとの事。(寛延元)
(12)竹本春太夫は、大和掾の門弟にて、斯界前後になき名音にて「間拍子、運方」の達人であつたとの事。(寛延元)
(13)竹本組太夫は、竹本染太夫の門弟にて、天性の悪声にて「三を放した音よりも、声が下らぬ」ので、夫を利用して「一二の絃を運ばせた」と云ふ、名人であつたとの事。(宝暦三)
(14)三代目政太夫は、二代目政太夫の門弟にて、前名中太夫と云ふて「カワリ」の名人にて中太夫の「四季ガワリ」と云ふて、評判せられしとの事。(宝暦六)
(15)竹木住大夫は、政太夫の門弟にて、其当時、謳ふ事に流れた斯界の芸風を、語る事に引戻した程の、名人にて、此人にて、古浄瑠璃の回復が、出来たとの事である。即ち文章を詰めて、云ふて仕舞ふ中に、一種云ひ得られぬ、情合より、音遣ひを割出して、語つたとの事。(宝暦七)
(16)豊竹麓太夫は、駒太夫の門弟にて、「表」の三本にて、上が支へず「裏」の三分にて下が支へず、「ギン」の音と云ふたら「一二三」とも「ニジツタ」音より出て「張り強く、底強く、押強く」して,人情を語り抜いたとの事。(宝暦七)
(17)竹本綱太夫は、染太夫の門弟にて、絃師を十分陽気に弾かせて、語り方は成る丈け陰気に運んで、夫を派手に聞かせて、人情を漂はする事を、一生研究したとの事。(宝暦十一)
(18)竹本重太夫は「低き調子」を、基礎として、高き音より、低き底の音まで、使ひ分けたとの事。(天明四)
(19)竹本染太夫は、駒太夫(*政太夫)門弟にて、又斯芸中興の祖とも云はれた人にて、「地合、詞」共、サラリとした中に「産地」運びの名人にて、最も濃密の人情を語り明したとの事。(天明五(*宝暦四))(此染太夫の事は初代より甚だ調べ困難故単に斯く書いてをく)
斯く太夫の風を書たものの、各太夫の初代二代三代と、各語り風が違ふ事は当然であるが,夫は調べやうがない。稍分つて居るのは、政太夫の初代二代三代丈けである。其他の太夫は余り穴さがしをせずに、初代の風で皆押通して語つたが、良いと聞いて居る。
先づ聞いた事を基礎として、庵主の記憶から探り出した事は、此位とし、是とても調べる書籍も、皆震災で焼けて仕舞つたから多大の間違はあらふが、先づ、仮りにコンナ事でも、土台とせねば、修業も鍛練も、目標がないのである。義太夫節は、其書下しを語つた人に依つて、其風格が違ふが、夫を修業してこそ、芸妙が顕はれるのである。喩へば、弓や鉄砲でも、打つ的が出来ねば、殻鉄砲と同じ事である。今の新界は穀鉄砲斗りではないかと思はるゝ。文字でも、先づ草聖と云ふ王義之(**王羲之)とか。文徴明とか。董其昌とかの、手本があつて、夫を習得してこそ、妙味も出るのである。今の学校の如く、鉛筆やペン斗りで、読めさへすればよいと云ふ、物質本位となれば、芸術も、美術も、亡滅である故に、先づ正しき手本、即ち、目標が先決問題である。若し夫がなくて「ハルフシ」や「スヘテ」や「フシヲチ」を、只だ一通りに云ふのなら、浄瑠璃を、五六段憶へさへすれば、何でも語れるのである。
即ち何でも同じ物に語るのなら、外題の名が違ふ丈けで、中の芸術は、何でも同じ物となる。今時の芸人は、皆夫斗りであるやうである。巌重な目標に向つて、鍛練すればこそ、一種の風格が更に出来て来るのである。夫を芸術と云ひ、浄瑠璃と云ふのである。其鍛錬より発する、恐ろしき味を号けて、芸術の妙風と云ふのである。妙風とは「不可侵力」の事である。此力に向つて、賞讃し、敬服し、尊崇して暇を潰し、費を投じても、憧憬するのである。故に夫を学ばすしては、賞讃もせず、敬服もせず。尊崇もせぬから、暇も潰されず、費も投じ(*投ぜ)られぬ。左すれば芸道は、只だ衰頽する斗りである。
