FILE 119-5

【花柳章太郎 蔭の下駄 政経春秋】

 1巻6-9号 1946.6-9

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
 文樂余滴 蔭の下駄(吉田榮三訊書) 花柳章太郎
 政経春秋 1 巻6号 pp35-38 1946.6.1
 
【「流しの技」、「無限の鏡の櫻ヶ枝」などの明らかな誤植は訂正した。】
 
 いま生きて居たら、定めし立派な役者になつて居たであらう…歌右衞門の息子福助。 
 彼は私に言つた。「君が歌舞伎の役者だつたらコンナに俺と仲好しにはなつて居なかつたらう…」或は、さうかも知れない。藝術家は何んと云つても偏狹のところがあつて、それが同業である場合、妙に嫉妬深く競爭意識が強い。「私と福助とは同じ様な役柄ではあつたが舊と新と云ふ、別々の世界に在る立場が割合冷靜に相互を批判して見られたからである…。」
 二人は可成突込んで、おたがひの藝評が出來た。その點で、私は彼の早世を今だに惜しく、又、儚んで居る…。
 もう一人は、この間逝つた文樂。人形座頭吉田榮三のことである。文樂の人形役者と、新派の女形、思ひやうに依つては、隨分、かけはなれてゐるやうであるが、藝道にたづさはる身の、その心構へに就いては立場の違ひこそあれ同じものがある譯だ…。
 榮三のことは可成書いたが、彼の訊書のノートを繰る度に、新らしい彼への追慕の念深く汲めども盡きぬ、藝の道の、はかり知らぬ滋味がある。
 大阪興行のある夜、彼の好きな天婦羅を、榮三の體の空く時間を計つて届け、私は今夜も鰻谷の家を訪ねた。例によつてお爺さん得意の小鍋だて、高野豆腐に百合根と玉子の煮たもの。とり分け、わかめと竹の子の汁が自慢だ。
 大阪特有の縁の厚い火鉢の向ふ前に、親子の様に坐つた二人は、勝手に酣をつけながら、その夜長を語るのである…。
 
  『五世彌太夫のこと』
「明治十七年壱月文樂座を不平で、脱走した太夫やら三味線で、博勞町の稻荷境内に、彦六座ちゆう人形芝居を造つた。座本は寺井安四郎さんと云ふ灘の酒問屋の灘定さん、重太夫、組太夫、春子(後大隅)同じ灘の御店と云ふ酒問屋の柳適太夫、三味線、廣助、新左衞門、勝七、廣作、人形が辰五郎、才治、東十郎、等、後に文樂から盲人の住太夫、團平さんなぞも加はり、文樂の越路、軍?太夫に對抗しやはつた。明治廿五年迄、九年の間文樂と對抗[たたか]つて居た。彦六も、櫓下の住太夫さんがなくなつたり又、柳適さんも死に、小屋は火事で燒けると云ふ不祥事が次々におき、歿落してしまふ。ほんで、廿六年に小屋を新らしくしたのだす。それは博勞町の花里樓と云ふ、料理屋の旦那が引受け、座名を稻荷座とし、團平さんの肝入りにより文樂で技は越路さんよりありながら、用ひられず文樂を退いて、九年も稽古ばかりしてはつた堀江の大師匠彌太夫さんを誘つて華々しく開場しましたんや…。
 最初の狂言は前が「菅原」の通し。越さんの三段目切佐田村寺小屋は大隅さん、彌太夫さんは、お染久松の「飯椀」世話物の各人で結構なもんだした。わても、そろ/\とその頃から役がつき出し、その盆替りに彌太夫さんが、「四谷怪談」の伊右衞門内を語られ、わては下男小介を割當てられたのだしたが、彌太夫さんから駄目が出て、小介を駒十郎さんに、私を直助權平と變へてしもたので、よい氣持はしまへんでしたが、相手は紋下だすよつて、こらへて居りました。
 初日を開けてみて、始めて彌太夫さんが、わてではあかんと云ふ譯がよう分りました。それは堀江の師匠は小介を、大さう大切に語られ、主役同様に役が生きて居たので、なる程、誰でもが端役に語るぞんざいさを、あそこ迄演處[しどころ]をもつて語られるかとつく/\感心したことがおました。
 その次興行が八百やでこれも評判。たしか十一月の芝居だと思ふが、吃又が出、これは長門太夫から湊太夫への口傳の秘訣に、初代傳法屋染太夫の秘傳とか聞いた、ものを一方ならぬ苦心して語られました。
 ある人が堀江の師匠に吃の秘訣を聞かれたら、
「聞く人々は吃に思へて、文句は誰にも判るやうに語ればよい、ズブの寫實は床の藝とはうらはらになる」と謂はれたさうで、わても感心してます…。」
 
 私は盃をこゝしばらく手から離してノートに記入、榮三の眼は情熱的に美しく燦とした。
「あては不具の繪師の心持、一風變つた情の動き方を語り活かしとうてそこへ力を入れてもまだ/\です」と云ふてをられ、元祖義太夫以來の口傳と謂はれる又平女房の詞、「わらわ諸共」の訛りなぞも叮嚀に語られた。その吃又が評判になつて、翌年の二月に我當(後仁左衞門)と雁治郎とが競爭で、それを出すと云ふ工合だした。
 
