FILE 119-4
【花柳章太郎 柳かげ 演劇界】
(2017.12.26)
提供者:ね太郎
柳かげ 吉田榮三の憶ひ出 花柳章太郎 演劇界 4(2) 1946.2
記者註 故吉田榮三の藝に傾倒し、絶えずその門を叩いて藝談を聽いてゐた熱心な俳優は、却つて歌舞伎に居ずして新派の花柳さんであつた。この稿は榮三がまだ生きてゐるうち、その話を聽くまに/\書きとめて置いた記録である。
常やつたらこないな時間に、ゆつたりした氣で話しがでけるなちゆうことは出來んが、まアゆつくりしとくなはれ。おうめ(細君)がへたつてまんのだす。何も馳走出來しまへんが、是、今朝から私が何もかも買ふたり又、煮たりしたものだすが、はア、酒は壱升おまつせ。これはこの間、文樂初めての慰問に、東海道の苅屋へ行つて貰ふて來たんだす。その時に米も土産に持つて來ましたや。ま、病人の枕もとでむさくるしいが……二人でへたる迄一つやりまほかいな。
折りよく兩方の芝居が休みになつた日、私は道頓堀の芝居、榮三は文樂の舞臺げゐこのすんだ晩、久闊久しい對面に水入らず飲みながら夜もすがら語る機會を得た。
私は近頃大阪へ行く度、この老人からすぎにし、こしかたのよもやまの藝談を聞くのを何よりの樂しみにして居る。
「指影芝居」
文樂の表むきの話はもう可成、わてもしたり又、文五郎さんも話してまんので、一つ今度は私の若い頃の大阪の小屋物の話から始めましよか。さア明治何年やつたろか。大阪に「指影遣ひ」と言ふまア影繪の芝居があつて、よう流行つたもんだす。せりふは義太夫の太夫が演ります。まア文樂の人形の代りに影繪が踊る譯でんな。夏なぞ、涼みがてらよう人出のある頃やつてなか/\入つたもんだす。
「面芝居」
それから面芝居ちゆうのがおました。宮永幸太郎ちゆうて淡路出の人だした。これは人形と違ふて、何んでも自分一人でやるのだす。文樂のやうに「手すり」を置いてそこに幾つも鬘をおき、衣裳も替へれば又、鬘をかへ、つまり早替りを得意として、とても流行つたもんだした。
日本橋南詰のみなみに丸一の席ちゆうのんがおましてな。そこで五厘でやつてました。東京へも來て人氣がおました。だん/\はやつて寄席へ出るやうになつてから一錢だした。その頃は實際物價が安うて、うどん一ぱい一錢だしたもん……。この人、これで財産こしらへて淡路へかへつて太夫元になつたと聞きました。
「涼み淨瑠璃」
その頃、樋の上橋の爾の濱で傳馬船、二艘つないで舞臺造つて首振芝居やつてたことおましてな。つまり、濱側から見物が觀て居て、芝居は船でやりまんね。夏の夕方川風に吹かれながら首振遣ふ、、又見物の方も淨瑠璃を聽きながら芝居も見られると云ふ洒落たものもおました。
夏は人形も淨瑠璃も旅へよう出たもんやさかい。殘つた太夫やら三味線彈がその芝居へ出たもんだす。津島太夫がそこへ出て「大經師」語りましてな。
「三代目越路さん」
いまの相生さんの師匠、つまり攝津大掾の弟子、この人は近頃での太夫だした。
夏の文樂が旅へ出る時は、どんな暑い時でも、なるべく汗を拭かんのだす。拭いても手拭を決して濡せて置きまへん。それは冷めたい水で拭けば氣持はよろしい。しかし、その語つて居る時は誰もみんな汗一ぱいになつて語つて居ます。その汗を拭くときヒヤッとする。「あゝヱヽ氣持やなア」と思ふ時には、もう太夫の地になつてその役から離れてしまふ……。
それでは藝事はいきへん。そのいゝ氣持ちになる間、自分にかへることが、藝から離れることなります……。越路さんはそれがあかんゆうて濡手拭は使はんことにしてはりました。越路さんの偉いところは、自分の語りものゝ床本を何時でも持つて居て一寸の暇にも、あすこは斯うどうと言ふ具合に工風して居ました。そして師匠の大掾さんが出る時間になるとチヤンと文樂へ歸つて來て、師匠の語り口を研究しとるのだす。その心持におく床しいところがおました。
