其日庵再記
庵主が斯界初めての試みに懸る「義太夫節の風格」を「攝津大掾、大隅太夫、名庭絃阿彌」等より聞込んだ記憶を探りて數十段書綴つたのは庵主が老衰死に直面して書かざれば死と共に消滅して仕舞ふと云ふ暮鐘の聲に驚かされた所作であつた、元々多少は調査をした材料もあつたが夫も癸亥の震火にて全部燒失して仕舞ふたので申さば只だ記憶を基礎としたる腰ダメの執筆であつた事は序文にも書いた通りであるから年月、作者、役場、太夫等の穿鑿は多くは耳を專門として目で調ぶる事は出來なかつたのである倂し此丈けの記憶丈けでも書殘して置けば斯道に熱心なる篤志家が、夫はそふでない、是はこうである、と訂正して呉れられる事は當然であると思ひ卽ち此著述は非難攻擊の材題として夫を最大の滿足として豫期したのである所が發刊數日ならずして庵主が幼少より最も愛護した某太夫は數日徹夜して此杜撰の書物を讀んで一々其間違を訂正し、之に一切の證據物件を揃へて送り越して呉れた此の太夫は現代日本に於て一番義太夫節に對する參考書を澤山に集めて居る藏書家の巨擘である其人が斯くまで熱心に調査して呉れやうとは全く思ひも寄らぬ厚意である此は單に庵主の幸福のみならず本書を讀む讀者一般の幸福である喩へば「鎌倉三代記」の如き享保年中の作にして越前掾の語風であると書いて居るのに某太夫は「安永の書下しで氏太夫の語りた役場が現在に語りて居る三代記である」事を調べ出して警告して呉れたのである故に庵主は茲に明言する「本文に書いたる「三代記」の事は庵主の書いたのは單に記憶の腰ダメで書いた物であつて此某太夫の警告の方が全く正確である」と而して其語り風は庵主が之を「越前風で大隅から習ふた事」は又事實であるが序文に書いたる如く「攝津大掾、大隅太夫」より聞いたる事も後年「名庭絃阿彌」に調査させて見れば其兩者の口傳記憶に相違のありし事は二三にして止まらなかつた故に此「氏太夫の三代記」を何時頃にか誰かゞ「越前風」に手を付けかへた物を「大隅に團平が稽古したもの」と思はるゝのである、夫は丁度「宮守酒」を團平が「駒太夫風」に手を付けかヘ又「島太夫風」の「伊勢物語りの三段目」を何時の頃にか「土佐太夫風」として世に流行らせた類と同じ事と思ふのである、兎も角此某太夫の調査親切なりしが爲めに「伊勢音頭や、朝顏、明烏、其他數段の出所不明なりし物」等までが總て鮮明して來たと云ふ事は庵主の喜び此上ないのである、庵主は尚此上にドシ/\此種の訂正が八方より來りて此書の眞相が完全に近づく事を切に希望して止まないのである、故に今、某太夫の書面の全文を左に揭げて置くから讀者はよく本文を照合して硏究せられんことを切望するのである。
 
某太夫の書簡
第壹信 大正十五年十一月十七日
第貳信 大正十五年十一月廿二日
第參信 大正十五年十一月廿二日
(**引用の番付は義太夫年表近世篇の當該番付への參照に替えた)
 
第壹信
………只今も御本を日々拜讀いたして居り升が丸本及び皆語り居り升るは
楠の三ノ口
『婆々は六十のみつハくむ』と話つて居り升が
御本には
『水くむは』となつて居り升、是は旦那樣がおかゑになりましたので御座りますか。
布引三ノ切に、
『某元(そこもと)は源氏の家臣』、かながまちがひ居り升。
重の井子別に、
『ござろふとおつしやるは、こりや目出度』是も丸本には、
『おつしやるか、ソリヤ目出度ハ/\』と書いて御座り升すが如何で御ざりませふか。
廿四孝十種香に、
『臥戸に入る月の。渡り賴まん船人』は。ヲクリ『ふし戸へ行水の。水海船人に、渡り賴まん、いそがんと。
關取千兩幟に、
『ヤア/\土俵入で御ざります』は。
『モウシ/\』。
『羽織脇ざし衣まわし、酒は松ばへ』は。丸本には、
『とりまわし』。『杉ばへ』。
三日太平記九、
『察じ入たる』は、
『案じ入たる』。
外に「周防町平右衞門」がスワ町平衞門となつて居り升。
竹本と豐竹とのまちがい。
清水町を新町の師匠。是がたくさんにまちがつて御ざります。
明鳥の所に、
四代目竹本綱太夫と御ざり升が、是は六代目で御ざります。
書下し當時の番附太夫役割を寫し中に入れて御ざりますゆへ御笑覽願上升。
朝顏は御本に、
嘉永三年戌正月として御ざりますが、
天保三年に新作興行。
生寫朝顏話 天保三年辰正月二日初日稻荷社内ニ於テ
 