 その頃からお仕打の花見さんが株でしくじり、勘定場の方も苦しくなつて來ました時、文樂の方で越路さんが「河庄」を出す、その競爭で客を呼ぶこんたんがあつたらしく、彌太夫さんに推[すゝ]めたが、事を好まない、堀江の師匠はなか/\、ウントは云ひまへん。そこで表では逆に聲の無い師匠に難物と思はれる「逆艪」を注文して來た。ところが、「逆艪」は子供時分から師匠のおはこ物だした。
 師匠は「逆艪]のくだりの頭の掛聲、「シシヤツシシイ」の中へ「コリヤセイ」と云ふ間言葉を考へて一層調子をはずませ、しかも實は息をやすめると云ふ妙案を工夫され、見事にあの大物を語られ大評制をとりました。
 いまでもそれが型となると云ふ…偉い太夫さんだした。
 薄雪の三人笑ひ、帶やの義兵衞の笑ひ、瀧の場の瀧口上野の笑ひ、油屋の万野の笑ひ、八ツ目の陣屋の時政の笑ひ、笑ひにも幾らもありますが、なか/\六圖ケしい。笑ひ八年、泣三年、分けても、世話ものの笑ひが難澁、亡くなつた先々源太夫の笑藥の祐仙は得意で、この人の笑ひはうまいものだした。
 笑ひと云へば、近頃ではこの間亡くなつた津太夫さんのすしやなぞ、梶原を持つて居る人の胴串(頭[かしら]の棒)がしびれるやうだつたが、他の人だとチヨツトもこたへんと云ふてましたわ。太夫も胴が痺れる様な聲で語る人がだん/\出來[け]んやうになりましたなア…三味線の方は、年が若うても、飯[まゝ]は食べてゆかれるが、太夫が一人前になるのはどうしても四十の聲聞かんことには、味がでん、一人前やない。
 この間も三輪さん(相生太夫)にも云ふたんやが、「谷三」を語って熊谷の物語りの…「昨日に變る雲井の空定めなき世の中をいかゞ過行給ふらん、未來の迷ひ是一つ、熊谷たのむの御一言。是非に及ばず御首を…」の首切る熊谷の呼吸が短こうて、わてが遣ふてどうにも、自分の子の首を打つ氣が出んので困つた。それで毎日小言云ふて、十四日目にやつと、わての思ふ間に入つて呉れた…。
 私は、その日の晝、大阪市の催しの藝能祭が文樂にあつて、特にその日一日「玉藻前道房館」の金藤次を榮三、初花姫を文五郎、桂姫を紋十郎。萩の方を政龜、采女之助を玉助と云ふ、一流メンバーで勤めたのを特に榮三の好意で見せて貰つたのだつた。
「その玉三で、金藤次が、我娘の初花を打つところがある。織太夫は夜の部でもそれを自分の本役として語つてゐるのであるが、どうも「勝負はみエた觀念と閃く雷光[いなづま]姉姫の首は前にぞ落ちにける」の件で早間に語りながらも、實の親が我娘を打つ切ない情がなかつたと榮三に話したら…」
 いんま話した、相生さんの谷三と同じことで、そう云ふところに修業の要る譯や。近世の世話物語り、小音の三名人と謂れた、住太夫、彌太夫、(故人津太夫師匠)津太夫の三人の淨瑠璃には、泣かされるが、越路さん(大椽)さんには一度も泣かされたことが無いと云ふお客さんもあつたやうだす。しかし、淨瑠璃と云ふものは、あんまり突込んで語つてもいかんし、ほど/\に、餘情をもたせるやう床しゆうに語らにやあかんもんやと思ひます…。突込んでいま一息と云ふところで、氣を變へてゆく。つまり「泣かして、泣かせぬ」と云ふところそこに淨瑠璃の極地と云ふもんが、あるやうに思ひます…。泣かす太夫がうまいか泣かさん人の方が上か、そこに云ふに云はれんところがある…。太夫も、一二三、の調子の揃つて、ほんで鼻が利かにや、あかん。鼻の利かん太夫は味がない。同じ人形遣うとつても、太夫の出來、不出來で人形が、小さうなります…。
 太夫、三味線、人形、この三業が一つになる。太夫ばかりでもあかんし、人形丈やつたら尚あかん。ことに人形は、その役を現はすのに三人で頭手足を遣はんならんのやよつて、これ丈の人間が呼吸の合ふのは一年一日か二日、本間に數へる程しかあらへん。考へて見たら阿呆な商賣やと思ふ」。
 
  『人形遣ひの權式』
「昔は、親玉(初代玉造)が生ていやはつた時分には、人形で太夫、(竹本春太夫)と
櫓下に名を並べてたんやさかい、いゝ加減の太夫やつたら、舞臺から床[ゆか]に駄目を出したもんだす。駒十郎さん、清十郎さん、先代門造さん、文三さん、多爲藏さん、中でも、文三さんは氣むづかしい、劇しい氣性の人だした。伊達太夫(後土佐太夫)が彦三を語つたとき、淨瑠璃の間に鉦を叩く…伊達太夫が勘正場から文三さんのところへ、人をやつて、鉦を叩かんやうに言つたら、「阿呆!あんな淨瑠璃に鉦でも叩かにや、しようが無い」と云ふてどうしても聞かんかつた。ほんで、その次の芝居から伊達太夫の語り場へは、文三さんを使はないことにした。文三さんも助かつた/\と云ふてゐましたが、その後、文三さんが亡くなつた時、伊達太夫が、エライ人を殺したと云ふてトテモ、惜んでました。矢張り伊達さんも文三さんの腕は認めてたんや。文三さんは三代目越路太夫が太十を出した時、光秀を使ふて居て、「現はれ出でたる武智光秀」のキマリに、ツケを打たせて居たが、越路さんがあそこは忍やよつてツケ打たんやうに…番頭を使ひによこしたが、何云とんのや、云ふてその日かへつて二度もツケを打つたと云ふ皮肉屋だした。
 文三さんで敎へられたことは澤山ありますが、舞臺げいこの時の寫眞のうつし方です。たいがひの人形遣ひは、幕が閉ると、寫眞を寫す前、自分の襟を直したり形をつけて、居ますが文三さんは、段切れに極つたまゝの形で、すこしも動かず、寫眞機を据ゑさせ、寫し終ると始めて、自分の體を崩すと云ふ寫しかただした。ですからこの人の寫眞の人形は淨瑠璃の魂が入つて居ます。コレハなか/\出來ンこつたす。」
 
 私も榮三に同じことを感じた。貴方の寫眞は決して人形から息をぬいて居ない、熊谷松王、與次郎、團七、忠度、十次郎、數へたらキリがないが、殊に私が感心したのは油屋の十人斬の貢の寫眞だ。寫眞でいつも敬服して居るのは五代目音羽屋である
…。この人の寫眞にはメツタに失敗がない。成田屋のものは神様の様にすばらしい
ものとトテモ感心出來ないものとある。五代目の殊に傑作は紙治の炬燵と、油屋の貢とである。しかし私所藏のあんたの貢の寫眞は五代目のと比べて決して遜色がない…。
 「昔は、太夫がすかたんな語りかたしたら、人形遣から、口汚く小言を喰はしたもんだす。明治十六年のたしか九月と思ひますが、吉田辰五郎さんが、澤の席の芝居で、石屋の寶引の件で、琴太夫と云ふ人を舞臺から小言を喰はせた。「そんな語り様しよつて、やめろ!」それからつく/\琴太夫は太夫をしてゐるのが嫌になり、南地の法善寺で、ぜんざい屋を始めた。他の店と違ふて、二杯づゝお客に食べさせた。「太夫ぜんざい」それが當つて、今にその店が繁昌を極めるやうになつた。あては辰五郎さんの足をその時分ズツト遣ひましたことが、後にどれ程、得をしたかしれまへん…阿古屋、團七、苅萱、光秀、盲兵助、玉手、その他この方に敎はつたものがどのくらゐ自分の役に立つて居るか知れまへん。
 時勢が違ふからと云ふて、足遣や、左をもつことより、現在の若いもんは、主遣ひばかり持ちたがる…急がば廻れで、足や左を持つ年期をおろそかにするよつて、立者になつてから思ひ當ることがある。早よう出世せんならんといらだつ心で近道することが結局は遠道することになる…先ばかり見て足もとのこと考へん。行く先きを決めて、一足づゝ、しつかり踏んで修業せなあかん、藝道は遲れてゝも、學校式の勉強やと、頭ばかり先へ進むよつて辛抱が出來[でけ]んやうになる…藝の修業のむづかしさ。」
 