越路さんが大層好きな藝妓があつてその人と深くなり、まだ/\若い時分のことやさかいお互ひ身が詰つて、その女子と心中しようとしたのだす。女子も得心で心中する場所迄行つたところで何氣なう時計を見たら、丁度自分が床へ上る時間近くやつたんで「こりや自分の出る時間や、一寸文樂へ行て、役すませて、又來まつさ。」と云つてどん/\その心中の場所から文樂へ歸へつて來てしもうたと言ふことです。
大掾さんのお氣に入りで若い時は可成り極道で師匠に三十何度破門されたと聞いてます。
大掾さん、大隅さん又、越路さんが亡くなられ、太夫の名人のゐなくなつたことはまことに淋しい氣がします。
まだ六十で紋下としては似合の年配、油の乘る盛りを惜しいことだす。合邦、寺子屋板額、布引、炬燵、谷三なぞまことに結構だした。大正十三年三月十八日が命日だす。その翌日十九日に六代目廣助さんが亡くなりました。八十三、このお方も名人だした。稽古のやかましいお人で大序連中にまことに親切に嚴しく教へた方で、朝早うから芝居へ來て、大序を語る連中の節廻しを聞いて、駄目を出して居られました。大正十二年四月六代目廣助から名庭絃阿彌と改名、披露狂言を中幕に「邯鄲枕、島原揚屋」の三味線を彈かれましたのがお名殘だす。
次々と太夫三味線が亡くなられて、まつたく心細いことでおます。
「鳥屋觸れの話」
文樂で今に殘して置きたいのは鳥屋觸れだす。うちの兵次がいまでも口上はやつてまつけど、兵次の前は兵次の兄がやつてました。なんでも兵次に聞くと、その父親も淡路で口上をやつとつたと言ふことだす。
口上万吉云ふたらヱライ人氣があつて、大和、和泉、紀州、四國、中國迄もその名が響いたくらゐの人氣者だした。文樂と違ふて淡路の人形座は一日替りが多いので、明日の狂言觸れをせんならん。その口上に國盡しやら、又、鳥づくし、八百屋づくし、髷盡し、その他初日や千秋樂の口上を云はんならんので、文樂とは大分違ひます。口上で人氣を取らんならん、又笑はしたりお客を喜ばせんならん。それで口上言ふ者もお客を喜ばすコツを摑むのがむづかしいと言ふてます。
兵次に聞いたのには、親代々の人形遣ひで、兵次の兄に桐竹紋五郎チユウのが居りました。これが前から口上をやつてました。
その絞五郎が自分が病氣をしたので、淡路に居る弟の兵次を招んで、病中を代らせた譯だしたが、この兄が亡くなりましたので、そのまゝ文樂に殘ることになり、それから引續き今日迄演り續けとる譯となつたのだす。
昔は床後見がまはすと、太夫と三味線が見物に御辭儀をしとる、「東西只今の切、相勤めます太夫竹本某」と觸れる譯でありますがこの太夫を二度言ふのは紋下ばかりです。それと何々の切、言ふのも紋下だけに言ふ口上だす。口上が濟むと鳥屋で表の勘定場の表方が、口上のあとを受けて「何々太夫様-」と眠いやうな聲をかける。そこで三味線彈が「送り」を彈き初める。人形も靜かにしとらんならんが、この鳥屋觸れの間の味が人形淨瑠璃の特徴でおましたが、現在の様に、只、口上から直ぐ三味線を彈かれたのでは、人形にも又、太夫にも三味線にも重みがない。太夫の格も分らないし、あれは殘して置きたいもんの一つだす。
柝一丁入ると人形しやぎりが鳴り、口上が柝を打上げるとしやぎりが止みます。床世話二人が盆を廻すと、太夫三味線がお客の前へ出る。
「東西このところ只今の切、太夫竹本津太夫、三味線鶴澤友治郎人形出遣ひにて相勤めます。東西/\/\。」
デン--デンと三味線を彈きだすと、鳥屋觸れが、竹本津太夫さんば竹本津太夫さんばと二聲名を呼びます。二度太夫の名を呼ぶのが紋下で、他の太夫は一度しか呼ばないことになつて居ます。津太夫さんーばと言ふが見物には津太夫さまと聞こへる譯だす。つまりこゝは津太夫はんの場と云ふ意味にも通ひます。これは昔は芝居の方にもおました。これもいつの頃からかなくなりました。揚幕から成駒家が出ると「ヤアーレ成駒家はん--」と化粧聲をかけるのだすが、人形の方と違つて芝居の方は何んとのうけつたいなもんだした。
