FILE 119−2
【花柳章太郎 吉田栄三聞書 日本演劇】
(2016.01.05)
提供者:ね太郎
吉田栄三聞書 花柳章太郎 日本演劇4(1)15−23 1946.1
文楽人形座頭吉田栄三と親交七年、その間に訊いた芸談のメモをたどつて彼の芸歴を記すことにしたい。
この事はかつて三田文学へ半歳に亘つて書いたことがあつたが、その頃はまだ交際の日も浅く、只とをり一遍の訊書に過ぎなかつたが、年を重ねると共に隔ても解れ、近頃では唯の役者づき合ひ以上のものになつてしまつた。
毎年恒例の演舞場出勤の八月、拾二月の上京の折一週間ぐらいは、柳ばしの私の家へ泊ることにしたり、又私が春秋、大阪へ興行にゆく時も、七八日は必ず栄三と起居を共にする。彼は私を息子のやうに云ひ、私は又おやぢと呼ぶやうに迄親しんでしまつた。大阪へ毎年往く度に、私は市川莚女とも話が合ひ、これも大阪の芝居中四五日は通つて、その昔咄を聞いたものだ。
惜しくも莚女さんは昭和拾九年九月亡くなつたので、この間迄栄三と話すことを唯一の楽しみとして居たが、是又今年の大阪空襲で鰻谷の文楽、東之町の彼の家もまた焼失してしまつた。そのため彼との飲みじまいは、去年の十一月、私が京都へ撮影に行つて居た三ケ月、今年の正月迄撮影の合間を見ては、文楽へ通つた時が最後となつてしまつた。その春興行の八日だつたと思ふ。京都の南座の婦系図をすませて大阪の彼の家へ着くと十時近くなる。その頃すつかり寝付いてしまつた、妻女のお梅さんの枕元で、二人きり水入らず彼の手料理、私の京都から持つて行つた、ぐじや鯖を肴に、三時すぎる迄話込んで、そのまゝ二人酔潰れてしまひ、翌日二時開きの京都へ帰つて来た思へば、それが本当の最後となつたわけである。
私が東京空襲で三月九日柳ばしの家を焼かれ、彼は、三月十三日大阪のほとんど全市が空襲に遭ひ、文楽と共に焼けてしまつたが、一週間と違つて居ない。ほんの四五日間のことだ。
妻女のお梅さんは栄三より五つ年上の七十九、私の伜の喜章がおとゝしの十一月中座で「雛鷲の母」「盃」とを上演した時、もう二三ケ月で入営することになつて居た喜章を文楽座の太夫、三味線、人形の連中こぞつて、中座を総見してくれたことがある。
その時堅く外出を禁じられて居るお梅さんが、中座へ「雛鷲」二幕を見に来たことがある。栄三にも内緒でその病体を杖にすがつて中座迄歩いて来てくれたその心持ちに、私は胸が迫る想ひがした。
主治医はトテモ、栄三がひゐきで、お梅さんを毎日診察に来てくれ、時には先生が一升下げ、お梅さんの枕元で栄三と三人飲んだことがある。最後になつた正月八日の晩、めつきり弱つたお梅さんを見て、これはいけないと思つたが、それもその時がお別れとなつてしまつた。
私が栄三の最期の舞台を見たのは一月興行の惣けゐこ、寺子屋の松王である。
その月の彼の持役は四段目の松王だけであつたので、十一月の道明寺の菅相亟、十二月の佐太村と菅原を順次に古靱太夫が語つた。この三ケ月の連続菅原も、もう当分観られまいと思つたので七日間通ひ、一段を二日乃至三日見てノートしたいと思つたのに、つれなくも警報が連続にあつた為め、一つ出し物を一回づゝしか見られなかつた。
昭和十七年暮演舞場で珍らしく菅原の通しが上演されたのを、私は随喜の思ひで見に行つたものだつたが、文楽で見た十一月の道明寺では演舞場所演のものより更に深い感銘を覚えた。それは演舞場は人形芝居には広すぎ、浄瑠璃の感情が散漫になる為め、文楽に向かない。十一月の相亟、十二月の白太夫、春の松王、三役とも文字通り絶品となつてしまつた訳である。
