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【花柳章太郎 榮三忌 新風流】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
 
  榮三忌 花柳章太郎
     新風流 1巻4号 1948.8.1 pp10-13
 
 大阪へ、年毎に來られるやうになり、罹災された知人や、ひゐき筋が一年毎に樂屋へ顔出しして下さるやうになり、おとゝ年より、去年、又今年と言ふやう追々舊態に戻つて來ることが嬉しい。
 文樂が旺んになり、中座が櫓を構へ、道頓堀は芝居茶屋の掛行燈さへ灯るやうになつた。現在のところ政令に依る料理屋、飲やが閉されてゐるが、花柳界と共にそれが許される日も遠くはあるまい。
 堀江川に浮く筏に枝垂る柳の糸、横堀に映る庫の數。船場の忙がしい積荷、北や南の茶屋のさんざめき、明暗二つの影は最う蘇へらぬ夢となつてしまつた。
 近松、西鶴の幻想[まぼろし]は再び偲ぶよすがもない。上司小劔、近松秋江、鱧の皮、青草、近くは織田作之助の、女夫ぜんざい、なぞに描かれた大阪は消え、コレからは別個の大阪の新風景を醸し出すであらうが、純粹の大阪情趣は根底から懷された。
 
 すべて良いものを失つた日本の現在では、さほど遠くない郷土の夢を追ふことに依つて自らを娯しむより仕方がない。
 私は、藝慾が強いから、歌舞伎は勿論、能でも、舞でも踊りでも、河東、萩江、淨瑠璃、一中、富本、薗八、常磐津、清元、地唄、すべての古典が好きだ。長唄は何故か好まない。いやに尊大振つたところが嫌ひだ。
 私の兄か中村兵藏と云ふ名のうた唄ひだが長唄は子供の時から好きでなかつた。
 大阪へ來ると、地唄を聞くのと、文樂を觀るのが樂しみ、そして大阪の寄席も好きで、最近漫才に押され、純粹な落語家が居なくなつたのが殘念だが、圓馬、三木助、松鶴、春團治、なぞよく聞きにいつたものである。文樂は、喜多村[ししよう]はあまり好きでなかつたからほんの書生時代の僅かな暇を盗み、御靈で、大椽の引退の時、どんぶりこ、と越路の炬燵を聞いた。大椽の幽艶な語り口を聽き只々恐れ入つたが、越路の迫力のあるそして詩情ある節の巧さも忘れ得ない。
 おさんの心情、小春の哀れさ、二人の女の爲めの感傷が、青年時代の私の胸を刺し、泣かされたものである。四橋の近松座では、彌太夫の帶屋、春子の合邦を聞いた。この二人の印象も忘れることが出來ぬ。
 
 大阪歌舞伎の人達では、齋入、橘三郎、璃玨、鴈治郞、梅玉、卯三郎、傳五郎、芝雀なぞ好きだつた。
 これは師匠の供をして、かなり見て居る。
 俄では、寶樂、團十郎なぞ、曾我の家、樂天會の喜劇以上娯しんだ。
 食べものが安くてうまいのも書生の身には有難かつた。それ程大阪と云ふ土地は豊かだつたのである。
 遊びは安いし、夜は更ける迄歩けたし、東京の様にイヤに片付けたところがなく、まつたく民衆的であつて、大阪程たのしい土地はなかつた。
 始めて一座を持つたのも大阪、女房を貰つたのも大阪、家を持つたのも大阪。
 それ程好きな大阪で只一つ淋しかつたのは、友達の居なかつた事である。
 芝居が好きな民衆であつて、又演劇を支持しない大阪である。
 私は五年大阪に、東京の大震災後、暮らしたが、何か心の空虚を感じて東京へ歸へつてしまつた。
 