ついでに太夫の見臺の据ゑかただすが、紋下だけが見臺を脇へ置き口上の間御辭儀をして居る。口上が済むと自分の前へ据ゑ直して語り出すのが例だす。他の太夫は見臺の後で御辭儀をする習慣になつて居ます。
口上は古い人で玉壽と云ふ人、次が髭龜、紋五郎(これは現在兵次の兄)それから現在の兵次が言ふてます。本人の話では大正十年一月、「忠臣藏」の出た時で人形は二代目玉造さんが由良之助を遣ひました時、紋五郎が病氣になつたので淡路から招ばれ、太夫も又三味線の人も知らんで口上を勤めたと言ふてます。
大正十年から今日迄廿三年間口上を言ふてる譯だす。兵次は口上の他に人形も遣ひますし、又「陰のッヶ」も打ちます。この「ツケ」はなか/\むづかしいもんだす。
わても昔は女形遣ひやつたが、玉造さん、多爲藏さんや文三さんがしだいに亡くなり、荒ものを遣ふ人が減りましたので、立役を多く演るやうになつたのだす。
「染太夫の引退」
攝津大掾さんが文樂を引退されたのは大正二年四月だした。何せ二十何年間紋下に居られた方やさかい、世間でも又、樂屋内でも全く惜しんだものだした。
この名人のお名殘りの演物は、お得意の「先代の御殿」か「十種香」かと皆で云ふてましたら、「楠昔噺」の三段目と聞いて驚きました。前狂言の「中將姫」も高調子のところなど折々少し外して居られましたので、「楠」など途中で休んでしまはれるやう云ふてましたが、どうして、初日が出て見るとなんの/\休むどころか聲一つ枯らさず、あの大物の長丁場を五十一日間ぶつ通され、お客様は「大掾は四十位の勢や」と感心される。樂屋でも評判して「大掾さんといふ方は今度これを語るのに前から聲を殘したんやろか」なぞと云つて感心し合ひました。
この時、立狂言の「日吉丸」の三段目を語つて居られた染太夫さんが、前々からなんの豫告もなく千秋樂の日に皆の部屋に挨拶に廻つて來られ、この芝居で退きますと云やはつた時は、皆で呆然としてしまひました。
染太夫さんは地味な語り口ではありましたが、三拍子揃つた、そして、法善寺なき後は、大掾さんの次位で、一二三の聲の整つた方だしたに、全く惜しいことだした。
三代目越路さんより一枚上で、華々しく引退興行をした大掾さんの後は、自分の藝も一段冴えると云ふ時、コロリと退いてしまふところに染さんらしい慾のない氣が通つて居てよろしいと思ひました。
「津太夫のこと」
この間亡くなつた津太夫さんは全く惜しいことをした。
津太夫さんはよう云ふてはつた。
「わては舊弊だと云はれても義太夫はどこ迄も先輩の教への通り語ります。昔の語り方を丁寧にわがでに語りいゝやうな、自分勝手は封じて居ます。それは昔の人や師匠の通りにいけん口さばきもありますし、又聲の質も違ふことはわかつてますけど、そこを苦しんで稽古をするうち、自然に昔の人の苦しみの尋常でないことが知れて來ます。周圍の人や素人の詮索癖にまよはされて、あそこの件は理屈に合はん、こゝはあの役の心持ちと間違つてゐるとか云ふて頭で淨瑠璃を語らうとする人があるが、理屈でないところに淨瑠璃のおもしろさがあり、藝があるのだと思ひます。義太夫狂言と云ふものは院本の組立てからそも/\寫實ではないのやさかい、隨分と理屈に合はんところもおます。それを今の人の頭から割出して寫實に徹底させようとすると、そこに無理が出來ます。變なものになります。寫實は藝道のもつとも低いものだす。寫實を一足踏み超えたところに技巧のワザがある、そこに本當の義太夫の妙味があるのやと思ひます。さう信じてますのや。從つて私の語り口はいつもこのワザをおもしらうに見物に聽かせ、笑はせ、泣かせることが、どうしたら出來るかと苦しみます。わては師匠なり、先輩が教へてくれはつたとこを崩さん様に語ることを第一に考へて語ります。」
