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【花柳章太郎 栄三おじいさん 幕間】

(2016.01.05)
提供者:ね太郎
  栄三おじいさん 花柳章太郎 幕間別冊 文楽号 1947.7.1
 
  吉田栄三に訊書。
  栄三の役々。
  柳かげ。
  蔭の下駄。
 をじいさんのことはこれだけ書いた。
 をじいさんのことを思ひ出すと、いまでも胸にジーンと迫つて来るものがある。
 私の芸風から言つても、性質から考へても、栄三と親交があることが不思議だと言ふ人もある様だ。
 然しそれは理窟で、物事は理詰めでばかり考へられないものがあると思ふ。物には陰陽があつて、私の様にコダワリを持たぬ性質(たち)の人間は、又別に緻密な人を好むやうだ。
 交際してゐるうちに疎縁になる人もあるし、始めはそれ程に思はぬうち、だん/\親しさが増して来る者もある。
 合縁奇縁とよく言ふが、私とおじいさんとは全くそれだ。芸人同士で好き合ふなんて、なかなかさうザラにあるもんぢやアない。
 私と文五郎さんと懇意になる方が当然のやうに、世間では思ふらしいが、もつともの事だ。そして実際は文五郎さんの方が、おじいさんよりは古く知合つた。
 「浪花女」を芝居にすることになり、寛チャンの肝入りで、津太夫師匠と文五郎さんに、団平、越路(大掾)のことを訊いたり、又、文五郎さんにわざ/\上京して貰つて指導されたこともあつた。
 だから、文五郎さんの方がおじいさんより古い交際だ。
 おじいさんに会つたのは、別に芝居にしようなどといふ企画もなしに、只、逢つてみたくなつて大阪の知合の人に紹介を頼んだのである。
 
 それから、私が咽喉を患らひ鰻谷の辰己さんへ炭屋町の「いとう」から通ふ道筋が丁度栄三の家の前であるところから、丁度初秋の頃だつたと思ふ、格子にまだ麻のれんが掛けてあるその暖簾の下に、栄三の膝が何時も見えてゐた。一度会つた後だつたので、何気なく声をかけ、毎日往来してゐるうちにだん/\私は淡々とした彼の気質に魅入られたのである。
 附合へばつきあふ程、昧のある人だと思った。
 
 私には年少の頃からの癖で、年長の人でも、又方面の違ふ先輩、又知合の人の話でこれは勉強になると思ふと必ず「ノート」に書入れる習癖がある。
 だん/\逢ふ瀬が重なるにつれ、隔ての垣は自然にとれて来た。
 物に虚がなく、実直で潔癖、そして正しく物を判断する。そして独断力が強く記憶力に富み、尊敬に価する人だと思つた。
 私の様な欠点の多い者は学ばねばならぬ芸人だと思ひ、それから文楽が好きになつた。
 正直に言ふと、栄三を好きになつたのは、会ふ日が増すにつれてである。
 現在でもあれ程好きな爺さんは無い。
 栄三に惚れてから文楽が無性に好きになつた。若し私が栄三に惚れなかつたら、これ程文楽病患者にはならなかつたろうと思ふ。
 その證拠に、おじいさんが死んでから文楽を覗く気がしない。
 勿論、古靱太夫の近頃の風格は慕つてゐるし、又、文五郎さんの芸も感心して居る。
 しかし、栄三が死んでからどうも怖くて文楽を見られない。
 
 古靱のあの品のある芸質にマッチする人形の遣手は、断然おじいさんより無いと謂つていゝ。
 
 古靱の名品、道明寺。佐太村。寺子屋。良弁。長局。炬燵。堀川。新口。陣屋。油屋。等々等々。
 数へたらきりの無い程、近頃観たもの記憶にある限り、全く名コンビであつたからである。中でも逸品は、この二人所演の、道明寺と、二月堂。その印象は私の生涯を通じて忘れることが出来ぬ神品だと思ふ。
 