 榮三は、食物の中で殊に天婦羅好きだ。東京でも二三回は必ず一緒に喰べた。東京でのうまい家はたいがひ敎へたが、彼が最后の東上となつた戰爭以後、だん/\とさうした日本に餘裕が無く、終りには、私の柳ばしの家へ泊めて、出來るだけ種を集めて、彼に供した。一度なんか、野菜を揚げ、海老も、烏賊も無くなつたのでしかたなし蟹や、鱈を揚げて出したことがあつた。彼は、その鱈の天婦羅をむしやうに喜んで居た。
 
 「天婦羅も實によう喰べたが、今でも忘れられんのは、貴方の柳ばしで、おかみさんの揚げてくれはつた鱈な、あれはうまかつた、錦、花長、稻ぎく、もみぢ、天ます、ひげ天、富貴、そう云ふ座敷天ぷらもエヽが、東京は屋臺の天ぷらにも、なか/\うまい家がおましたなア。淺草の清水、天藤、濱町のこん久、座敷の家は金ぷらと云ふ方がそれらしく、本間の天ぷらは上品で無い、清水や天ふじの方にあつたやうだす。」
 おぢいさんなか/\天婦羅通を振りまはす。私は彼が御氣嫌になつたのを機に、二人の話を殊の他嬉しさうに聞いてゐる、病妻おうめさんとのローマンスを聞かうと思つた。おぢいさんニヤ/\笑つて居て…話を外らす。
 「この小箪笥はお梅のお父さんの形見や。コレ貴方に貰ふてもらはんならん…。あんたは斯う云ふ古いものが好きやよつて、鏡臺の脇へ置いときなはれ…。
 明治四十年の春の芝居、「日吉丸」が立つて、法善寺の津太夫さんの得意物、「小牧山」切に越路さんの「市若初陣」が出ました。
 丁度、紋十郎さんが病氣で休まれ、九日間、あてが、紋十郎さんの代りを勤めることになつた。何んせ、紋十郎さんは恰幅のある方だしたので、板額の様な大きい人形は得手で…、それを小兵のあてが、あの長丁場を使はんならん、あての本役は多爲藏さんの與市の左を遣つてゐたので、紋十郎さんの板額をよう見て居たのが役に立つた譯だした。一生懸命に遣ふたのが、役を活かしたもんか、コレがあての出世藝になつた。そのうち二代目玉造さんが亡くなる…この方はお父さんの親玉の呼吸をよくとつていやはつた上に、重兵衞、治兵衞、菅相丞と云ふやうなボケヤツシが、專門の巧い方でおました。その盆替りに、「彦山」と、中狂言に、「鏡山」の長局が出、紋十郎さんのお初で、尾上を遣ひ、この興行から番付が替つて助太郎さん、玉治郎さんとあてとが、三人中軸になり、その時、家内と一緒になりました。家内の實家は、京都で、千家下職淨益の一等職人の青木と云ふ家の娘だした。」
 箪笥の上に二尺位の、黑塗りに、金の粉溜の露芝に、胡蝶の蒔繪の小さい引出しの多く付いた小箪笥が置いてある。簡素な中に一際目立つたもので私は、その涼しい細工を、いつも榮三と二人、話がとぎれると眺める癖がついてしまつたらしい。
 
「いつもお梅が、貴方、あの箪笥が餘程氣に入つたらしいから、花柳さんに、あげなはれ…と云ふのだす。
 お梅のお父さんは、御所の御道具の御用も足して居たらしいので、斯うしたものも二つ三つあつたのだしたが、一つ上げ、二つあげしてゐる間に、たうとう是一つになつてしまふた…何を入れたもんやろ、藥だんすとも違ふかなアお梅。
 ーあんた、あれは、菓子箪笥でんかなアーーさうか、わいは、色んな藥を、わがでに入れておいとくよつて、藥だんすかいなアーと思ふとつた」
(つづく)
 
 文樂餘滴 蔭の下駄 (吉田榮三訊書) 花柳章太郎
    政経春秋 1巻7号  1946.7.1 pp 31-33
 
  『まだ遣つて無い役』
 私は、榮三にまだ使つて無い役、そして演つてみたい役を訊いてみた。
 
 サア…薄雪の兵衞。妹脊の定高。大内記。疱瘡子の重太郎、忠臣藏でまだ遣はん役もおはす…。顔世、本藏、これは九段目を是非遣つてみたい思ふてます。
 妹脊山掛合の、大判司、定高、久我之助やつたら、あては、久我之助が好きやな。これは今迄時々遣こうたが、チョツトも當てられん役や。浮流の岸に今を盛りと、櫻が咲いてゐる亭の中で黑塗りの經机に無量品を讀んでる様が、何んとも言へん…。
 忠臣藏でも一ぺん遣こうてみたいのが、四段目の判官。それと何遍つこうても、むづかしいのは、七つ目の由良之助。三枚目の柔かさでいけず、堅とうていかんのが、沼津の重兵衞これは、紙治と忠兵衞と共に、明治四十二年以來卅何年ずーて、相手の人は替つてあては變らずに、遣こうてる譯だす。亡くなる前に、大掾さんが研究して沼津を語らはつたが殊に、重兵衞に力をいれて居られました。
「町人なれど、武士も及ぬ丈夫の魂」この文句を役柄で充分現はしてゐられたやうだす。あては、この時が、重兵衞の二度目だしたが、一生けんめい遣ひました、平作の家を出る時、わらじを履くため、少し早めに出ましたら。大掾さんの注文があつて「隨分無事で」迄は、家の中に居て呉れといはれましたので、その様に遣こうたのが今の型になつてます。
 その後の沼津では、先代からの引寫しで、この間亡くなられた津太夫さんがよろしい。重兵衞遣うて、つく/\出遣はあかんと思ふ奥の千本松は泣顔して遣はんと重兵衞の氣持ちが出ん、黑衣やと何んぼ泣顔をしてもお客さんにさうをかしゆは見えまへんが出遣やと顔が見えてとうない演りにくゝて困ります。
 人形は、どうしても初役か同じ本役を四芝居(四回目)ぐらい遣はんと自分の物にならん。型が自然に自分の肚から出て來るやうにならんことは味が、その役に出てこん…あては、二代目玉造文三、多爲藏、さんなぞと云ふ先輩が生きてはる頃は、主に女形を遣こうとつたがそうした荒物を使ふ人がしだいに亡くなり、文五郎さんは女形遣ひ故。熊谷、松王、實盛盛綱、團七なんぞと云ふ荒ものを持つやうになつてしまうた。あての様な體の小さいもんは、どうしても下駄の高いのを履かにやならん。この頃は年で全くエライと思ふ…。
 あては去年の暮。演舞場の樂屋口の後の采女橋の傍に、いつでも砂を掘つとる船がある。リウコー車ちゆうのか芝居の往きかへりに必ず、それをあては、見て。そう思ふた、冬寒い日、風の吹く日、雨や雪の日、毎日飽きずに同じことをせんならん…。あて等も、毎日人形を持つて芝居せんならん。時には體の工合や氣分の惡い日もある、それでも人間、天から與へられた職やと思ふ…。あの船の人も、又あて等も同じことをして世を渡るコレモ因縁と思ふ、毎日の商賣に精出さなあかん…そう思ふて毎日砂取船を見てます…。
 