 ところが、四五年前からの交りであるが、ふとした機會に、文樂の榮三と付合ふやうになり、終生忘れることの出來ぬ仲となつたのである。友達と云ふには、年齢の隔りがありすぎるが、實際よく付合つた。私が先きに、文樂好きであつたことは話したが、太夫の印象は深くとも、人形遣迄及ばなかつた。それ程泣かされた。小春、おさんの遣ひ手さへ覺へて居ないことは迂闊と云える。昭和十年の春、彼の一谷の忠度を見て、參つてしまつた。
 一谷と言へば、眼目は陣屋の三段目で、流しの枝は傍系的場面としか考へられないが、その忠度の品位、擧動、姫を相手の色氣、立廻りの間も品を崩さず、段切れ松の下枝を馬上でくゞる振舞ひ名匠の名品を見る感があつて、一絲亂れぬ完璧な藝を見せられ頭が下つた。
 それから、私のひゐき筋の、榮三を知つてゐる人の紹介で彼と會つたのである。
追從もなく淡々と語る榮三の態度にこつちも臆面なく物が云へ、話せば話す程慈味のある彼の風格が好きになつた。
 
 榮三との交際は、是迄多く書いてあるから、茲では略すことにする。
 苛烈に空襲を遭[う]け、相互[たがい]に芝居が出來なくなる迄、大阪へ行けばどんな時間を割いても必ず彼の舞臺を見るのを樂しみ、榮三も暇があれば、私の芝居を觀て呉れた。
 私の躰に時間がある時は、鰻谷東之町の彼の家の三疊の茶の間で二人は語り明かすことを此上なくたのしんだ。
 春は朧、秋は長夜、冬は鍋の湯氣の靄に包まれる燈の下で、厚椽の火鉢の向ふ前に座り、水入らずの盃のとりやりは、彼の手料理や私持參の肴で、人形ばなしのゆくたてを話して呉れた。
 彼の名品、菅相丞、松王、白太夫、盛綱、甘輝、熊谷、忠度、合邦、尾上、孫右衞門、治兵衞、權太、忠信、越路、八重垣姫、俊寛、金藤次、與次郎、重兵衞、十郎兵衞、小鍛冶、良辨、辨慶、等々々。
 私が、その役々の演どころ、心構え、遣ひ方なぞノートして居ると、しまいには、自分で私の手帳を取上げ、酒がうまうない、と云つて止めさしたこともしば/\である。
 私が、中座、彼が文樂、警報が發令され芝居が終ると、よろこんで二人は燈下管制のおぼつかない光りの中で酒を汲み交はした。
 空襲さま/\でんなア…と榮三はいつもニコ/\しながら銅壺に徳利を漬けるのである。
 いまにして思へば、その時、機上から爆彈を落されゝば、最も幸福であつたのかも知れない。
 
 私が彼と最後の別れになつたのは、廿年【19年】の暮れ卅日、文樂初春興行の舞臺さらひの日である。廿一年【20年】正月私は、南座へ出勤、その前月の十一月、十二月と京都で撮影をしてゐたので、躰に暇があると、ドウランを落して、四橋迄駈けつけ、十一月の道明寺、十二月の佐田村、正月に寺小屋とを月おきに、上演したので、前後、七回にわたつて、文樂通ひをした。
 芝居へ出て居ると斯うはゆかぬが、まつたくコレハ撮影の餘德と思ひ感謝しながら大阪行きの電車に乘つたのである。
 その時も、道明寺を三度、佐田村を三度、最後の寺小屋を惣げゐこ(文樂は舞臺稽古とは云はない)の折の一日で都合七回に成る譯だ。最も、道明寺の十一月は無事であつたが、翌月の佐田村は三度往つて二回警報の爲め、開幕早々幕を下されてしまつた。
 佐田村が一日しか觀られなかつたのは惜しかつたが、二日共、彼の家で厄介になり床に入つても話は盡きやうとしない。
 翌日撮影の時間に間に合はす爲め、暗いうちから鰻谷の家を出なければならなかつたが、我子を學校へやるやうなとりなしで彼は病妻の寝て居る傍で私に茶漬の用意をして呉れたものだつた。
 