道明寺の菅相亟
栄三の当り役中特に、古靱太夫の語り口と調和した代表作に道明寺と二月堂の良弁、鏡山の尾上、油屋の貢等が挙げられる。
その中で特に良弁と菅相亟が私は最も好きだ。朝日賞を貰つたときの挨拶に、「自分は貧乏人の子に生れ身貧にすごして来ました。相亟さんのやうな公家さんも、又良弁上人のやうな名僧も見たことも付合つたことも無い。しかし斯う云ふ人やつたろふと思ふて、それらしく遣ふのが芸やと思ひます。」と言つて居る。まことに彼らしい言葉で、彼の伝授場の相亟の品と寂し味は、六代目のその役以上、道明寺の相亟も仁左衛門、歌右衛門、雁治郎、吉右衛門、つまり人間の役者以上の品位を出すのだ。
院本物を歌舞伎で観るとその役者自体の体臭がその役を覆つて、院本の作中人物の幻想を毀す場合がいつも感じられる。が操り人形の持つ無表情がかへつて浄瑠璃の世界の文章をそのまゝ直観的に表はすことになるから、面白いのである。つまり菅原と云ふ浄瑠璃の相亟になる訳なのだ。
時平の讒言に依つて左遷の命を受け筑紫へ流される薄倖な右大臣を、人形は素直に描き出す。六代目の歌舞伎座所演を見ても何か六代目の才気渙発な理智が邪魔して丸本の菅公を感じさせない。道明寺の「ヤア/\判官先ず待たれよ」から偽迎いが出て上手の障子を閉め、下手の輿から木像の身替りの相亟、「白地に金と青金の梅唐草の縫模様、本当の相亟は納戸地に金ぬいの梅鉢の紋だらしのこしらへ)かしらは同じ孔明、その二役の替り目も役者が演ずるより生身と木像とが鮮やかなのだ。コレは栄三自身に訊いたことであるが、本物の相亟は三人遣いでやるが木像の方は三人で遣つても手足を絶対に遣はず、只胴串を持つ栄三自身だけで、あとは只ブランとたらして置く。それが為め木像の方に生気が無くなるから一役の替り目が判る。それが秘訣だと教へて呉れた。コレなぞ本物の人間が演つたらトテモ表現がむづかしい訳で、人形は簡単にそれが仕分けられるのだ。
そして段切れの「今この里に鶏啼く」……のかしらの使ひ方と、良弁の「現在母に乞食させ、身は上人よと」の頭の使ひ方は、共に「クリ頭」と云つて、これは人形遣だれでも演るが、その技は栄三独得であり、又、最も得意だ。これは本人も自信があつてよく私にこの首の使ひ方を教へて呉れた。
前の件の「窺ひ見れば兵衛がたくみ、太郎が仕業伯母御の心底さこそ/\、其此処へ来らずば、かゝる憂目は」のところでも、この「クリ頭」を使ふ「菅相亟が三度迄創り直せしものなれば、我を助けしものならん、讒者の為に罪せられ、身は荒磯の(で正面を向き右袖と見るこゝも「クリ頭」で演る)島守(左手あげて覚寿と顔見合せるのがチンシヤンで上手で極る型、「朽ち果つる……形見と」で覚寿と二人礼をし「仰は外に荒木の天神、河内の土師村道明寺に残る威徳ぞ有難き」辺りの仕草はすべて型よりは心の現はれで、どの箇所の仕草もボカシて演る。そこに自分とその役の品位が出る訳で、栄三ならでは表現出来ない至芸だと思ふ。
「今鳴いたはたしかに鶏、あの声は小鳥の音、小鳥が鳴けば親鳥もなくは生あるならいぞと心の嘆きを隠しより……」から、「鳴けばこそ別れを急げ鳥の音も、聞こえぬ里の暁もがな」下より左膝立一寸頭を動かす。つまり左膝へ両袖を乗せてこゝでもクリ頭を使ふ。「名残りは尽さずお暇と」下手向きで覚寿と礼をかはして、右足出すと「羽ばたきもせぬ世の中や」で上手向き、うなだれる。茲に相亟を人間としての愁離の悲しみを見せる使ひ方が、私はたまらなく好きだ。覚寿が一寸伏籠の小袖をのけて姫を見せる。