 私は、文楽を観た夜は必ず、その演物(だしもの)の演出を栄三から訊くことにしてゐる。東京なら、せき旅舘(一度蠣穀町の大野屋へ泊つた事があつた)私の家へも必ず四五日は泊つた。
 大阪なら栄三の家。話に熱した二人は酔潰れて火鉢の向前に倒れることもあつたのである。
 栄三から訊書したノートも十冊程あつた筈だが、柳ばしの家が戦火に遭つた為め焼いてしまひ、現在手許に三四冊しか残つてゐない。
 それでも、どうやらおじいさんに訊いた話は頭の中に生きて居る。
 栄三は、不思議と私の母と仲好しであつた。母は彼をおじいさんと言つて居るので、私共迄知らず/\のうちに、おじいさんと称ぶやうになつた。
 私はおじいさんも好きであつたが、又妻君のお梅さんも、おじいさんに劣らぬ程好きだつた。
 栄三の家へそれ程通つたのも、偏へにお梅さんが親身にして呉れたからである。
 お梅さんは、栄三より四つ五つ上で、私の伜の喜章をトテも可愛がり、昭和十八年そろ/\日本に敗色の見えだす頃から腎臓が悪くなつて永く寝付くやうになつた時、丁度、伜が中座で「雛鷲の母」を上演してゐたが、それを最後に応召すると云ふ噂を聞いて、その重態の体を杖にすがり(栄三に固く留められて居たのに)おじいさんに内密(ないしよ)で中座へ来て呉れた事がある。
 私はいまでも、この親身の情に涙がこみ上げるのだ。
 私は、何時もおじいさんと二人でおばアさんの枕許で話込む。それを又となく欣んで聞いて居たものだつた。
 おばアさんが臥込む前から、私と栄三と飲む時は必ず何時もおじいさんの手料理だが、それが実にうまかつたのである。
 一つ、いまでも心残りは、芸談は多く聞いたが、何時もその方に心を奪はれる為め、おじいさんとおばアさんの馴初めを聞かずにしまつた。誰も聞いて居ないそんなこと迄、私は聞こうとはして居たのだが、何時も話が芸の方へばかり傾いてしまつて、人間栄三を訊き洩したのが遺憾だ。
 
 おじいさんは、おばアさんを、三月十三日の大阪空襲の夜、乳母車に乗せ、堺筋の高島屋の地下室に逃がれ、其処が危くなつた為め、更に谷町六丁目の鈴木病院に逃げ、三日そこで収容されてゐるうち、その院長が栄三夫妻と知つて大事にして呉れたさうだ。
 お梅さんの実家は、京都の柳馬場であるので、その実家から迎ひの者が来、弟子の光造がリヤカーに乗せて送つた。それを見送つて栄三は、大和小泉村の後援者のもとへ身を寄せたのである。
 大阪全市焼土と化した焼原で、この老夫婦は、この世の別れをした訳だつた。
 間も無くお梅さんは病改まつて、実家で息を引取つた。
 おじいさんも、程経て小泉村で枯木の折れる様に死んでしまつた。
 酒の好きなほかは全く養生家で、決して不摂生なことをしなかつた人だつたが、憎むべき戦争の犠牲となつた訳である。戦争の残酷な影響は、不出の名人に満足な栄養を与へなかつた。
 私はいまでもあの私に対する温顔を、忘れることが出来ない。私はその葬儀に僅かの違ひで間に合はなかつたので、祥月の日、文楽に近い三つ寺で、おじいさんとおばアさんの供養を手向け、さゝやかな法要をした。
 
 おじいさんに訊いた話を一とまとめにし、近く「人形役者」といふ文楽手記を著さうとしてゐる。そして故人の霊に献ずる考へで居るのだが、それにしても、近く天皇陛下が文楽を御覧になるといふ通信を新聞で見た。芸人一代の栄えあるこの日を、彼の為めに考えて呉れなかつた不運を嘆ずるのみである。