  『人形の衣裳と人形遣ひ』
 私は人形の衣裳のことに就いて、聞いてみたかつた。と云ふのは流石に榮三、文五郎、政龜、玉造、門造、小兵吉、なぞと云ふ、古老閣は、人形を消すやうな出遣ひの裃をつけないけれど、玉助、紋十郎以下の若手に可成、亂暴な好みのものを時に着ることがあることを覺えて居たのです。
 
 昔。松竹さんでない、植村さん時代の文樂は、お内儀さんが、衣裳一切をやつて居やはつたので、その役々に依つて、一人一人役者を呼んで題物が決り衣裳わりの時渡して呉れはつたもんです。
 お内儀さんは、衣裳の好みが上手で、一寸用事で外へ出ても、古着屋、呉服店でその人形に向き/\の柄があると、何時と云はず買つて來て造つて置くと云ふ熱心な方やつた。
 それが爲め、おかみさんが先月は、お前はんは何々の役がよかつたよつて、今月は、此いゝ方の衣裳を出して上げよう…。
 そう云ふて、渡て呉れはる。それがどれ程勵みになつたか知れへん。そして人形の衣裳も昔からヱヱものも、おました。大正十五年、御靈の文樂が燒けた時、名作の人形と一緒に衣裳もその時大分燒いてしもうた。そやさかい、それから後に作つたもんが、あきまへん。
 玉七が衣裳係をやつて居た頃はまだ/\世の中がよかつたよつて、ましだしたが、戰爭後はサツパリあかん。
 阿古屋とか、梅ヶ枝、宮城野、夕霧と云ふ花魁もの殊に宮城野が重い又御殿物の政岡とか、重の井、靜、と云ふやうなものも昔からのは何百年も使ふとるさかい、綿が固つて、ヱラク重たい、そした古いものと新らしい近頃のじんけんや、スフのものと一緒にするよつて調和いかん…。
 
 此間文樂で「ひら假名盛衰記」が珍らしく通しで、若手受持ちの晝の部で出たことがある。大詰になつて居た。神崎の揚屋で、梅ヶ枝の衣裳が淺黄の胴ぬき、後ののれんが水色、光造がそこへ淺黄の裃を着て梅ヶ枝をつかつた爲め、觀て居る見物の眼がトテモ、まぎらはしく、人形もたゝず又自分の存在もピントが、ぼけてしまつた。私がその話をしたら榮三は、又しても黑衣説をくり返へす…。
 
  『黑衣に就いて』
 現在でも、古靱さんは出物に依つては黑衣で遣うて呉れと言ふ注文を出しやはる。俊寛なぞそうだす。今も云ふた昔は、時代、世話にかゝはらず黑衣ばかりで、早替りとか、道行、切狂言と云ふやうな、特別のとき丈。出遣ひでやつ
たもんだす…。
 黑衣の生地は木綿と定つたものですが、昔は見榮で、綸子や天鵞絨繻子なんぞ着たこともおます。コレハあての知らんことだすが昔、女形を遣ふ者は、黑衣の下に友禪模様の女の「裾避け」の様なものをして居たさうでこれは三吾さんに聞いたことやが…。
 その後、足遣ひが「タツツヤ」のやうなもんを履いてました。白い生木綿のズボンとパツチと一緒にしたやうな、膝から下は袷せで脚絆の様になつて合せめは鞐紐のと二つありなか/\凛々しいもんでした。
 頭巾には二通りあります。猫耳とヅキリ。ヅキリの方は女形專門に云うてましたが吉田兵吉さんは立役でもヅツキリの方を使ふとりました。
 
  『下駄の苦勞』
 人形役者と下駄。あてが、人形役者になつた明治十六年。十二の時安井稲荷の隣。次の席の小文樂で初めて、見習ひに出ましたが、小さい時分から、チンピラで足も、遣はして貰へまへん。蓮臺(小道具物を置く臺)の出し入れ。横幕の開けしめ、舞臺下駄を揃へたりする役をさせられました。
 丁度、柿葺落しで「式三番叟」が出て居て、豐松宗十郎さんが、三番を遣うていやはつた。あてが、船底(舞臺が文樂は、二段になり、後方の二重を本手、前の一段低いところを船底と云ふ)本手から降りやはる時。あての出して置いた。下駄の右左が違うてたので(下駄は左右に印しがつけてある)宗十郎さんが怒つて下に蹲つて居るあてを、「このどんけつめ!」といふなり、向脛を蹴られ、氣が遠くなる程痛たかつた。又彦六座時代。吉田辰五郎さんが「貞任」を遣やはつた時。あては「ツケ」を打つてましたが、スカタン打つてしまうた、しまつたと思ふ時、舞臺下駄で向脛をやられ、この時は大怪我をしたことがおました。今でも、安達の三が出る度に、小供の頃を思ひ出します。それでも、それが身にしむ修業となつてます…。
 下駄で蹴られて發憤した人形遣は、可成りあります、おしかたが皆血みどろの苦しい修業をします。
 ついでに、下駄に就いてくるしゆう話しますと勾欄を、舞臺前に置いてすべての「シガ」を隱す工風は。三人遣ひを發明された、吉田文三郎さんそれ迄は、突込み云うて、一人で人形を遣うた。それを主遣ひが頭の胴串と右手を一人で持ち。左遣ひは左手と小道具を受渡しする。別に足を專門に使ふ者をつくり三人で、一人の人形を操ることを考へて、今日に及んで示す。その頃から人形も大きゆうなつて、人形遣ひが、足を繼がな工合惡い。ほんで、足使ひも主遣ひが下駄を履いた方が足をつかいよいと云ふやうな事で、下駄を履くことになつたのだす。
 本手(二重)から船底(地舞臺)一人形遣ひが降る時には本手屋臺から船底迄一尺二寸程おますよつて、下駄履いたら二三尺はあります、そやよつて、人形遣ひであてのやうな脊の低い者は本手から船底へ、荒ものを持つて降りる時はまことにエライ、そやさかい、ウムとか、ハツトとか掛聲をして降ります。
 序に下駄の高さを一寸言ひますと。
 一番が三尺。二番二尺五寸。三番が二尺。四番が一尺。五番が五寸。
 大一番の舞臺下駄を履くと一寸石油箱かビール箱の様な恰好だすよ… 流しの枝の忠度の立廻り、玉藻前の金藤次と萩の方の立廻りなんだも、間の惡い太夫やと、のべたらに語るよつて、人形遣ひが、メチヤ/\になる。例へば「駈けゆく向へ立ちふさがり…」と斯う語つて呉れたら、あとから前へ入れ替る間があるが「向ふへ立ちふさがり」とのべたらに語られたら、人形同士入れ替る間が無い譯になりまつしやろ。
 (こゝ自分で榮三は立つて實演する)
 今も云うた三尺もある下駄履いて舞臺へ降りるよつて自然下駄の音がする…。   あかんので、誰が考へたか、下駄の下へ草鞋を結び付けることを工夫したのだす。
 これなら音もせんし、又遣ふてる役者の體へも響かん譯、うまいことを思ひ付いたもんや…。下駄は皆、輕うなければあかんよつて桐に墨を塗つてます。
 これも新らしい間は、足に馴染人形が動かんので困ります。フルいのをつゞくつては履き。直しては使ひして大切にしてます。
 