さう云ふてはつた。如何にも津太夫と思へる言葉で、時折それを思ひ出しますが、あの人は本當に努力をしてあそこ迄の人になつたのやと思ひます。隨分と荒い語り口ではありますが、人形を遣ふと云ふことを考へてる人で「ひらがな盛衰記」の「福島」又「逆櫓」「沼津」、「すし屋」、「布引四段目」「吃又」、「橋本」、「彌作」、「忠四」「九段目」、「日向島」なぞあの人はよかつた。たいがいの太夫は痰をはらつて語るのに、あの人は出る前に餅を喰べて出ると云ふくらゐ惡い咽喉で語つて、その淨瑠璃の人間を活かすと云ふ他の太夫に出けんやりかただした。
私(章)が聞いた事だが千本の「すしや」の梶原を遣うてた人の話に、「かけ出す向ふへ、ハイ/\ハイと矢筈の提灯梶原平三景時、家來あまたに……やア老耄め何處へ行く、逃げやうとて逃がさうか」……から「やア此奴、横道者、おのれに今日維盛が事詮議すれば、存ぜぬ知らぬと云ひ抜ける……」の長詞の時、下から上へ廻る間の永い意氣込を肚の底から語る津太夫さんの力に引ずられ、實に持つてる胴串がしびれる辛さと言ふたらなかつた。
何せ鎧物は四、五貫はあります。淨瑠璃に乘つて動かせて居る間はその重さも、さのみとも思ひまへんが、臺詞の間じつくりおさへる時の辛さは全くヱライ。ところが津太夫さん死なはつて、他の太夫が語つた時は、シンドイことも何もなかつた。下から上へまはつても胴串の手がチヨツともしびれなんだと云ふてます。それ丈、津太夫と云ふ人の肚に力があつた譯だす。と私に話した。
(榮三)それと忘れられんものに「沼津」がおます。わては沼津の重兵衞と封印切の忠兵衞と河庄の治兵衞は、三十何年このかた、太夫が替ろが相手のお米とか梅川、又は兄の孫右衞門を遣ふ人は違ふても、滅多に、わては變らなんだんや。しかし、津太夫さんは西の文樂(松島時代)に名人盲の住太夫や、先代法善寺の又五代目彌太夫さんの「沼津」をよう覺えてはつたとみえ、コアゲ(沼津の口、街道)から全 本格で、平作のうまいのは云はずとも、重兵衞は最もうまかつた。素町人でなく、そして張りがあり、世馴れた中に色氣もある。お米に「わしやこなさんに惚れたわいの」あたりの柔かさ、後、千本松原になつてから生立役の肚、そして平作に情合のあるところなぞ、全くうまいものだした。
(章)私は榮三の話中に「惚れたわいな」の遣ひかたの實におもしろかつた印象があつたので、あそこの振りはどう遣ふのか訊いてみた。あそこの胴串の使ひかたは、たいがいの人はナンバに演りますが、わては頭と足をたがひちがひに演るのが味噌だ。誰が遣うてもその方が樂ゆゑ、さうしてつかひますが、それではおもしろ味もなし、又、人形の本道でない。あの振りはあんたもよう覺えて置いて欲しい。
このところ二人とも汲みかはす盃の數多し、トテモいゝ氣持ちになり、榮三は座つて居ながら自分が重兵衞になつて、その型を私に教へるのだ。全く一寸の首と足の動きで、それが人形そのものゝに餘裕がつき、なんとも云へない、おもしろい味になる。私は得心のゆく迄そこの型を教はつて置いた。(つゞく)
柳かげ (承前)-吉田榮三の憶ひ出- 花柳章太郎 演劇界4(3) 1946.3
榮三はその時、臺所から金串を持つて來て、それと一緒に晝間自身で肴屋へ行つてとつて來た甘鯛の一と鹽を、差向ひの火鉢で燒きだした。ついでに云ふが、今迄の話の中で百合根に玉子を入れて煮る。これも大阪の人に限つてする總菜だが、それを私が玉子好きと知つてゝ喰べさせるのだ。
寝床の中でお梅さんが二人のさうした話を嬉しさうに眺めて居る。
一體この夫婦は妻君の方が榮三より五つ上、妻君の生れは京都で親代々の蒔繪師。柳の馬場に年ふるく住んで、お父さんは御所の御用を勤める漆の名工だつた。現在では亡き父の遺品として殘る只一つの思ひは、丹精こめた小さい蒔繪の箪笥。