(**年表3上:83寫眞1444)
跡 竹本馬太夫(*高太夫)
 
躄仇討瀧に、
芝居が知れぬと御ざりましたゆゑ書下し太夫及役割。
箱根權現躄仇討 十二幕
書下シ享和元年酉十一月三日初日。道頓堀東芝居ニ於テ
座元豐竹吉太郞。各太夫竹本姓。
 
(**年表2:170寫眞664)
 
玉藻前增補三段目の書下し當時の太夫役割。是も芝居が知れぬとの事ゆゑ。
繪本增補玉藻前旭袂 三國續十一册
書下シ、文化三寅年三月二十六日初日。御靈境内芝居ニ於テ
添作 梅枝軒。佐藤太。
 
(年表2:220寫眞715)
 
三日太平記 嘉平次住家
書下し當時太夫役割。
三日太平記
作 者―近松半二。三好松洛。八民平七。竹本三郞兵衞
書下シ―明和四亥年十二月十四日初日。竹本座ニ於テ
太夫役割全部竹本姓。
 
(**年表1:386寫眞307)
 
伊勢音頭油屋、
此外題も古き天保九年に新淨瑠璃興行
播摩大掾門人
初代 大隅師(百合太夫改。三根太夫再改)
御存じの通、大和掾の前名は大隅掾に御座り升が、大隅太夫と名乘るは、此師を初代と申升。
(元治元甲子年十一月十三日 行年六十八 天保九年に大隅太夫になられました。)
伊勢音頭戀寢刃
作 者―山田案山子
書下シ―天保九年戌七月二十五日初日、稻荷社内東芝居ニ於テ
前狂言 一之谷嫩軍記
切狂言 去りし噂の葵下阪十人斬の大座敷
伊勢音頭戀寢刃 上、中、下
 
(**年表3上:293寫眞1649)
 
忠臣講釋の書下しも寫しまして入れて御座り升。
太平記忠臣講釋
書下シ―明和三年戌十月十六日初日、太夫全部竹本姓
役割
 
(**年表1:375寫眞300)
 
三角樣から正誤表が參りました、拜見いたして居り升。まだだいぶ活字のまちがいが有るように拜見致して居り升。
白石噺新吉原の所に竹本上總掾に任官して、
『布引瀧の二段目切三人上戸の場を』、
是は義賢館に御座ります。
此おたよりをぼち/\かいて居りました所へ只今十四日出の御尊書着拜見致しました。
まだ御風氣の由、御案じ申上升、
どうぞ御大切に願升、
鎌倉三代記の事、丸本が私宅に御座りまして、其の表紙には
鎌倉三代記 豐竹上野少掾
      直之正本
前に申升た如く、此淨瑠璃は只今語つて居り升、
『されば風雅の歌人は』
二度もくりかへしてよみましたが御座りませんで、まるきり品物がちがつて居升。
又、東之元祖の語物の内に
「鎌倉三代記三ノ切」と御座り升、
この三代記の三之切は「鳥追ひ大黑舞」と申所で御座ります。年號は、
享保三戊戌年正月二日。
此時 豐竹上野掾藤原重勝と受領すと御座り升。
又、安永十年辛丑三月廿七日。
江戸淨瑠璃の方の丸本には、
元祖 豐竹肥前掾藤原清正。 (是は江戸開發の御人、前名新太夫)
座本 豐竹東治。
東都江戸橋四日市 石渡和助版
と、しるして御座り升、是に前申述べました太夫役割が書いて御座り升。
是は文樂でも通し狂言でやつて居ります方に御座り升。
又、
初代豐竹氏太夫師は
初代島太夫改め、二世豐竹若太夫師の門人となつて居り升。
「二代目若太夫門弟にして、師匠に付て修業致され明和三丙戌年冬より北堀江市の側にて豐竹座新芝居興行成つて、(此間多くの役割が御座り升)安永元年より江戸へ赴き彼地にて出勤、天明二年壬寅十月に道頓堀東の芝居に於て
名代 近松門左衞門。
太夫 豐竹氏太夫。
櫓下となりて出勤」と有り升。
旦那樣のお詞の通り氏太夫蟻鳳で丸本の裏に役割が出て御座りまするので前便に申上ました次第しかし東元祖の語りました三代記は「されば風雅」ではない事、丸本が御座りますから大丈夫ちがゐます。
明治三十七年頃に出ました本にて、
贊助 竹本攝津大掾
   竹本彌太夫
山本九馬亭著
と申す物が六册御ざりました。
淨瑠璃通解の中に、
源賴家        豐竹肥前掾
源實朝 鎌倉三代記  豐竹東治  座
「此鎌倉三代記は紀海音作とは異にして作者詳ならず。丸本は十段よりなり、此段は七册目に入れり。文章可なりにして、つまらぬ作者の手になれりとも覺えず、就中此段殊に傑出せり。」
奧書に安永十年丑二月廿七日とあり、海音の死後四十年の作也、と誌して御ざり升。
是を見ますると丸本の通りに相成ます。
元祖の語りました丸本と此の氏太夫役割の丸本とは來月上京のせつ持參致しまして御笑覽を願上升。
又御本の内に、
一の谷三段目切のはじめの所に「合羽太夫」として御ざります。是も活字の拔けました事と存じ升。御存じの伊太夫より美濃太夫再改名初代此太夫、後に筑前掾となられました。
「合羽伊太夫」とは商業が合羽屋、名が伊三郞で有つたので通稱になつて居りましたと書て御ざります。
明烏もだいぶん古くより語つて居り升、五行本には
竹本咲太夫
鶴澤豐吉
と御座り升、旦那樣の御手元に御座ります番附の内に、たしか咲太夫師の勤めて居られますのが有つたと存じます。………
 