 あて、この間九州巡業しとる時。何ぞ描いてくれ云はれて困つた。
 考へた末、あてらの一番の生命の舞臺下駄をかいて見ようと考へて、何邊も/\描いて居るうち、やうやく描けるやうになりました。
 下駄ばかりでは、何んのことやらわからんよつて、逆句を添へることにしました。
   人知れぬ苦勞脊繼や蔭の下駄。     (續く)
 
 
  文樂餘滴 蔭の下駄(吉田榮三訊書) 花柳章太郎
   政経春秋 1巻8号 1946.8.1 pp37-40
 
  榮三の役々
 
 正直なことを言ふと、私は榮三を知つてから六七年にしかならない。
 それ迄も文樂は好きなものゝ一つで、私が大阪へ芝居へ行くのが一年一度ぐらゐの度數であるので、その初日を開ける前日に暇があれば觀に行くのと、毎年吉例の七月、十二月と文樂が東京への引越興行と、こつちの芝居の無い時うまくブツカルと必ず出掛けるのであるが、こつちが年中忙がしい體である爲め餘程、拍子のいい時でないと觀られない。
 それ故。好きではあつても、あまり數多く淨瑠璃を知らない。重の井とか、沼津とか、合邦とか、割合上演回數の多いものは度々見られるが、榮三得意の鏡山の尾上なぞも、何時も長局の古靱出語りの前に私は自分の芝居への出勤時間になつてしまふので、惜しくも、席を離れなければならない羽目になる。したがつて、この六七年榮三に會つて昵懇を重ねるやうになつても、同じことが云へる譯だ。
 しかし、榮三の人格を慕ふやうになつてから今迄より實に拍車を懸けて文樂病に罹つたことは事實だし。今迄の様な通り一遍の輕い見方でなくなつたことも爭はれない。
 と云ふのは。今迄の様に只見て、ノートして置くと云ふことでなく榮三が遣ふ人形の型なり、その心の置きどころと云ふやうな大切の性根や肚を充分、彼に聞くことが出來るからである。
たいがいの藝人なり、又同業である役者の先輩に會つて、話を訊いても。そのおゝよそが、ともすると、苦心談に付きものの自慢話や自己満足のよがりと云ふやうなつまりは脇道に患はされて、嫌味なことにまゝブツカルのだが、私の知つてゐる中の藝人で榮三程、嘘を云はない、そして、お世辭のない、眞當な話をする人を他に見たことがないのである…。
 それと、實に感心することは、その記憶力の旺盛なこと、何年何月初役で何の役を勤めた時、太夫が誰れで、狂言が何人で、と云ふやうな事を明瞭に、その時の記録を話すのだ。
 その時榮三の聞書のノートと文樂座の上演年表を繰つてみるとその正確さに何時も驚くのだ。
 私の手傍に、彼の訊書きのノートが十冊以上あつたのだけれど、惜しくも柳ばしの宅で罹災し燒失したので、燒け殘つた四五冊のものからと、あとは朧氣ながら、自分の記憶にあるものとで、コレから榮三得意の役々の覺え書を辿つて、書續けて行かうと思ふ。
 尤も、後年親交を重ねるにしたがつて、「貴方、もうその帳面、おきなはれ、酒がうまふない」と云つて何時もノートを藏はしてしまふので、聞もらしたヶ所も可成ある。
 その後、そのノートを清書して、不明なところや、意味の不解らない點をもう一度聞訊正したく思つて居るうち惜しくも逝つてしまつたのは滄桑の感に堪へぬ。
  「一の谷の忠度」
「流しの枝の段」これは一谷嫰軍記の二段目に當るもの、一谷と云へば熊谷陣屋、と云ふ位組打から熊谷剃髪迄が人口に膾炙されて居る、東京の芝居ではあまり上演されず、上方の芝居で時たま上演を見ることが以前はままあつたが…。是からはメツタにもう上演されることもあるまい。
 大序は堀川御所で義經が平家を討亡す、機をうかがつて居る薩摩守忠度の戀人菊の前。父俊成が千載集に無名の者の歌を秀逸と感じ集に加へたいが卿の君の父時忠卿のとがめによつて義經が預る。
 岡部の六彌太と熊谷が出仕平家追討の賴朝の命を急いて来る義經は須磨の平家を討つては鵯越より逆落しと軍略を説き筒に活けたる薄櫻に件の短冊を付け、六彌太に命ずる此度の戰は勅諚の一戰。私の趣意に非ず、六彌太は薩摩守忠度の陣へ向ひ、詠歌は千載集に入りしかども勅勘の身なれば名を憚りて讀人知れずと記し、集に入りたる印に短冊に結びし、山櫻を送ることを云ひ付ける。
 又熊谷には武藏坊辨慶に筆を取らせし高札。「此花江南所無也、一枝折盗の輩に於ては、天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし」と敦盛を助ける謎をこめて熊谷に渡す。これがこの芝居の二筋の發展となる…。
 
