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【 大江良太郎 吉田榮三追憶 萬國 】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
 
 
吉田榮三追憶-文樂座稽古見學ノート- 大江良太郎
    
萬國 創刊號 1946.6.1 pp48-50
    
 
 どうせ一、二度は、雜踏の車中で警報に逢ふ事だらうと、覺悟を決めての旅だつたが、その日は安泰、早朝一番だちの下り列車が、少しの遲延で京都驛に着いた。燈火管制といつてもまだ緩慢で四條橋畔あたり、凍る夜の人通りを河原町行き電車の窓から眺めて、滯在二ケ月にわたる花柳章太郎を京都ホテルに訪ふたのである。
 下加茂での映畫撮影、引き續き南座初春興行への新生新派出演、「扇」「婦系圖」の道具調べに間にあふべく、私は東京を出發したのであつた。戰況の緊迫につれ、演劇への統制強化も急速度に加はり出した頃とて、語りあひたい話題も山積してゐた。が、用談討議を後刻にゆづつて二人を握手させた提言が、彼から漏れたのである。これも憂愁低迷の雲を拂ひ退けたい、逃避とは言ひきれぬ氣持の吹つ切りを、双方共に求めてゐたからであつたらう。
「道具調べが明後大晦日と決つたんで、榮三の親父さんから誘ひがあり、明日文樂座の舞臺稽古を見に行きたいと思つてゐたところだ。どうだね。一緒につきあはないかね。」
「それは有難い。是非行きたい。」
 こつちの稽古に一日のブランクが出來た以上、勿論私は、賛意を飛躍させての同行を賴んだ。吉田榮三と花柳章太郎の交誼につらなり、文樂愛好の一人として、私淑敬慕の藝の人から親しく人形藝談を聞き得たのは、「淡路人形」上演の時だつたと思ふ。その後、大阪公演の際など、旅宿を同じにしてゐた關係上、芝居のあく前、ハネてから、兎角旅のつれづれを、演劇談義で繋いでゐたわけだつたが、茶飲みばなしの都度花柳章太郎は、黑く細長い茶筒様の罐から、おかちんを出して振る舞ふのが常だつた。その説明によれば、榮三老妻女の手燒きおかちんで、彼の好物と知つて以來、下阪の度毎送り届けてくれるものだといふのである。ほんのり燒けて芳ばしく、醤油のききめも程よくて、風雅な美味を持つてゐた。その到來物の賞味から私は、鰻谷の簡素な住居で、伜のやうな遠來の知己に、無慾恬淡、藝道一筋の文樂人形遣ひの至寶が、老夫婦さし向ひで炭火をかこみお餅をやく、孤獨の中に自適のする閑雅な生活風趣を感ぜずにはゐられなかつた。
 確か新橋演舞場の文樂座引越公演に「加賀見山」の通しが出た時だつたと思ふ。新生新派同人で「長局」を總見し、そのあとで柳橋花柳邸に集り、榮三、織太夫を正座に東上歡迎の親睦會宴を催したことがある。古靱、榮三と結ぶ「長局」は、「道明寺」「二月堂」と共に兩名人の至藝中、誰しも最高峰として認めるところ、その夜も舞臺鑑賞の陶醉が、まだ醒めぬうちに酒杯を揚げたこととて、迎へる方の感激も殘り、まわりかたも早かつた。正客とて年齢の疎隔こそあれ、杯を愉しむことに於て類を同じくする二人である。熱と興の感染が、一座を急速度に上機嫌へと導いた。純情義憤の伊志井寛は、「大序會」當時の津駒太夫にかへり、曾ての同僚織太夫を相手に、文樂の將來を論じあひ、一層の自覺蹶起をうながしてやまなかつた。そして談、高潮に達すると、榮三の席まで幾度となく膝を進め、師匠たのみます、の後進敎導を繰り返し懇願する織太夫であつた。かうした空氣に幾分釣られた點もあつたらう。だが、枯淡の中に嚴しさのある第一人者の風貌を何處までも毀さず、といつてもその夜柳橋泊りと決め、心置きなく好みの猪口を重ねて、垣根を越さず花柳を相手に後繼者指導の難を語る榮三の口もとには、うち解けた氣ごころの嬉しさうな綻びがあつた。藝道修業の難さ、怖さのうち、如何に斯界が峻嚴であるかは「文樂物語」を通して、夙に私達の知つてゐるところである。苦行を經て坐りの域に達した藝の人の言々句々は、總て貴重な敎材となる。小聲で語る大阪言葉は、ことさら圓滑性を持つのが常だが、内容に嚴正な眞理があると、ピリリと強く響く個處の出るのもいなめない。親子對談とでも言ひたい榮三、花柳の羨しい交流から、私は、藝道論語を聽き漏らすまいと努めた記憶が新らしく想ひ出される……。