相亟は一目見て右袖で面を隠しながら上手より下へ廻る「伏籠の内をもれ出づる姫の思ひは羽脱け鳥」で下手で又覚寿に見せられ、こんどは左袖で隠くし、「前後左右をかこまれて、父はもとより籠の鳥」で下手を向き泣眼をひく、「さすらひの身の御歎き」で輝国と顔見合せ、「夜は明けぬれど心の闇」で上を見る。「照らすは法の御誓ひ、道あけらけき寺の名も……」こゝで又覚寿と辞儀をする。「道明寺とて今も尚」道明寺で両袖をゆつくりしごき、「御神の生けるが如き御姿」こゝでも又袖を開いて腹へつけ、坐つたまゝで極る。すべてこの間のとりなしもボカス演り方で、「尽きぬ思ひにせきかぬる、処に残れる物語、涙の玉の木蓮樹」友治郎はこゝで余韻を消して弾くと聞く。涙の合の手、ツンツン/\で下を向き、トテン/\/\で一段づゝキザハシを降りる。歌舞伎の方の雁治郎所演はこの段を降る途中で一寸間を置き、覚寿と苅屋姫への別離の想ひを見せる演出があるさうだが、栄三の相亟は、一歩一歩無言の愁ひをきかせて居る。こゝの三味線は段切れ近く故、大体の人は早めに弾くが団平系の道八は気を入れてゆつくり弾く。栄三は道八のひき方が正しく、早間で弾かれては相亟の名残りの気、肉身の別れ、土地への執着の気持が出せないと云てつ居た。
「相亟の見せ場はこの段切れ一つ故、あそこ丈はゆつくり目に弾いて欲しい。」
相亟が段を降りると供廻りが、草履を履かす。下手正面へ立ち泣眼を入れる。一寸後へすさつて座る。「珠数のかず/\繰返し、嘆きの声に只一目見返り給ふ御顔ばせ、是ぞ此世の別れとは、知らで別るゝ別れなり」この間に覚寿と顔見合せ立つて振り返り、右足出し、又左足又右足、チリレントツチリガン、これを三度続け、苅屋姫と顔見合せた袖を揚げ袖屏風にして眼を閉ぢるのが段切れとなる。
この相亟は古靱太夫の神経質の語口と実にマツチして居る。「巨勢の金岡が描いたる馬は夜な/\んで出」と語る。五代目弥太夫創案に依る公家訛を使ひ、相亟の品格を流るゝ如く表現する。栄三亡き後の古靭の妙味も、大分削減されることだろう。相亟の仕草すべてに当気なく、ボカシて演るのだと栄三は私に話した。
此十一月南座開演中、劇団の紀念日に古靱太夫に懇望して道明寺を語つて貰つて、座員一同で聴いたが、劇場で聞くよりはるかにその妙味が窺はれ、二時間の長丁場を只うつとりと聞きほれた時にも、栄三の遣ふ相亟の妙技が彷彿として、眼に浮び、古靱、栄三、文五郎の三人のうち一人かけても、名品の価値は半減されると思つて居たが、悲しくもその予想はその時既に迫つて居て、帰京して半月を経たこの八日に栄三の訃報に接し、いよいよもうあの道明寺を見られなくなつてしまつた。
茶屋場の治兵衛
芝居の方では上方二枚目の代表的なものであり、忠兵衛、伊左衛門、共に雁治郎(なりこまや)独得の当り狂言であり、額十郎、初代延若、末広屋宗十郎から経て雁治郎に及び、あまねく紙治程売込んだ二枚目はないだろう、しかし人形の方では芝居程頻繁には出て居ないやうだ。
「せかれて逢はれぬ身となり果て、あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人の最後ぞと、名残りの文を取かはし、毎夜/\の死に覚悟、魂ぬけてとぼとぼうか/\」芝居の方での第一難関の雪駄を脱ぐ型も、前に躓く河内屋型と後へ知らぬ間に置く、末広屋案とあり、それを履いて「身をこがす……」テレンテトンの極りも、人形の方ではしごく簡単に下手の横幕からイトモ早足に治兵衛が出て来てしまふ。