 私はたしか京都で、齋入の息子の右團次の二段目「流しの枝」をそれもホンノ後半を見た覺えがあるのだ。榮三の忠度は、それに比較にならぬ水際立つた出來である。私が京都へ撮影に行つた昭和十六年三月、撮影の暇を得て大阪迄行つて見たが、全く忘れられない印象を與へられた。
 丁度その時、その興行がお別れとなつた、近世の端場語りの名手駒太夫の「酒屋」を聞き、文五郎の「おその」を觀た。
 そしてその旬日を出でずして、駒太夫は急に死んでしまつた。
 端場語りと私は云つたが、それは太夫が往年の文樂のやうに、越路、土佐、錣、南部、源と云ふ様に錚々名だたる太夫達の居た時の彼駒太夫への言葉であつて、昭和十五六年にはもう津、古靱、駒の三人しか、古い淨瑠璃を聞かせて呉れる太夫が無かつたからである。
 津、古靱、と二名手の中に入つて駒太夫も立派に切語りとなつて居たことは事實である…しかし彼の語るものの本質から云つては端場に妙味があつた。
 往年、古靱が重の井を語つた時、子別れの前の端場。双六の段を語つて壓巻。後の子別れを語る古靱を喰つてしまつたことがあつた。私はそれを聞いた覺えがある。彼の桂川の六角堂や、朝顔の笑藥はその後誰のを聞いてもその類をみない輕妙なもので、私は彼の端場を至寶だと思つてゐる。
 閑話休題。
 薩摩守忠度は大力があつて優美な平家代表の勇者だ、役者でこの役の見たいと思ふのは、羽左衞門でも無く、又先代勘彌でも有るまい。さりとて雁治郎でもぴつたり來ない。私は知らないが、この間の歌右衞門のお父さんの芝翫でも派出過ぎると思ふ。先代左團次でもない。私はこの役を六代目で見たい。又別の意味で吉右衞門でも院本の味は活かせる氣がする。義經と對當の仁勇を備へた勇士であり、且つ又文武の侍であるからである。
 この二段目は嫰軍記と銘名されて居るだけに義經が堀川御所に置いて。連歌を忠度に一つは敦盛を己が幼少の折重盛に助命された恩を感じ助ける謎として熊谷に贈る。
「さゞなみや、志賀の都はあれにしを昔ながらの山櫻かな」
 卿の君、忠度菊の前六彌太の件を一筋。
 敦盛、藤の前宗清、熊谷の一筋つまり二筋にかけてある丸本物の通例だ
 二段目の前に陣門、組討、がありこの流しの枝はその切になつて居るそして三段目が陣屋となる譯だ。
 忠度は許嫁菊の前の居合せた、乳母のはやしの家で偶然に遭ふ、茂次兵衞の訴人に依つて、岡部の六彌太が、討手に向ふが、義經の命を受けて「山櫻」の歌を忠度に贈る。忠度は、梶原の討手と單身戰ふが、義經の義心に感じ一の谷の戰場で、六彌太に討れることを約束して須磨へ向ふ一段である。
 榮三の忠度で感じたことは、生きた役者に見られぬ、詩がその役全體を蔽つて居る事實だつた。
 只人形が遣はれて居ると云ふ以外に、知的なそして武勇に傑れて居る忠度を現はしてゐること。「世の中をいさゝめならぬ身の願ひ…薩摩守忠度」の出にそも/\それを感じたのだつた。
 俊成卿が院宣によつて千載集に今生の思ひ出として一首殘した。「さゞなみ」の歌の作者を思はせる。忠度を慕うて乳母のもとへ来た菊の前を故意に離別し「一門の積惡かく迄傾く平家の運」あたりの色氣と品。茂次兵衞の訴へで、梶原が討手に來てからの立廻り、「忠度ちつとも動じ給はず」から「おこがましや平次景高」で芝居では襦袢を二枚脱いだと思ふが、人形は勿論それをしないで、廣袖の鬼衣の様な丹前を脱いで後へ垂れる。
「太刀追つ取つて」で太刀をぬいてからの立廻りつまり、「下知に從ふ雜兵共、門の戸蹴破り一同にかけ入り/\駈け向ふ、多勢を屈せぬ早業に眞甲立割、車切、四方八方はつし/\薙立て給へば、雜人ばら皆我一に跡ずさり、忠度怒りの御聲にてうぬ如きに刃物はいらず、大手を廣げ待給ふ、手並にこりぬ雜兵共。一人がゝりは敵はじと、大勢一度にどつと寄る、引つかんでは人礫。あやどりなんどと見る如く目覺しかりける次第なり…」
 まだ/\この間の長い淨瑠璃の間。「うぬら如きに刃はいらぬ」の件でたしか右團次は天井の藁の中に突差す型があつたやうだ。榮三の忠度に感心したのはこの長い殺陣の間に一つも品を落さなかつたことだ。
 右團次はヱて車輪になると自分の生地が役そのものより前へ出る癖の多い役者でありこの間にコセ/\としてしまつて品位がなかつたのを、はしなくも思ひ出してしまつた。
 芝居でこの立廻りに花道で忠度が雜兵を追ひ七三迄行き、「むら/\ぱつと逃げ失せけり」で東に立ち兩手を返へして後へ一、二、三、右から下して右廻りにまはつて石投(石を投げる格好の見得)の見得で極るを俗に忠度と云ふ熟語のある程の大見得も人形は少しの當て氣なく餘裕をもつて榮三は優美に遣つた。
 後に榮三を知る様になつてから、この話をしたら、明治廿六年彦六座所演「流し枝」で梶原を遣つたが小兵で梶原の五貫からある鎧の大人形を持つての立廻りはヱラかつたと云ひ、その時、菊の前を遣つて居た鹿造と云ふ舞臺の喧しい人に形がよく出來たと賞められたと云ひ、この流しの枝を語つた、染太夫の大まかな淨瑠璃、一二三、の聲が揃つて居て實にうまかつた。文樂座座主の植村のおかみさんが毎日この「流しの枝」になると一番後の棧敷の戸を開けて聽いて居たさうだ。榮三の聞いたうちで最もこの淨るりのうまかつたのは、盲人の住太夫とこの染太夫だつたさうである。
 六彌太が出て來て。「さゞなみ」の歌が讀人知れずで千載集に採擇せられたことを知り、義經と六彌太の義心に感じて捕はれようと覺悟をすると、六彌太が勝負は戰場とて、須磨で再會を約す。そして六彌太の好意に送られた黑毛の駒にまたがる。「思ひの種や涙の種。仁義を種の六彌太が、東雲近し急がんと先に進んでたつか六。いはぬはいふにいやまさる暇乞さへ泣顔に見送る姿、ふり返る心の種の詠歌も、昔ながらの山櫻、散りゆく身にも指かざす、流の枝の短冊は世々に譽を殘す種。歎きの種の離れ際…」この間に六彌太が、忠度の片袖を切つて菊の前に訣別のしるしに渡す件があり。菊の前が黑毛の駒の轡を持つ色彩的なさまも見られる。「諌めを種と隔つれど、はてし涙の悲しみを倶になづみて耳を垂れ嘶く聲も哀れそふ駒の。足取り諸手綱引き。別れ行く曉の空も名殘りや惜むらん…」
 芝居は義經が薄櫻に短冊を付けて送つた櫻の枝を忠度は腰に差し、馬に乘つてから又改て取出し「散りゆく…」で差し翳し姫と顔見合せて大廻りに舞臺を廻つて一二三と馬の頭を向け直し、「引別れゆく曉の」で花道の附際迄行き、手綱を絞り、櫻の枝を逆手に持つのが柝頭とおぼえて居たが、この段切れは人形の方が、遙に餘情があつて趣的だ。
 人形の方は、忠度が花道の無いかはりに、乳母の家を出ると、引道具になつて(ひらがな盛衰記の逆艪の様に)舞臺中央やゝ上手に大きく枝を張つた松がある。一同と訣れて來た忠度は馬上の體が松の枝に遮ぎられる。據ろなく、馬の背に伏して松の枝を潜る時、腰に差した義經心入れの薄櫻の枝を抜きとり右手に持つそして極るのが、「空の名殘や惜むらん」になる私はこの餘情ある人形の段切がたまらなく好きだ。
 