 昭和十九年十二月三十日…花柳夫人手製の辨當を鞄に入れ、防空頭巾に巻ゲートルといふいで立ちで私達が京都ホテルをでたのは、八時を少し廻つた頃だつたらうか。空つ風が冷たく、朝霜も殘つてゐた。半月前に「佐太村」を觀に行つて空襲警報に遭遇した體驗者の花柳章太郎は、殊更いかめしい装束をしてゐた。どの乘り物も歳の暮の人込みで四ツ橋の文樂座に辿り着くまでに二時間餘かかつた。玄關を入ると正面の卓子に新春を迎へる輪飾りが乘つてゐる。舞臺では「先代萩」の「竹の間」が進行してゐた。床は源太夫、人形は政岡の紋十郎、八汐の光造であつた。勸誘者の花柳が榮三の樂屋まで來意を傳へに行つてゐる間、客席の片端に座を占めた私は、外の寒空など失念し、「忘れ給はぬ御怒り」あたりで、熱く胸に迫つて來るものを押し堪へたりしてゐた。それよりも目を見張つたことは、黑衣を着、顔を隱してゐる公演中の舞臺と違ひ、稽古の事とて、人形遣ひの各自が、みな素顔を晒して出てゐる。政岡の左を遣つてゐるのが龜松であり、御殿醫小牧の左遣ひを玉助がつとめて登場したのには、ひとかたならず驚いた。戰局苛烈で赤紙、白紙が舞臺裏にもまひこみ、人員不足を告げてゐることは事實であらう。それにしても玉助、龜松となれば、立派に藝格を持つ人である。それが左遣ひの勤めをしてゐるのだ。修業場文樂のしみじみした實感が、稽古見參のわが身に迫つてくる。
と、筒袖仕事着の吉田榮三が、花柳章太郎と共に客席へ這入つて來た。招かれるまま私も椅子を前に移した。會釋をして聊か氣のさすものもあつたが、勉強のノートを取り出した。其處へ冴えた木頭が入つて、「竹の間」の道具かはりとなつた。人形獨自の政岡、八汐、沖の井、後向きの立ち身のまま極つた姿が、美しく目に殘つてゐる。
 次の御殿「飯たき」を呂太夫と重太夫で語つた。紋十郎も「何が不足でおなきやるぞ」の大泣きまで、政岡を締めて遣つてゐた爲、小細工が省略され、役に心理的な巾の出て來たのが嬉しく感じられた。「後には一人」のさわりになつて、千松の死骸の位置が問題となつた。古老榮三が明確にこれを敎へ捌くのである。ふと振りかへると、絞下古靱太夫も最後方の座席から舞臺へ注視を送つてゐる。稽古に審判の目が光るのも文樂らしい。
 忠臣藏の「七段目」は、由良之助の大隅太夫、お輕の伊達太夫、平右衞門の相生太夫その他總勢の掛合ひである。勿論、一力の塀外から初まるが、なんでもない場面ながら、「聞かば伊勢の初だより」で三人侍の引込むところなど情緒的である。道具が茶屋場にかはる。「バケ現して一こん汲まふか信田の狐」まで進み、由良之助と九太夫のイキが合はむ、早間過ぎるといふので監視の客席から駄目が出た。幾回となく小返しが繰りかへされる。「天津乙女のお輕女郎」のくだりで、フト由良之助の鬘に赤い玉の簪を見いだしたのも、文樂の稽古見學に於ける私の収獲であつた。段切れ、「加茂川で水雜炊」に至り、平右衞門が九太夫の死體を擔ぎあげて柝が入る。人形にして可能な面白さと言へるであらう。
 新作「出陣」には間に合はなかつたものの、「先代萩」「七段目」と通して見て、晝の部演目の終りとなつた。外には冷たく夕闇さへ迫つてゐる。急に空腹を覺えた。案内されるまま文樂心醉の二人に、榮三の部屋で辨當を使はせてもらふこととなつた。光造と榮三郎が、「壽式三番叟」の人形手入れにいそがしい。いづこも同じ燃料飢饉らしく、壽命の短かい急造燃え殘りの炭火を、樂屋番が十能に入れて持つて來てくれる。これを受けとつた榮三老は、私達を歡待すべく火吹き竹で、いそいそと火種を作るのであつた。そして正月の伸し餅を丁寧に燒いて、京都からの闖入者に振舞ふのである。その屈託のない素朴な親し味が、如何にもしみじみとしてゐて、私の心までも温めてくれた。