歌舞伎であれだけ問題になつて居る型も、人形の方は昔から早足に出ると栄三は私に云つた。紙治はうちからは魂ぬけて出て来たらうが、廓へ入つて荷売屋で善六と太兵衛が小春と侍客の噂を聞いて、それが河庄と知るからは、もう魂ぬけては居ない筈、小春に逢ひたい一心で気も急いで小走りに出るのだと云ふ。問題の雪駄も延若、宗十郎の創案で、雪駄の技工は芝居として、二枚目と云ふものを考へた点、私は上方役者の創案に感心するのだ。
歌舞伎で紙治に対しての馴染のある舞台を、人形で見るとき意表に出る演出にブツカルと、それが又馬鹿に珍らしいので面白く思ふ。この詮索は稿がのびるから別にするが、兎に角いきなり主役が下手からツカ/\出て来る。したがつて「茲に居るとは吹き込んで」と治兵衛が歌舞伎の方だと小春の影へ自分の来たことを知らせようと焦つて雪駄のまゝ座敷へ上り、思はず手を叩く。舞台裏で仲居が、「ハアーイ」と返事をするので、泳ぐやうに治兵衛は門口の格子を閉めて立身で極る額十郎系の型も、人形では演らない。小春が侍客に自分の心を明かすので騙れたと思ひ、脇差しを抜いて、小春の影へ突さす、と孫右衛門が出て刀を落し、格子に下緒でくゝり付ける。芝居だと舞台が半廻しになつて治兵衛が結えられて居る姿が稍正面に浮かび出す。茲の雁治郎(なりこまや)の後姿も忘れられないが、栄三の治兵衛の後向きの色気は又逸品だつた。
此後姿の美しさを賞めたら、うちの師匠(きたむら)も同感であつて、この後姿のむづかしいことを成駒やに話したら、雁治郎もこの栄三の後姿の佳さをしきりと賞めたさうだ。
歌舞伎は孫右衛門が治兵衛に意見をする間、治兵衛が下手の帳場格子の帳面なぞを、うつゝの様に見たりする仕草があるやうだ(雁治郎(なりこまや)は後年演らなかつた)が栄三はやらない。そんなことしたら孫右衛門が阿呆になると言つてゐた。孫右衛門が絹パツチ(股引)を履いてゐるのは多為蔵の案から型になつたもので、雁治郎、梅玉が以前文楽の紙治を観て感心し、歌舞伎の方でもそれを踏襲したと栄三は私に話をしたの覚えて居る。
孫右衛門に向つて、治兵衛が小春との馴初めを話す件は勿論人形の方では演らないが、芝居では独演会式に可成クド/\して演る延三郎系の型もあるやうだ。
「あとを見送り声を上げ嘆く小春もむごらしき、不心中か心中か誠の心は女房のまだ文も見ぬ年のうち、別れてこそは……」の段切れに、孫右衛門が羽織袴を大小と共に包み、浜松屋もどきに担いで帰へる時、裾をからげると絹のパツチが出るので、このパッチが余計効果的になる訳、この三重の間、芝居は孫右衛門が侍の間に着て居た黒羽二重の羽織を使つていろ/\の技工があるが、人形の方は始めの出と同様、スタ/\と小走りに治兵衛は入つてしまふのも歌舞伎と異ふ。人形の型の面白い処だ。
沼津の重兵衛、恋飛脚の忠兵衛、そして紙治は二代目玉蔵亡き後、この三役を三十何年間遣つてゐると栄三は言つてた。
話の序に炬燵の治兵衛で目に残る心理的な箇所を、私は忘れることが出来ない。
段切れ近く、おさんが尼になるとお末の着物に書いてある。書置きを読んで驚きのあまり呆然と失神して治兵衛遺がある空間を見て、しばらく無言で立尽し、座敷を一まわりする仕草がある。市村座時代に六代目が椀久を演つたことがあるが、発狂する前三分間ばかり無言で居る芝居をしたことがあつた。六代目自身では五分間の間を持ちたいが、出来ないと云つてたことを誰やらから聞いた。
我等の先輩高田実は新派が、明治廿八年五月十八日初と歌舞伎座へ初めて川上一派が出勤した時の狂言「威海衛陥落」の丁汝昌に扮し、毒を飲んで死ぬ時、五、六分間無言のまゝ落入るところで大道具がドンデン返しになる場面を見て、見物を唸らせた歴史がある。