それは高さ一尺七八寸、横二尺一寸ぐらゐのもので數多い小抽斗しにトテモ好みのいゝ銀のつまみが付けてあり、箪笥全體に梅、蘭、菊、竹の花模様がもう錆びた青金、水金、ふんだめ、燒金、なぞでまいてある垂涎何斗の逸物なのである。お梅さんが今では亡き父を想ふ唯一のものらしい。私が去年來たとき妻君からその話を聞いたのだつた。
今夜は二人はしたゝかに醉つたので、榮三とお梅さんの馴染めを一つ聞いて置かうかと思つたら、榮三なか/\津太夫の話をやめようとしないのだ。
「名人名人を語る」
(榮)これも先代の津太夫さんの話だすが、「大隅さんが寫實風な語り口に對して、攝津の大椽さんはワザの語り口の對照があつて、面白い話となつて殘つてます。
大隅さんも大椽さんも名人春太夫の弟子だす。同じ師匠を持つた二人が藝の上では蔭と陽になつて居るのもおもしろい。大隅さんが彦六座をぬけて文樂へ出られとき、大椽さんが「妹背山」の四つ目を語られたに對して、得意の壷坂を出しやはつたのだすが、その時、大椽さんの御殿を樂屋で聞いて居て、例の「たぶさ摑んで氷の刃、脇腹ぐつと差通せば……」と大椽さん一流のヱヽ聲で調子をゆつくり、ワザ本位に語りやはつた。
大隅さんは「あんなにユツクリ語つては鱶七に刺される先きにお三輪が逃げてしまふがな。俺やつたらもつと早口に、お三輪を即座に刺し通すやうに語るがなア」と陰口を云ふたもんだす。
それを傍から聞いて居やはつた法善寺(先代津太夫)さんが「素淨瑠璃やつたら大隅の云ふことも一理屈あるが、文樂は人形淨瑠璃やで、そないに眞に迫つたやうに早口で語られたら、三人もの人間で遣ふとる人影がさう/\早う動かされるもんやあらへんがなア」フビンながら恩義のために殺す、大椽さんのワザに就いて反駁されと云ふことです。おもしろい二人の藝の對照として津太夫さんから聞かされたことがおました。
話が沼津に戻りますが、大隅さんは七十の老爺といつても、根が街道筋の雲助やと云ふので、比較的早口な元氣者の親爺に語つておられましたが、法善寺さんは、本文通り見るからに弱々しく衰へた老ぼれ親爺として「一肩行つては立どまり」にもとづく語り方だした。次に千本松原に移つてこの道具替りのところ、「慕ひゆく、げに人心さま/\に町人なれども重兵衞は武士も及ばぬ丈夫の魂、夜深かに立ちし獨り旅、千本松に差しかゝる……」これも「武士も及ばぬ」と本文にあるのを「武士に劣らぬ」と變へて語つて居られたやうだす。根が町人の重兵衞、いくら確つかり者だと云つても「武士も及ばぬ」はあんまり褒め過ぎると思つて温和しく「武士に劣らぬ」と變へてられたやうだす。わてはこの件である若い學生さんに一本やられるとこだした。
それは雨も降つて居ない街道を重兵衞が菅笠を冠つて來るのはおかしいと云ふのだす。時雨は後に平作が腹を切つてから降るのだすよつて、千本松原の出に重兵衞が笠をかむつとるのは變だと云はれて、わても考へた。あれは昔からある型やよつて、そのまゝ演つてゐるが……その時、フツと頭に浮かんだのは松原の夜更やよつて松の露が落ちる……それで笠をかむつとるのや!さう思ふて「あれは夜露をよける爲めに冠つとるのだす」と云ふて答へたら、「成程」と云やはつた。
そやよつて、この頃のお客さんは若い人でもなか/\理屈に合はんことは承知せん、そこらが時代やさかい。むづかしくなつて來ました。
こゝでむづかしいのは重兵衞の言葉だす。
「イヤサ、コレ悪い合點、この藥の持主はその病人とは大敵藥卅兩のその金、かたきの恩を受けまいため、戻したではないかいの」から、「疵本腹、恩をうけては、まさかの時、切つ先が鈍らうぞや、やつぱり拾ふた藥にして、心置きなう養生さしたがよささうに思はるゝ……」
こゝらのせりふの口捌きのよさ、「切つ先きがにぶらうぞや」を強く押して云ひ、「やつぱり拾ふた藥にして」をグツと碎いて語る息なぞ、重兵衞遣ふて居てつく/\巧いもんやと思ひました。
腹切りにもいろ/\とあります。平作は下賤の老爺ゆゑ、息づかひも、ハアハア苦しく語らならん。眞世話もの腹切は別にむつかしいもんだす。