竹本摂津大掾は、六十歳の声を聞いた年から、成丈け、滅多に語らぬ物斗りを、心掛けて語る事に、勉強を始めたのである。其語る前の第一の調子は、此先輩の風格である。夫の調掛りの先乗が、名庭絃阿弥(六代目豊沢広助)である。大掾が広助と、此打合せが済むと、屹度二人で、其調べた経過を咄に、庵主の所に、出掛けて来たのである、庵主は何と云ふ仕合者であらう、飯より嗜の芸道の咄、殊に明治十四年より、贔負(**贔屓)にした、大掾、絃阿弥の茶瓶頭の老爺が、芸術の精妙を、残らず咄すのであるから、庵主は夢現で、生存の意義が怪しい位に、トロ/\になつて聞くのである。其大椽(**大掾)の心掛けは、何物でも調べては居たが、最も春太夫と、綱太夫の風に、心を傾けて居たやうである。絃阿弥は、大体大和掾の風と、錦風と、染太夫風とに、大分魂を入れて居たやうである。夫から大隅太夫は、師匠団平が、世間一般が、遊女の行列のやうに、身形正しからざる風体で、ゾロ/\/\と、謳ふて斗り居るのに、癇を立てゝ、鍛治屋の息子の大隅を、稽古台にして、住太夫風の、詰字、詰詞、詰息、の一点張で、鍛ひ上げられたから、大身の鎗の如く、住太夫風の一本であつたやうである。斯の如く、アノ力量で、其宗とする所を正して、鍛練するのであるから、善悪となく、鉄壁でも、突抜かねば止まぬのである。其他は、庵主の耳には、誰にでも身を売る遊女の如く、前受本意、金が欲しい斗りの、声と音であつたやうである。扨て是で「はしがき」は、大略済んだが、此まで書いた、芸妙とか風格とか云ふ事の、調べ方であるが、元々素人の庵主が、熱心で聞込んだ記憶を書くの外、日本に、此芸風の書物は、只の一つの種本も無い事は、事実であるから、無論間違つて居る事が、大部分であらうと思ふ。ドウか夫は、識つて居る人々が、芸道の為めに、日本に初めての試みである、斯芸の書物として、此の小冊子の発刊を、茜の萌とも思ふて、訂正に訂正を加へて、育てゝ貰いたいのである。庵主はモウ、年も取つた事故、死後の為め、切に読者に頼み置くのである。即ち其風格調査の、困難間違多き一例は、
 先般、豊竹古靭太夫が、大阪の文楽で、「彦山権現誓の助太刀」の「九ツ目、毛谷村の段」を語る時、彼は幼少より、庵主が贔屓の芸人である為め、態々手紙を寄せて来た。曰く
 『私は、今度文楽で、毛谷村の役が付ました。如何心得て、語つたら宜しいで厶りませうか、御意見を伺升』
と云ふて来たから、庵主は左の返事を遣つた、曰く
 『毛谷村は、大掾も、大隅も語つて、三代目政太夫物と聞いて居る、又絃阿弥(広助)も、三代目政太夫として、庵主に稽古をして居るから「カワリ」を、大事に語らねばならぬ「中太夫の四季ガワリ」と、云ふ事も聞いて居るから「カワリ」を、大事に鍛練する事が、肝要である』
と書送つたら、数日の後、又手紙が来た。曰く
 『御意見によりて、三代目政はんの物として、調査致ましたら、アノ毛谷村は、三代目さんでは厶りませぬ。丸本に、麗々と、竹本内匠太夫さんの役場となつて居ます、左すれば、如何心得ましたら宜しいで厶りませう』
と書いてある。ソコデ庵主は、大狼狽にて、調査をしたらば、完く其通りである。サア、グット行詰まつて、毛谷村の風格が解らぬ事になつて仕舞ふた、夫から、此古靭太夫が、嘗て庵主に貸与へて居る、「竹豊音曲高名集」と云ふ本を見たら、矢張、大掾、絃阿弥が云ふ通りに、三代目政太夫の、「塩町播磨屋理兵衛が」語つたと書いてある、併し丸本の役割は、斯芸の根本であるから、夫を無視する訳には、ドウしても行かぬ。然らばと云ふて、内匠太夫の風を、今日調ふる訳には、猶ほ、行かぬから、庵主は早速手紙を遣つて、其軽卒を謝まつたのである。此如く、折角調べて、斯く刊行までしても、元々正確な、義太夫学の、教科書が無いのであるから、恐は/\ながら、やつと此丈けは、書いて置くが.此から先は、斯道の為めに、厚き志のある人々が、段々と完成を、図るの外、道はないのである。庵主は此内に、一つでも二つでも、正しき物があつて、何人かの、参考の一助ともなつたらば、此上の満足はないのである。

                                  其日庵主人

大正十五年丙寅の九月渋谷偶居(*僑居)に於て秋雨蕭々の日之を誌す

本書刊行上最も遺憾とするのは活字の誤植、校訂の不徹底である。是等は再版度を重ねて完全するものとして暫く読者の寛怒(*寛恕)を乞ふのである。