 暮の卅日にはもう撮影も完了してゐたので、私は大江良太郎を誘つて、九時がゝりの文樂に間に合ふやう、京都を七時に出たのである。たしか、先代萩の竹の間が開いて居るとき、ガランとした客席の片隅の椅子へ、大江と二人陣取つて觀た。
 私は、惣げゐこは四五度經驗があるが、大江は始めてである。その時のノートが現在ないから記憶も定かでないが、竹の間は紋十郎の政岡であつたと思ふ。
 次が、壽三番で、是は、二人の三番叟を光造と、榮三郎が遣つた。二人の弟子の出來を心配して、榮三が私の椅子の隣りに座つて、何くれと二人に敎へて居た。
 切が七段目で、是も私の隣りに居て、いろ/\私に説明して呉れたのである。
 人形の七段目は始めて觀たので、私はトテモ面白かつた。
 それで晝の部は終りであるが、稽古の事とて直ぐ、夜の部の道具を飾つてゐる。
 私は辨當をつかひに、大江と二人で榮三の部屋へ行き、辨當を開いたが、榮三は、かき餅をしきりに燒いて私と大江に喰べさせた。
 そんなことで、その夜の部の初めが何んであつたか、忘れて憶へがない。
 客席へ戻ると、古靱太夫が居たので、私は道具の出來る間古靱さんと話込んだ。
 明日觸れの太鼓が歸へつて來て、寺小屋の幕が開く前、カンカラ太鼓を打ち、その打上げる時、樂屋から、太夫、三味線彈、人形役者が全部出て來て手打をした。
 それが終わると、羽織袴の清六と、十德姿の古靱が、「一字千金、二千金……」と語り出し榮三は黑衣を着ず、着物のまゝで、松王を遣ひ、千代を文五郎が持つた。
 この日の、松王の出來も一生忘れぬいゝものであつたし、文五郎も巧かつた。
 殊に、榮三の松王の肚、實驗の時の横眼の引きかた、いまに眼先きを離れない。
 切は、文五郎、喜の字の七十七紀念の出し物、十種香と、奥庭。
 コレハ嘗て、私は榮三に手を取つて敎へられたものだけに、眼を皿の様にして觀たが、榮三とは別の味で、勉強になつたのである。
 
 奥庭の終つたのが、九時四十分、その夜も榮三に引留められたが、卅一日が南座の舞臺げゐこだつたので、取敢ず、歸へることにした。
 
 それが榮三との永い別れにならうと、誰が知らう。…新京阪の最終に乘り四條大宮へ着いた時は、十二時半、最う市電は無くなつて居たので、大江と私は京都ホテル迄歩かねばならなかつた。
 
 師走の夜半の寒さは肌を刺す。二人は寄合つて、まだマザ/\と眼に殘る、榮三の松王と文五郎の八重垣姫を語り合ひながら歩く。…大江は、文樂の舞臺げゐこを始めて觀たのでとても興奮してゐる……。
 限りなく晴れた丸い月は、深く靜まつた京の街に高く冴え、二人の影を鮮やかに舗道に据えて居た。
 
 廿年三月九日、風速十五メートルの強風の折、東京が、一番廣範囲に燃え擴がつた空襲で淺草、日本橋、神田、下谷、本所、深川の下町一帶、一瞬にして灰燼に歸し、私は柳橋の家を失つたのである。
 次いで、十三日大阪も罹災し、北、西、東、南と市内殆んど燒失。道頓堀千日前、各廓、文樂も火魔に見舞はれ姿を消した。
 私は居城の明治座、榮三は文樂を失つた譯である。
 日本の、藝術も娯樂も空白にしてしまつた半歳を、榮三は胴串を持たず、私は刷毛も持てず、白粉も塗れなかつた。
 
 榮三は病妻に死に別れて、主治醫の秋山氏の父君、住野英二氏の居られる大和片桐村小泉の家へ只一人の弟子も連れず身を寄せたさうである。
 それが三月廿三日と聞くから、鰻谷の家が燒けて後半月と經つて居ない。
 その時彼は、心身共に疲勞して驛から、リヤカーで住野氏の家迄運ばれたと云ふことだ。
 大和、河内の山々が霞む頃には、大分健康も取戻し、下萌の野邊を少しは歩けるやうになり、都會の空襲恐怖から逃れ、靜かに老の身を養つて居た。
 
 そうした消息を風の便りに聞いて、私は彼の健在である事に安心したのである。
 終戰後、直く文化は立戻り徐々に娯樂は復活。吾々も警報のサイレンに怯えずに芝居が出來るやうになり、文樂も朝日會館どうやら蓋が開いたと知つて安堵の胸をさすつた。
 