  「無限の鐘の梅ヶ枝」
 明治四十一年六月御靈文樂座で演つた「ひら假名盛衰記」が近頃での大物と榮三は私に話したことがある。
 笹引、南部太夫、源太勘當、七五三太夫(初代)逆艪、染太夫、辻法院越路(三代目)神崎揚屋、攝津大掾、人形は、松右衞門實は樋口次郎兼光文三、母延壽、門造(光代)、梶原源太、(小才治の弟子助太郎)お筆、榮三。船頭權四郎、香爲藏。千鳥後遊女梅ヶ枝、紋十郎(先代)等、成程豪華版であることが分る。
 大掾の揚屋、染太夫の逆艪、越路太夫の辻法院。現在考へても垂涎何斗の思ひがしてならない。
 此大顔の中で既にお筆を使ふ榮三となつて居る事に感心する。
 本來お筆は紋十郎が勤めるのが至當なのだが、千鳥、梅ヶ枝、殊に無限と云ふ切幕の大物があるので、榮三にお筆が初役として與へられた譯だ。
 曾つて、紋十郎が、お筆を勤めた時、逆艪と辻法院と、神崎の三つの入りに三度共必ず、見物に手をたゝかせたさうだ。榮三もその初役でお筆を勤めることになつても、自信がなく總げいこの時、笹引を紋十郎に賴んで遣つて見せて貰つたさうである。
 その笹引を南部太夫が勤めた時、三味線は誰か一寸忘れたが、段切れの「袖袂泣く/\辿り」の死骸を笹に結び、お筆が肩に擔ぐ、「チリガン」の彈き方に死骸の重みが感じられないと云つて、先代清六がどうしても承知しなかつたと云ふ話も聞いた。
 話は梅ヶ枝に戻るが、榮三はその時の紋十郎の型をよく覺えてゐて私に教へると云つて居てくれた、私も何かの場合役に立つと思つて一順聞いたのだが、大阪を離れる前日であつた爲めもう一つ委しく訊くことが出來なかつたのは殘念でたまらない。
 攝津大掾の後援者で、その當時軍部の仕事をして居た、杉山茂磨呂と云ふ人が、榮三のお筆を觀て、榮三は後年紋十郎の後繼者となると極めを付けたと云ふ話がある。
「無限の鐘」はその文樂座全盛期に、上演されて以來絶えて居たのであるが、御靈文樂座燒失以來、四橋文樂座初開場(昭和五年壱月)から引續きの五月興行に駒太夫が勤めた折、榮三は三度目の梅ヶ枝を遣つた。(大正三年十月二度目が本役)
前年、紋十郎病気の折、代役を承はつた後、本役として勤めてから三度目の梅ヶ枝である。
ひら假名盛衰記は、菅原や、千本櫻、忠臣藏程の名作では無いが、文耕堂、千前軒、三好松洛、淺田可啓、竹田小出雲、等の合作で、二段目の源太勘當場、又三段目の逆艪があり四段目に神崎揚屋が最も劇的、色調が三場共に違ふと共に、優、壮、艶と場面々々に特色があつて最も舞臺効果が擧る點が、見物受けする由縁である、つまり時代世話の裏表が客に飽きさせない。
 芝居では、源太の先陣問答、福島の逆艪がしば/\上演されるが、何故か四幕目の切、無限の鐘の優美な舞臺が、上演されぬ。
 
  文樂餘滴 蔭の下駄 花柳章太郎
   政経春秋 1巻9号 pp40-41 1946.9.1
 
  榮三の役々
 
 關根默庵氏の「ひらがな盛衰記の由來」に依ると、「この戯曲は松田和吉の文耕堂が名前主であるが、出雲、松洛、可啓、小出雲等の合作、元文四年四月竹本座の操りにかけたものである。藝題の「ひらがな盛衰記」の角書に「逆艪松」「矢箙梅と置いた通り、源太の勘當場と松右衞門の逆艪との二筋を脚色したもので、舞臺の上でも院本を見ても、逆艪の方が引締つて居るが、勘當場は四段目の無間の鐘の用意として書いたものであるから舞臺面が綺麗なだけで、決して上乘の作とは認められぬ。
 たゞ大立者の顔揃ひによつて出たものと見え、古來度々演じられてゐる。尤も梅ヶ枝無間の鐘の段は、これより先き、元祖瀨川菊之丞が演じてゐる。それは享保十六年の正月中村座にて「福引名古屋」の二番目に「傾城中山道成寺」と藝題して出してゐる。それは傾城葛木が無間の鐘を手水鉢によそへて打つ動作[こなし]があつたのを、文耕堂がこれに嵌め込んで編したものだと「古今技藝古實」に書いてある。して見ると、盛衰記より先でしかも操りに上演される以前、菊之亟が手がけて居る事になる。
 操りから芝居へ移植したものゝ多い中に、これは芝居で當てたものを作者が人形淨瑠璃に無間の鐘の件を挿入したもので實に珍らしい。
 默庵氏の言葉のやうに二段目の場の源太勘當はあまりおもしろくない。腰元の千鳥がお筆の妹である説明もなく、お筆千鳥の父鎌田隼人、山吹御前駒若丸のことも更に、説明なし。只梶原兄弟を立役、敵役にし、それに、千鳥の振袖姿と兄の源太の色合を見せる丈で、あとは母の延壽の老女形としての貫禄を示す場がある。
 この盛衰記に「無間の鐘」を織込んだやうに、菊之亟の手水洗鉢を叩いて金を湧かす芝居が享保時代以後流行し、芳澤あやめ、水木花之助、瀨川菊次郎、二世菊之亟、中村富十郎。中村粂太郎、嵐雛助、澤村國太郎など當時の女形の大名題が競って勤めて居る。
又男にやつした、市川柏 が「人魚の無間」藤川平九郎、二代目大谷廣次が、「鮟鱇の無間。」羽左衞門が、「三千兩の無間」市川海老藏、團十郎が「鯉の無間」その他三ヶ津にわたつて、鐘になぞらへる仕打は瀨川菊之亟の元祖にならつて演じて居る。それを見ても、昔は如何にこの所作が見物に欣ばれたかが窺がはれる。
 右に就いては、種々の評判記や上演記録などがあるがこゝでは省略する。二段目の源太勘當の後の三段目が大津の宿屋で、後がお筆の笹引となりそしてその切りがいつもの逆艪となる。それから四段目で源太の方に移り、源太が浪人して辻法院の山伏の家に寄宿する。一方千鳥は、神崎の廓に身を賣り源太への仕送りをして居る。お筆は、妹千鳥を探してゐたが、ふとした事から神崎の廓へ勤めてゐる事を聞き知り、その行衞を占つてもらひに來る。
 源太は梅ヶ枝の揚代に衣類その他を質入れして紙子の有様、「明日義經一の谷へ出陣の兵糧米を香島の里の百姓に供出させる爲め、辨慶の身替りに法院を仕立てる」お可笑味のチヤリ場がある。
 そして四段目切が目あての神崎揚屋となる譯だ。
「雪や霙や、花ちる嵐。可愛男に僞りなくば本の心で淡路島、千鳥も今は此里へ、身をば賣られて、やり梅の。名も梅ヶ枝の突出には名木並ぶ方もなく
 