「壽式三番叟」の舞臺が出來たのだらう。二丁が入つた。熱と氣と品で使ふ三番叟氣味合の交錯を、師匠から要點指導されてゐた光造と榮三郎が、輕く會釋して部屋暖簾を出て行つた。それをキツカケに私達も再び客席へかへつた。初春の演目らしく、掛合ひの撥の音が派手に明るく小屋一杯にひろがる。鈴の音、足拍子、二人舞の型を破つて調和をとらねばならぬこの人形は、成程壮者の氣力を要するものと言はなければなるまい。
 やがて待望の「寺子屋」となつた。即ち十一月に「道明寺」を選び、續いて暮に「佐太村」が出、そして正月劈頭「寺子屋」を揃ヘて、「菅原傳授手習鑑」を全通しにしようといふのである。先づ「築地の段」を雛太夫、「寺入り」を宮太夫が語り、愈々紋下の出場となる。人形は榮三の松王、文五郎の千代、龜松の源藏、榮三郎が抜擢されて戸浪を使ふ。偖此處で、人形淨瑠璃の古式に則る舞臺稽古の手打が行はれるのである。細述すれば、柿色に文樂座と白で染め抜いた半纏着用の「とやぶれ」三人が、古風な饅頭笠をかぶり、太い青竹の中程につるした小太鼓を景氣よく叩きながら場内に入つて來る。と、お囃子部屋からそれに合せて大太鼓が鳴る。言はば初日をひかえての町ぶれ延長ともいへるであらう。この「とやぶれ」を合圖に、紋下古靱を中心とし、太夫、三味線、人形遣ひ一同が舞臺の左右へ竝び、「打ちましよ、チヨン/\/\、も一つせ、チヨン/\/\、祝ふて三度、チヨン/\/\」の、御靈文樂座につながる獨自の手打式が行はれるのである。
 それから古靱太夫が床の人となり、「源藏戻り」にかかるわけだ。文樂の「寺子屋」鑑賞は、三宅周太郎氏の「文樂の研究」にくわしいが、「せまじきものは宮仕へ」で源藏が羽織の紋を見、それから天照皇太神宮の軸を拜む。その後で足袋をぬぐのだが、緊張の汗を覺えてわが家に歸り、足袋をとりたくなる氣持の解釋など、一寸面白い。「岩松はゐぬかと呼ぶ聲に」の子供を呼び出すくだりは、節と撥音の快調が如何にも冴えて、床に絶對信賴の置ける文樂に於てこそ、初て陶然と醉へる個所である。「奥にはばつたり首打つ音」あたりまで進むと、寸分弛まぬ古靱の意氣もさることながら、榮三の松王が渾然と解けこんで生彩を添へて來る。一體紫縮緬の鉢巻に白の力紙を持つ松王の頭は、同じ文七のうちでも一番美しく賞味されるものだが、使ひ手が名人となると、血液が通ひ、人形の表情まで躍動するやうに思はれて來るから、藝の迫力は全く神秘である。「是非に及ばず菅秀才の首打ち奉る」の直後、松王が首桶を氣にして手を出しかけると、源藏がこれを遮る。玄蕃がすかさず監視の身構えに移ること説くまでもない。此處でツケを入れ、三者大きく極る時、榮三は「アツ」と聲をかけるが、待合せの意氣がピツタリ合致して、堪らなく嬉しい繪畫美を現出する。かうした緊迫感の重積も、「あのニツコリと笑ふて」まで來ると父性愛松王にかへつた人間味のゆとりが漂ふ。斯く碎けた瞬間、人形を使ふ榮三の面にも、上下脱いで本音を吐く心の救ひのやうなものがうかがはれて、迷ひなく親める佛像に類似の表情が浮かぶ。これも徹した藝の虚無がさせるわざであらう。「いろは送り」になつてからの文樂に於ける妙味に就いては、今更贅言を要しまい。即ち芝居だと割臺詞で簡単にかたづけるのだが、人形では派手に、千代の哀切を極めた振りごとで愁嘆を現す。ことに「明日の夜誰か」のくだりになると、松王が二重から下手ヘ下りて源藏と位置代りになる。「添え乳せん」で千代が經帷巾を持つてきまる。それから「跡は」の長い節尻に從ひ、駕籠の脇を離れた松王と、千代の二人が、節と三味線のリズムに乘り、足拍子をからませつつ愛情切實の劇詩の中へ解けこんで行く。そして段切れに妻が六字の旗を持ち夫を見あげるのだが古靱、榮三、文五耶の三トリオが高潮の中で一體となり、藝術の三昧境を醸成するのである。