 その内、安藤鶴夫君から榮三の急逝を聞いて私は呆然としたのである。
 文樂が立直つたと云ふ吉報に胸をなぜた間もなく、榮三の訃を受けやうとは思はないからであつた。
 敗戰と云ふいまはしい慘めさはあつても、芝居は次々と開き、戰爭中落付いて味はへなかつた娯樂に民衆は甘い物に寄る蟻のやうに劇場を埋め、私共は又滑り皮に發動された機械と同じく休む暇なく働かねばならなくなつたのである。
 大阪へ戰後始めて往つた時、早くも文樂座は再築され新装姿美しく開場した。
 その時、白井會長の厚志で、座葬として、榮三の本葬が、新らしい文樂で華々しく行はれたのは、寂しく終つた彼の最後を飾つた譯である。
 私は、それにも間に合はなかつた。
 それで、私だけの弔意をこめ、歌舞伎座へ出勤してゐた或る日、三つ寺で心ばかりの供養を榮三の爲めに營んだのである。
 今年二月、榮三の三回忌に因み、文樂座で彼の追悼興行があると聞き、私は、正月大阪へ新派祭で行つたのを機に、千秋樂の翌日暇をつくつて、大和小泉の彼の墓詣に行つた。
 飽迄晴れた冬の陽ざしは、湊町から乘る關西線の車窓に暖く、悴と二人向前に座つた。
 今宮、天王寺、八尾、柏原、王寺、法隆寺、小泉迄一時間ばかりも、このところ續く日和、麥も延び、梨畑の枯れた棚のあいに見える大和の山々に續く道を牛車の通るさまも長閑。
 大和小泉で下車し、弟子の光造に敎へられた道、住野氏の家を訪ね、榮三臨終の事を訊いた。
 秋山氏の父君は、彼の藝格を知つて居て、よく世話をして下さつたことは、光造から聞いて知つて居たので、初對面のやうでなかつた。
 身寄りでもなく、藝にゆかりのある人でもないが、榮三は獨り居の寂しさも忘れて、田園の風物を味はつたらしい。
 その證據に、彼は朝日會館の文樂公演も此處から通つたし又、京都へも行つて居る。
 躰の調子のいゝ時は、近くの畦へ出て野良仕事に、百姓の働く姿を見て居たさうである。
 住野氏が、それを聞くと、わてらは殿さんのすることも、又百姓さんの仕事も覺えんならん。暇のある時は、人の仕事を見て置くのが勉強や、……と云つたと云ふ事だ。
 住野氏は、わてらの様な凡人も、お師匠はんが身を終つた縁で種々[いろ/\]の方にお目にかゝれることが出來ますのもお蔭さんです……。
 と云ふ……。私は墓への道をたづね住野さんの娘さんの案内で、四五丁、枯田の續く、畦を歩く頃、陽は西へ傾き、北西の風が強く煽る。
 墓地の脊後[うしろ]は大和の松尾山、南に遠く法隆寺の塔が曇る彼方に見え、小丘い共同墓地は竹籔に包まれて騒がしい。
 住野氏の墓地に續く空地一坪ばかりに、粗末な木標が立つて居て。
 清光院淨丘直道居士【清光院淨岳直道榮満居士】、俗名榮次郎七十四才とある。
 舞臺げゐこの夜別れた彼とあまりにも有爲轉變な姿。
 私は、全く無量の感で墓と對[むか]つた。
 枯笹を除き、大阪から持參の白菊一束、それに彼の好物の一升を、小さい墓標に、ジヤブ/\浴けた。
 黑々と浸み入る酒の隈は、したゝか彼の土葬の土に深く吸はれた……。
 
 地味な飾氣の無い、彼の終焉の地としては、誠に相應はしい處ではあるが、酒好きの榮三は口に哺[くゝ]む盃も手にしないで、ほんの二三日の患ひの爲め、枯木の折れるやうに果なく倒れてしまつたのである……。藝の話もその道で無い人には底は割れない。定めて誰か相手が欲しかつたであらう……。文樂の復興も見たかつたであらう。古靱が、山城小椽を授かることも知らず、天覧なぞの光榮も夢にも思はず、弟子も身寄りも居ず、連添ふ女房には先き立たれ、一人でこの世を去つていつた寂しさを想ひやる、私の涙は、今供へた白菊の上に點々と落ち、西風はます/\強く私の頬を打つ……。
                      (おはり)