 この(千鳥も今は)で梅ヶ枝出る、一寸中腰でネジ(曲げる型)をして上手へ座る。
 そこへ亭主が出て來て、今宵東國のさる大名が初對面からみそめて身請したいと云ふ意味の相談を持ちかけ、箱入の駿河小判をずつしりと持込んで來る。そこへ姉のお筆がたづねて來て、父の訃事を知らせる。梅ヶ枝も我身の戀に後先忘れ淫奔[いたづら]の爲め知らずに居たことを嘆つ。山吹御前の果かない最後、番場の忠太の手にかゝつて斃れた父、隼人。そしてその仇討を梅ヶ枝に知らすため今迄千鳥の行衞を探がして居たことを話す。
 其處へ源太の來た知らせがあつてお筆は梅ヶ枝に刀を渡して外す。
「夫はさうと香島迄は、やつたになぜ遲い事ぢや迄。早う逢ひたや顔見たや逢はゞ何うして斯うしてと煙草薫らする。
 胸の思ひは日に千度、夜毎々々に通ひ來る梶原源太景季。心盡せし身の廻り大盛小袖長羽織、法禄頭巾紫の色に引かるゝ揚屋町」
 源太はどこで工面したのか、繻子の上下の若衆姿でシナリ/\と出る。梅ヶ枝は、上手で炬燵蒲團に身を寄せ、いらだつ思ひで居る。
「煙くらべん淺間山、反さぬ顔で吹く煙管この間の梅ヶ枝の胸の焦りを人形は無表情のうちに出しところ勘要の由。
「コレ歌どころぢやない來たわいの。何が機嫌に入らぬやらめつきりと持たせ振り。大名客の襟に付き、我等が様な浪人の黴た衿にはつかれまいと、ずんと立つを待たしやんせ」
 源太が急いで下へ行くのを留め、入替つて上手に押す。
 源太は炬燵へ腰掛ける。
 その時、源太の帶にさした扇を梅ヶ枝が取る、源太はこたつで煙管をくはえる。
「色も戀も打越して心底づくの二人が仲袖から袖へ手を入れてじつと引寄せ引しめて」
 梅ヶ枝は扇を開いたりして居るが扇を捨てゝ手を取り合ふ、斯うした卑俗の文句も人形だと少しも嫌味にならない。
 奥で手をたゝく音がするので、梅ヶ枝を慌てゝ裲襠のが中に源太を隱す。源太「しかけ」の中から顔出す極りも、重の井と三吉の「染分手綱」に似て居る仕草がある。
「憎い男と目に脆き、涙ぞ戀の習はしなり」になるのだ。
「扨其方に言ふ事あり、今夜七つの出汐に父初め弟平次景高、一の谷へ出陣。某も能き時節、軍勢に紛れ下るに付け其方に預けた産衣の鎧、請取りに來たわいの」
 源太の言葉に梅ヶ枝は當惑する、と云ふのは梅ヶ枝は突出しの日から客と云つては源太一人、他の客に出ない爲、當の鎧は質に入れてしまつて居るのだつた
 大名の懷子の源太はそれを知るよしもなかつたが、梅ヶ枝の言葉に氣も狂はんばかり驚く、そして賴朝からの拜領ものなれば家にも身にも代えられぬ、一生今宵の一戰に加はらねば埋木同様、と胸押寛げて腹を切ろふとする。
 梅ヶ枝は、東國の客に身を任かせ、今宵のうちに三百兩調へ鎧を渡す約束をし
「サアその鎧さへ手に入ればお前の望は叶ふでないか。シテ其金は如何してと御不審も立たり、そこがお前と談合づく。奥の客に身を任せ騙しなば、二百兩や三百兩の金は自由。扨はおれ故身を汚すか、夫の難儀にや換へられぬ不便の者の心やな、たとへ死んでも忘れぬと涙ぐめば」
 自分故に身を賣つた可弱い女をつかまへて、こんな勝手な源太の我儘も、色男は梶原源太と名稱される由縁であらふか。
「後に來ようぞ首尾よう仕や、が氣を揉んで持病の痞。借錢の代りに、癪おこしてたもんなと別れてこそは歸へりけれ」
 男もこゝ迄行けば虫がよすぎて呆れるばかりだ、さりとて憎めぬ大名の坊チヤン、院本もの大味なところ、こゝが身上とでも謂はうか、愉快だ。
 梅ヶ枝は一時の方辨に、金の才覺を云つてのけたが奥の客が何分の好金呉れたこともなし、男の命を助けたい爲めの出まかせであつたのだ。
「今宵のうちに調へねば鎧も戻らず、金ならたつた三百兩で可愛い男を殺すかアヽ金が慾しいなア…」
 そんな氣安めを云つて這入るとき「癪なぞおこしてたもんな」のところで源太と梅ヶ枝が抱合ふ、コレなども現實に舞臺の役者が演じたら、トテモ嫌味なものを感ずるのであるが、人形の働きは院本の中のあく迄源太であり、梅ヶ枝で現實感を抱かせない。
 こゝで床に連彈の三味線が一挺入り、三下りになる。そして梅ヶ枝の一人舞臺となる。
「二八十六でふみ付けられて。二九十八でついその心。四五の二十なら一期に一度、わしや帶とかぬ。ヱヽなんぢやの人の心も知らず面白さうに謠ひくさる…」
 梅ヶ枝は裲襠を脱いで胴ぬき姿になり庭に下りる。
 人形特有の下駄音を踏む。派出な所作になるが、榮三はこゝ決して浮いて踊つてはならない飽迄、心持一つで演るもんだと云つた。
「三百兩の金が慾しい、わしや帶解かぬ廿なら四五の、四五の廿なら一期に一度、わしや帶解かぬ、」
 だん/\梅ヶ枝の體が上手へ寄つて行くと、柝が入つて道具替りになり、奥庭上手に中二階その手摺のところに石の手水洗鉢の大きいものが据えられ、その傍に梅のたはゝに咲いた白梅が枝を擴げてゐるのだ。
 下手に枝折戸有り。
 榮三は私に言つた、昔は道具を引かず前の場のまゝ演じた由。
 この口説の間の私は節付に感心した。
 昔の作曲が誰であるか知らないが、トモすると感傷が强すぎる弊が多い節付の中で、時代世話の中に何處か舞踊的なこの場面を優美にさせる。なだらかにして艷やゝかに流れる味。
 この間に梅ヶ枝は派出に上手、下手と惱んだ氣持で逍遥する。そして人形が浮遊するのだ。
 中腰、或はネジ(後向きで極る型)さま/\の形の美しさを連續させ、三百兩の金の才覺に苦しんだ遊女の姿はあはれにも又艷である。