その後市村座で角藤一座の「二人狂」を岩尾高田で演つたのを団蔵が見物して、彼は誰の伜だ(旧役者の)と聞いたら、素人だと知り自分は役者をして居るのが嫌になつたと云つて暫く芝居へ出演しなかつた話もある。
六代目の椀久、高田の丁汝昌、共に斯うした逸話があることを思ひ出すが、栄三のこの治兵衛のしばしうつろな立姿に、私はそれと同じものを感じた。
二枚目、女形共に只優しく、グニヤ/\と使ふのが、たいていの人形遣に感じられるが人形より遣ふ役者の方が女らしくグニヤ/\することはいかんと紋十郎(先代)はじめ、達人たちが教へてゐる。
廿四孝の八重垣姫
多為蔵、文三(初代名人玉造と伜の玉助亡き後)この立役荒物の遣ひ手が死んだ後、文五郎は純女形専門である為め、栄三はあまり手がけない荒もの迄勤めなければならなくなり、それ等の役を引受けて、座頭格の役を遣ふ事になつた。
それがため自分の得意であつた女形を晩年は遣はなかつたし、観客の方も立役専門と思つて居る習慣がついてしまつた。それでも鏡山の尾上、葛の葉なぞ最近つかつて、文楽フアンを欣ばせた、私がかつて淡路人形の劇化を計つて、栄三に十種香の八重垣姫を教はつたことがあつた。
八重垣姫は栄三の出世芸であつて、先代紋十郎が倒れた時、代つてその手腕を認められた。
それ以来当り芸となり、奥庭の乱れにも自分の工風を加へ、早替りに鮮かな演出を編みだしたのである。私へのその教示振りは栄三のことを書いた三田文学にくわしく記したから、茲では略すが、彼の八重垣姫はどこ迄も武家の姫を思はせるウブで可憐な演り方であつた。「同じ羽色の鳥翼人目にそれと分らねど、親鳥と、ツツンシヤン、又夫鳥と言ふは性あるならひぞや」の姫のサワリの件で私は幾度も栄三に叱られるのである。それは「言ふは性ある」でチンと云ふ合の手を聞いてから右足を出すのだが、前からの引続でどうしてもチンと云ふ三味線を聞くと直ぐ右足を出すことが早すぎるので、色気が無いと云ふのだ。チンとゆつくり三味線に弾かせてからゆつくり出るところに時代物の姫の品と色気が出るのだと言ふのだ。
姫のこのサワリの件もなるべく動かない肚のゆき方で、つまり紋十郎系の型を私に教へて呉れて居る。初めて人形を持つ者に、むづかしい動かない型を教へる栄三の点のからさに、私は悲鳴をあげたことがある。
一通り演つて見せる栄三の姫には大名の姫の処女としての色気があふれて、私は只見惚れてしまつた。八重垣姫には誰でも演る朱房黒骨金銀の扇も使はない。始終振袖だけで一切をやる地味な演り方。終り迄教はつて私もどうにか斯うにか型を一応覚えた時、栄三は横蔵が本役だつたのを実に自分が紋十郎に代つて勤めた時の苦心を話した。
彼は紋十郎の弟子の桐竹亀三郎と云ふ主遣ひの名人が居て、本来ならこの人が紋十郎に代るべきであつたが、この亀三郎と云ふ人、自分を知つ居て、自分は決して主(おも)つかひは出来ぬ役者だから、それで栄三にこの主役を譲り、自分は一生左づかひで終つた程、己れを知つて居た人だつた。
この亀三郎が「性ある」ツツン、シヤン、ならひチンの件で栄三が右足を出すかまへをすると「まだ/\早い」と云つてなが/\動かせない、強いて出ようとする栄三を叱つたさうだ。
私がチンを聞いて出たがる癖を「まだ早い」と云つてビシリと打つたことがある。そうした芸の鞭(しもと)を私は実に有難いと思つたのだ。これは何となれば、栄三が私へ残して呉れた置土産となつた訳である。栄三は同じく紋十郎遺品の「無間の鐘」の梅ケ枝を私に教へて呉れる約束だつたが、惜しくも是は果せなかつた。