 幕になるとすぐ、傍らの花柳章太郎は興奮の面を向けてかう言つた。「幾度か觀た文樂の稽古のうちで、今日ほど緊張した舞臺に逢つたのは初てだよ。」と。私もこれに應へた。「機會あるごと人形芝居の公演を鑑賞して來たが、こんなに火花の散るやうな寺子屋を觀た記憶がない。」…。その日の稽古見學によつて私は、「寺子屋」解釋に新發見を得たやうな氣持になつた。それは、「菅原傳授手習鑑」四段目といへば、竹田出雲の持場で、松王千代と小太郎の親子別れを書いた、と言ひ傳へられてゐるが、反面に於て純眞な夫婦愛を強調してゐる作であるのに氣がついたのである。「いろは送り」で込みあげて來る清い涙は、小太郎の死を悼むといふより、殘つた親の理解と愛情…いへば、わが子を犠牲に先だてて、すまなかつた、許してくれ、有難たうよ、の夫と妻が、心と心を寄せあつて互ひに無慈悲をかこち歎く、深い勞りの姿の中に、熱くもせまる一滴であつたのだ。さういへば前の方の「御夫婦の手前もあるわい」の個處、即ち千代が小太郎の身替りを知つて愁歎にくれたあと、人形では松王が妻の胸のあたりを扇で一寸つく。千代は輕くすねた型で足拍子よろしく上手へ廻り、少しツンとして正面向きに坐るが、此處なども嫌味にならず、人形なればこそ出る夫婦愛發露の伏せ勢とも見られるであらう。或ひは手前味噌の解釋と言はれるかも知れない。だが私は、文樂座の「寺子屋」を、かく觀、かく感じ採つたと重ねて言ひ添へて置きたく思ふ。
 夜の部の最後は南部太夫の「十種香」、七五三太夫の「狐火」で「廿四孝」、文五郎が喜の字の祝ひに八重垣姫を遣ふといふのである。奥庭になつてからは、紋十郎が左、龜松が足を遣つて師匠の長壽を祝福する…。興が乘るまま時間を超越して勉強したわけだつたが、時計を見ると十時を廻つてゐた。慌てた二人は榮三老に別れを告げ、大急ぎで外へ出た。震へる寒さも手傳つて地下鐵まで小走り、阪急の階段もかけ上つて、漸く京都行きの終電に間にあつた。
 四條大宮に着いたら十二時、既に市電はない。歳の瀨の月は高く冴えて二つの影法師を冷たく路上に投げる。靴音を凍らせつつ私達は歩いた。ノートを埋めた文樂見學餘談は、いまだに盡きない。思へば十二時間も客席に坐り、深夜人通りの絶えた京の街まで、人形追慕の亡者を背負ふて來てゐるのだ。
「自負ぢやない。一人よがりの想像を走らせるのではないが、今日の榮三親父は、此處一番、本物を見せてやらう、といふ氣になつてくれたのではないかな。」
 花柳章太郎は、かう言つた。私もうなづきかヘした。といふことは、先刻の「寺子屋」である。最初の取組み方は、ああまで眞劍になる氣構えを持つてゐなかつた。それが、松王の人形の本イキに引張られて、ぐんぐん調子が本格になり、ついには鬼氣迫る刃の渡りあひにまで進展した。なればこそ二人が、京山の寝姿を目の前に見る旅宿の軒まで、醒めずに文樂を語つて來たのである。幸福だつた。愉しかつた。警報の憂愁を忘れて、一日古典の陶醉境にひたり得た日だつた。
 昭和二十年の正月興行以後、空襲頻繁につれ、多分文樂座も完全にはあけ得なかつたのではないかと思ふ。間もなく大阪誇りの傳統舞臺も、災火のために燒失してしまつた。そして休戰協定成るに及び、十月に京都南座で文樂の人形芝居が開場した。吉田榮三は、櫓下古靱太夫の「堀川」で輿次郎を遣つてゐる。それが最後になつた。昭和二年以來、文樂座人形遣ひの座頭となつて約二十年、寡黙實踐、斯道復興に盡し抜いた藝の人榮三は、享年七十四才の長壽を全ふし、十二月八日【9日】に妻女のあとを追ひ、矍鑠闘魂の靈が靜かに天へ還つたのである。
 十二才で至難と苦行の藝道に入つて、門閥とてない初代吉田榮三で押し通し、由良之助、松王、菅相丞、熊谷、忠信、俊寛、光秀から重兵衞、與次郎、權太、勘平、治兵衞、團七、さては尾上、政岡、お園等々の女形まで、全く兼ねる演技を修得してゐた實力は、不撓不屈の藝魂に合せ、索めてさぐる獨創の研究心あつて裏づけられたものであらう。
 村夫子然としてあくまで謙讓、その癖親しめば樂屋の炭火でお餅を燒いてくれる好々爺の榮三老……幽明境を異にして追惜しきりなるを覺えるにつけ、あの稽古見學の一日を想ひ出さずにゐられない。同時に松王の「あのニッコリと笑ふて」を遣つた瞬間の慈顔が、髣髴と目に浮んで來る。今夜は一年後の十二月三十日である。
(新生新派主事)