(章)これはかつて私が友治郎さんから聞いた話。西の宮に隠れて居た三味線の名人勝七さんが廣助さん(五代目)に教へる時がまはりに人が居ると氣が散ると云ふて、勝七さんが廣助さんを船へ乘せ、沖へ出て稽古をしたもんやと云ふことで、そこ迄苦心して藝の修業をしたもんだす。(口傳の腹切を教へた。)
この五代目廣助さん(松葉家)は明治期の文樂の三味線での大御所で、彦六座の團平さんと二人後世に殘る名人だした。廣助さんが太夫に教へるとき、薄雪の三人笑ひの伊賀守なぞ螺蠑の殻を腹に當てさして稽古したもんやと聞きました。
「ドド、どうで御座る……」の臺詞のときその螺蠑が腹に當る痛さを堪へさせて太夫に語らせ陰腹の呼吸を會得さしたと云ふやうに、腹切は太夫の修業の中でも最もむづかしいものです。
(章)今も沼津でだいぶ、淨瑠璃の文章のことを聞いたが、どうも名文章必ず名曲が付いて居ないと思ふ。
昔から近松の文章は節付がどうもいつものとさうでないものとあつて、文樂でも近松の物を土臺にして創り直したものの方が現在でもよく出るやうだ。「冥土の飛脚」よりは戀飛脚の方が一ばんに受けるやうだ。他に「毛剃」なぞ人形で演るより芝居でする方が、つまり元船でも奥田屋でも、こりや舞臺の役者がやつた方が、人形より派手だ。
しかし人形の方で役者に出來ないところは奥田屋で宗七が毛剃に偶然と會ひ元船から海へ投込れた恨をはらさうと切つてかゝるその怒りに燃えて居る宗七の胸に小女郎がその懐ヘグツト手を入れて男をなだめる。それは芝居で出來ない仕草だ。元船を大隅が勤め、奥田屋を古靱が語り人形は毛剃を文三、小女郎を文五郎で榮三が宗七を遣つたのを柳君が見てさう私に話したことがある。双蝶々の引窓でも文章はいゝが人形芝居でやると割方つまらない。又文章がそれ程でなくても淨瑠璃でやるとはえるものもある。妹背山や、廿四孝菅原のやうに曲がうまく付いてないと客は喜ぱないものだ。文章がよくて理屈に合つて居ても面白くないと見物が付いて來ない。そこが前にも聞いた、津太夫の言葉と同じで藝はおもしろふてむづかしい。
「柳かげ」
果てない昔の夢を追ふ榮三の眼も、宵から飲みつゞけた醉に深かまり、大分舌ももつれだした。
どうだす、ハアよう飲んだもんやな、二人でも一升の瓶が空いてしまふた……ウハ……どだい、もう何を言ふとんのか、さつぱり、譯が分らんやうになつた。
一つ口直しに何ぞないかいなア……アツ、そうや「柳かげ」がおましたわ。
やがて何か探し出して來て瓶を布巾で拭ひながら、保命酒の瓶を私に見せるのだ。
「息子!ハ、おましたわ、これ(柳かげ)だす。燒酎と味淋と合したもんや、一寸いけますつせ夏は、芝居すますと、必ず是だ酒のあとですこし甘いが、まア一寸やつとみておくなはれ」
何やら古風な備前燒の五合入り位の德利に竹の皮の栓がしてあつて、それから小さいグラスに酌いで私に出すのだ。私はしたゝか醉つて居るので、それが何やらわからず、とりあへず一盃それに口をつけた。ほのかにうす甘い舌ざはりはあまり強くなく快い酒なのだ
「柳かげ」
「さう。これも夏、紐をつけて栓を固くして井戸の中へ漬けとくのだす。芝居すんで歸へる頃にはとても、よう冷えて、なかなか味なもんだすわ。柳かげ…この酒は夏、備前の柳井津の町で柳のかげの氷屋で賣る酒だす。名古屋では本直し、東京では直しと云ふとます。大阪では柳かげ「涙かくしておくり出すテツンシヤシ、二階座敷で見て居たらチン、一足づゝに遠くなる……ヱヱもじれつたい、まがりかど、それそれ、さうぢやいな……」
榮三すでに御氣嫌に小唄を口ずさんで居る。それは大阪でなければ聞けないもんだつた。竹になりたやの替歌たと、おやぢ言ふ。
「ヱーもじれつたい、曲りかどでなうて、なア、柳かげでんなハ……ヱーもじれつたい。柳かげそれ/\それもさうぢやいな」
私も榮三の節に合せてその竹になりたやの替歌を唄つた。