俊寛女護島の俊寛は演舞場と文楽とで二回見た。
「平家女護島」の上演は全く絶えて居て七十年も文楽では脚光を浴びなかつたと聞いた。
古靱太夫が東京へ来て、松太郎に訊き、十六七年前、四ツ橋近松座が廃座復興、御霊の文楽焼失後道頓堀弁天座で仮越興行を演じて居て、居据りの悪い何年かを漸く居城を定めた、その柿葺落しの折、上演された珍らしい出し物であつた。
その折、古靱の注文で出遣ひでなく、黒衣で勤めたさうだ。私の見た二回共出遣ひであつたが、是は黒衣で勤めた方が誠にいい。近頃はどんな端場でも出遣でやる弊が定式になつてしまつたが、以前には出遣ひは一日に二三回しかなく、それで浄瑠璃の焦点がハツキリする訳だが、近頃の見物の層を考へて松竹でどの場も出遣ひを主張する為め、端場と切りとの区別がなくなつてしまつた。
廿四孝の奥庭、日向島と共にこの場に限つて勾欄を青竹にする昔の習慣があつて、なんとなく清浄な気がする。私は栄三の俊寛が少将と千鳥と盃を交はす件が好きだ。この欣びのあとに赦免の使者丹左衛門と瀬尾が船で来て、康頼成経が赦免され帰国することに極る。俊寛が残ることになり、俊寛独り居る淋し味も、芝居で見た段四郎より肚でやる演り方である。
「鬼界ヶ島の流人」となり、幽霊のやうに芝居でする歯をむき出し、手を下げるやり方も、栄三は只上手の岩組を見るだけだ。丹左衛門に改めて重盛の赦免状を見せられ「京の月花見たうない」も実に気持ちが出てゐるし。昔彦六座所演は見物席の二階正面の手すりに遠見の船を出したことがあるさうだ。大正八九年?と思ふ歌舞伎座で段四郎が久振りに出した時、花道からその二階の匂欄に浪幕を張り、遠見の船を見せたのを私は観た覚えがある。人形の方からの移植か、又歌舞伎の方にもある型か私は知らないが、段四郎のはその船を追つて花道へ行くと花道一つぱいの浪布が、砂利糸で引つぱられて俊寛の足元へ進んで来る、それで俊寛が又舞台へあともどりしながら糸に乗つての動作は相当派出だ。栄三はそうした派出な演り方を避けて舞台奥の遠見へ切出しの舶を出す。そして、上手から中央迄岩組を押出させ、それに俊寛がよぢ登り、一度岩台へ落ちるとき、人形の体だけ落すとき「ハツ」!と掛声して岩台に足遣右足だけ残し、栄三は岩台の後へ体をかくし、右手を思ひきり高く上げて正面の沖の船を呼ぶ形が段切れとなる。
因みに俊寛の頭で苦労をした話を栄三から聞いた。現在文楽にあるものでは「日向島」の景清のよりありませんし、それは盲目ですから間に合ひません。それで止むを得ず玉次郎と相談して天拝山の相亟の狂ひになつてからのものを使ふことにしました」と言つてゐたが、この頭必ずしも名作とは思へない。それは見物席で見るとどうしても俊寛が笑つて居るやうに見えたのである。
四段目の松王
又始めに戻して、手習鑑の寺子屋の松王の逸物を書きたい。私は文楽の頭で松王の頭(文七)程好きなものはない。是程色気があつて張りがあり、そして凛々しい美しさのものを他に見ない。さればこの頭程多く使はれるものもすくないと思ふ。実盛、熊谷、松王、盛綱、弁慶、光秀、そのほか需要の多い頭だ。殊にこの松王の場合力紙が鬘のうしろに付きそれに加へて紫縮緬の鉢巻がつく、歌舞伎で云へば六代目のこの寺子屋の松王にそれを感じられる。フツクリして居て、どこか近代的な顔を感じさせ、そして眉毛にトテモ魅力を感ずる。六代目の松王は、私は人形の文七に共通する顔の美しさがあつてトテモ好きだ。