第貳信
昨夜は御靈神社の夜店に御座りましたので戾りかけにぶら/\步行しました所、箱根靈驗の丸本が出て居りました。見ますると表紙の裏に太夫役割が御座りましたゆへ、直樣買求め歸宅早々拙宅のと合せて見ますると、私の方には役割が御座りませんので、番附をとり出しくらべ升ると前に御送りいたしました役割と少しちがゐます所が御座りました。年號は何を見ましても、
享和元年酉八月四日
と書て御座り升。丸本にも共通りの年號に御ざります。又書下し番附には、
享和元年酉十一月三日より
道頓堀 東芝居。
是を見まするとわづか、八、九、十、十一月、是れだけの間に二度も同じ淨瑠璃を出演いたします事はないと考へます。八月に本をこしらへ、又、太夫も役割をいたしけいこはせしも何か都合有りて前に御送りいたせし太夫とかへて興業いたしました事ではないかと存じます。左の通り丸本役割
 
(**年表2;166正本)
六册目 破れ太夫名不明(**式太夫)
此―――線の太夫が外の太夫役割になつて居り舛。
 
忠臣藏の書下しの番附を寫眞にとりましたのを御笑らんに入まする。
寬延元戊辰年八月十四日竹本座に於て假名手本忠臣藏十一幕
 
(**年表1:193寫眞65)
是が忠臣藏始めて書下し興行の太夫役割に御座ります。
 
又此忠臣藏役割は寶曆十三年未正月十八日竹本座に於て二度目に興行せし時の役割
 
(**年表1:329寫眞247)
 
此二度目の忠臣藏の時當正月九日竹田芝居類燒に付竹本座へ相加り淨瑠璃操り竹田からくり狂言打込七切追出し拾文づゝいたし候と(**外題年鑑(明和版)の記事)かいて御座い升
忠臣藏六段目もはじめて語られた島太夫師より、次に語られました錦太夫師の方がよかつたと見へて高名集には、錦太夫師にかいて御座ります。また今日は箱根靈驗の御わびを申上升。
二十二日
 
第參信
夫れに鎌倉三代記豐竹麓太夫師の語られました始めての番附ではないかとぞんじますのが見つかりました。
寬政六甲寅年五月六日初日
道頓堀義太夫(**若太夫)芝居役割
 
(**年表2:77寫眞575)
是の切狂言に、竹本綱太夫の志渡寺の段が御座ります。
 
享和二年戌月日不明
堀江市の側西側芝居。
 
(**年表では享和元年の項に(2:165寫眞658)酉三月二十日として太夫役割が同一の番付が揭載されている 年表注記『〇二代目鶴澤清八舊藏番付に「享和元年三月」、藝大圖藏書寫番付に「四代目時太夫ナリ後二四世此太夫トナリシ人」の書込みあり。番付の月の部分が難讀のため書込みの「三月」に從ってここに揭げた』)
 
此師匠が語られまして越前風と申事になりましたので御座りませふか。