この頭は栄三秘蔵の物で、大正十五年御霊文楽座で焼失をまぬがれた三代目桐竹門造(現門造の二代前の人)製作時代は嘉永年間の作で四代目門造から初代玉造に譲られたものであると齋藤清二郎氏の文楽首の研究にあるから初代玉造に伝はつたものだと聞かされた。コレハ余談だが私がかつて「残菊物語」の映画に初めてデビウーした折、六代目がわざわざ京都迄応援に頼て下さつたことがある。その時初代菊五郎の墓が五条の延寿寺に在るので、六代目と墓詣したが、その墓の前で六代目秘蔵のコンタフレツクスを引提げて来て、私と紀念撮影をしたことがある。二三枚写して後、私が今度は六代目を写したが、その写し上つたものを見ると、トテモ六代目が立派で中折帽子を冠つて羽織を着、足袋、草履の凛々しさが、丁度寺子屋の松王そのまゝであつたのを、六代目に送つたら「コイツはいゝね」と余程気に入つたと見えてしきりに賞めてくれた。実際その墓前の六代目の立派さは水際立つて居た。
話がわき道へ這入つてしまつたが、栄三の松王はその文七の頭を実に有効に使ふ。
菅相亟は栄三に一籌を輸するが、六代目の寺子屋の松王は栄三と五分五分だと私は思つて居る。かつて大阪歌舞伎で観た雁治郎のあの立派な源蔵(源蔵としては立派すぎる)を相手に遜色がなく、充分肚を見せ、且つ派手で雁治郎を圧したのが嬉しかつた。
栄三の松王は無駄のない演り方(三宅さんの説は松王が首実験のとき鉢巻をとつた事があるさうで、あの場合気がぬけると注意したら、栄三はその説を承認して、それから鉢巻をとらずに演つてゐる)私の見た時は鉢巻は取らなかつた。実検も「相違なし」で玄蕃の方へ眼を引いて見る、その引目が何んとも云へずよかつたのを思ひ出す。地味な演り方だけに、この引目が一層効果があつたことを私は忘れることが出来ない。「相違なし」で玄蕃方へ目引いて「出かした/\」を聞いて、首桶の蓋をする細心な演り方。
芝居で演る方は「こりや菅秀才の首打つはまちがひなく相違なし」あとへ出かした源蔵、よく打つたと附加へた台詞があるが、文楽の方では勿論言はない。栄三の最後となつたこの松王で私は、この首実検の間の肚と引眼が、全く忘れられない印象となつて私の眼の底に残つて居る。
実検がすんで遣る「駕にゆられて立帰る」の時六代目は世話木戸をやゝ軽くポンと音を立てゝ閉め、それ迄病体であつた足取から離れて素の自分に還る仕草をチラリとほんのチラリと見せて入る六代目式技工を見せる。その妙技に見物は我を忘れて感嘆するが、一方家の中の源蔵夫婦の芝居の分迄、サラツテゆくやうな気がしてならない。
栄三の松王はそうしたことは演らず、神妙で実に行届いた芝居をする。人形で殊のほか面白いのは、松王が「内で存分ほえたでないか、御夫婦の手前もあるわい」千代を松王が叱ると千代が、自分の気持ちも知らないで、男とはそんなものかとスネた気持ちで、文五郎はトントンと足拍子をさして上手へ、ひぞつて行き、正面を向いて坐り、松王にツレナイ人だと云ふやうな思入れをする。それから又下手へ廻つて源蔵夫婦の傍へ行き、又自分の気持を伝へようとする。この間太夫も他の人形も一切何もしないで居る。是は歌舞伎では絶体に見られない文楽特有の表現法で実におもしろい。栄三に訊いたらまだ/\他にも先代萩の竹の間の段切れに政岡、八汐、沖の井、等皆後向きで襠裲をさばいて段切れ一つぱいに各々の模様を充分に見物に見せる陳列会のやうなところがある。是なぞも芝居で見られない人形特有なもので奇抜だ。
千代がそんな拗た仕草をする間、一切「待ち合せ」でやるので、浄瑠璃から、はなれたおもしろ味を感ずるのだ。(この話は三宅周太郎氏の寺子屋の研究にも書れてあるが栄三の話で特におもしろいと思つて見た。)
人形で、一ヶ所歌舞伎の演出と違つて如何にも人形劇らしいのは段切れのいろは送りだ。東京歌舞伎の方では「いろは送り」をカツトしたり「師匠は弥陀仏釈迦牟尼仏」以下をめい/\がいふ型が昔から可成演りつゞけられて居たが、六代目、播磨屋の良心的な演出になつて以来は、東京での演り方も「いろは送り」を尊重しだして、この間昭和十八年一月二月と演続した菅原の通しの時は段切れ迄本文で演つた。
「アイと返事のそのうちに戸浪が心得抱いて来る」と太夫が語ると、松王夫妻は一たん入つて、更に松王は麻裃、千代は鬘に角かくしをし、白装束で出て、人形独特の足拍子を使つて松王と千代が舞台一つぱいに動く。殊に千代が思ひ切つて、切ない女親の心情を雄弁に表現する。松王は、カイゾヱに過ぎぬが、千代は動く。文五郎独壇場で思ひのまゝの人形美のあらゆる技巧を用ひて派手な演出。栄三は気を入れてしかも千代の文五郎の邪魔をせぬやう、そして松王の気持をゆるがせにせずに居る。「らむ憂目見る親心」で、文五郎独自のネヂを使つて後向きで極る、「京は故郷」の段切れに千代は後向きで駕によりかゝり泣き入る。
以上私は文楽ノートを大半焼いてしまつたので朧気な記憶をたどつて書き続けたがまだ「新口村」の孫右衛門、「沼津の重兵衛」「三段目の熊谷」「二月堂」の良弁なぞのノートの見つかり次第、栄三所演の型と訊書を整理したいと考へて居る。何分にも交際が深まるにつけ、私がノートを出すと酒がうまくない、「今日は止めなはれ」と云はれるので閉ぢることが多かつた。今にしてみると誠に残念なことだ。人形の形、又は遣ひ方の述語も六七聞いたので引続いて訊き、覚書して置こうと思つて居たが……。そして「尾上」「貢」「重の井」「梅ケ枝」その他の型を区別して記入する考へで居たのだつたが、戦争中すべて意に叶はずに終つたし、文楽焼失後お梅さんは亡くなる、自分も兎角健康すぐれず、足の神経痛が激しく、重いものは持てんと言つて主遣を断り、「合邦」の俊徳丸なぞに廻つて居たが、この十月京都南座出演の折、古靭太夫のすゝめで、堀川の与次郎を遣つたのを最後に、後援者で、奈良県生駒郡大和小泉村、住埜英二氏方で療養中、枯木の倒れるやうに、十二月九日に逝去した。
私がこの十二月五日に、拾壱月京都興行中昼間興行と乗物の不便さから見舞に行けなかつたこと、お梅さんの悔みのことなどを書いて出した手紙もおそらく見て呉れず、一人の弟子も縁者もその病床で看護もされずに本当に淋しくこの世を去つたのだらふと思ふと、たまらなく済まない気持で涙が胸に迫つて来る。
最後に栄三の人形遣ひの心得を書いてこの稿を結びたい。
一、人形遣は自分の態度をくずさん事。
一、浄瑠璃が主なれば、人形はどこ迄も従として、浄瑠璃の邪魔にならぬ事。
一、人形を人間の様に遣はん事、人形でも人間以上動ける様に見せるのは人形遣の邪道なり。
一、三枚目はチヤリに限らず人形通り遣ふ者が動かんもの。
一、太夫の台詞の中で写実に仕草することを自分は演らぬ。
一、必要以上の技巧はやらぬこと。
一、二枚目、女形共に遣ふ者グニヤ/\せぬこと。
本名、柳本栄次郎。明治五年四月廿九日生父、栄助、母、あい。初舞台、大阪南、日本橋北詰、沢の席、明治十六年六月、光栄と名乗る。明治廿五年十一月栄三となる。師匠なし。明治卅五年九月堀江明楽座より御霊文楽座へ以来六十年在勤。座頭就任、昭和二年三月。道頓堀弁天座。昭和十八年国民演劇情報局賞、朝月新聞朝日賞受領。文楽座焼失、昭和廿年三月十三日。最後の舞台、昭和廿年十月京都南座。昭和廿年十二月九日歿。清光院浄岳直道栄満居士