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【花柳章太郎 人形物語 三田文学】

(2016.01.05)
(2019.12.09補訂)
提供者:ね太郎
 人形物語 三田文學 十七巻3,4,6−9,12號 計7囘
   【誤植等*も含め原文のままとした】
 
17(3) 1942.3人形物語(1)吉田榮三に訊く  文學*の新作ものは閉口 忠臣藏と菅原
17(4) 1942.4人形物語(2)「女形遣ひの名人吉田辰造」 「明治初年の名人形遣ひのこと」 「院本もの」 「文章より作曲」
17(6) 1942.6人形物語(2) 吉田榮三に聽く藝だこ
17(7) 1942.7人形物語(3)「大隅太夫と團平」 「實感の鰻谷」 重の井に就いて
17(8) 1942.8人形物語―吉田栄三に訊く(三)舞臺の汗 狐の話 「初代玉造の逸話」 紋十郎と人形の怪
17(9) 1942.9人形物語(4)「初代門十郎のこと」 「足遣ひ拾年」
17(12) 1942.12人形物語(5) 
 
 
 人形物語(1) 三田文學 十七巻三號 1942.3 pp128-131
 
  吉田榮三に訊く
 八月の末、朝からの曇天に可成り海の水は冷えて居た。その爲、逗子を引き拂ふ名殘りに長く浸つて風邪をひいてしまひ東京を發つて來る日から鼻カタルで困つた。一年振りの大阪も毎日、朝から咽喉の醫者に通ふ日が續く……。
 私の宿は南の鍛治屋町で、宿を出て北へ眞直ぐに五つ六つの辻をすぎて長堀に出る譯。
 長堀へ出る迄堀添えの筋を鰻谷と云ふ。
 鰻谷と云へば、おつま八郎兵衞で有名な、淨瑠璃となつて巷説にうたはれた町である。
 「櫻鍔恨鮫鞘」、故人仁左衞門老の當り役、梅幸さんのおつまの至藝と相待つて東京でめづらしく受けた上方狂言だ。
 そんなことを思ひ浮かべながら、私は毎日鰻谷の醫者に通ふ。ある日に、穐村と云ふ舊家の前を通つた。C水町へ出る迄の角を引まはした土藏が幾棟か据つて居て大阪特有の郷土色のある建物、そのさび、その時代のついた味を私はたまらなく好もしく眺めながら過ぎるのである。
 尤も一つ鰻谷に出る迄に淨雲寺と云ふ寺があつて、これも可成り古い建築らしい。その地は堺筋につゞく裏街の商店が軒を並べ店員が往來で荷造りをして居る。長堀川の川風にはらむその町中を赤蜻蛉が群れて飛ぶ。もう朝夕の風は體にしむやうになつた。
 淨雲寺の門からつづく庫裡や、本堂の構えや、そして間取りが如何にも大阪の町寺らしく好もしいので、ぶしつけと思つたが石疊の敷きつめたところから庫裡をのぞいて居たら四十を越した權妻風の女がうさんな奴だと思つたのか出會がしらに私をねめつけたので、
 「お寺の建物が結構なので、拜見したのですが餘程古いお住ひでせうか」
 何か買物にでも行きかけらしく……
 「あてもよう知りまへんが、八拾年も以前に建つたらしゆうおますせ。西本願寺系だしたが、現在(いま)では東本願寺の方の筋でおます、昭和九年の風水害の折、この瓦が落ちましてな、その折。瓦に年號が書いておましたので分りましたんだつけど、文久何年とか年號がありましたさうでんね。本堂の方も格天井皆、極彩色にしようそして途中で止めましたらしゆうおますせ。本堂へ上る迄の庫裡がなか/\よう出來てましてな、まア一寸お上りやして御覧になつて……」
 気散じに案内して呉れて本堂をはじめ、本願寺當主を招じたその後の新築の客間なぞ迄こと/\く見せて呉れた。私が氣に入つたのは本堂から三、四段下りる梯子のある庫裡、十五疊ばかりの臺所とつづく暗い室、落間になつたタヽキの上に古い朱塗りの駕が釣つてあつたのが見えた。庫裡に續く北寄りの裏庭には爽竹桃の紅い花が重くかむさつて居る。向ふに二つの古い倉の白壁に秋の陽の照りはえて町中にめづらしくとまどつたが蟬が鳴いて居るのが可笑しかつた……。
 淨雲寺を出て私はたしかこの鰻谷邊に、文樂の人形座頭、吉田榮三師の居ることを思ひ出した。門前の眞向ひの小じんまりとした素人屋の軒に「柳本榮次郎」と云ふ表札のあるのが眼に付いた。淺黄に竹の文様のしぼつた麻のれんがかゝり、家傳「百草根~經痛藥」と云ふ看板がかゝつて居る。
 咽喉の醫者の巽先生に聞いてみたら矢張りそこが吉田榮三師の家であること、夫婦二人暮しで、誰も居ないことも聞き、いつかその家を訪れたいと思つて居た。
 
 縁と云ふのか私に今度その機会を与へて呉れた人がある。北濱取引所の若主人で文樂好き、そして自分も淨瑠璃を相生太夫にヘはつて居る人で、六角さんと云ふ知人があつていつかこれも私の文樂好きを知つて居て、榮三師に會はして呉れる約束のあることを思ひ出したのである。
 で、私は早速六角さんに、今度榮三師に會はして貰ふやうたのんで見た。
 それが實現したのが丁度その淨雲寺を覗き偶然にも榮三さんの家を探がし出した日であつた。それでその晝には、江戸堀のつる市で、川口君と私は榮三、相生の兩氏に會ふことになつて居るのだつた。
 それ故、その住ひが知れても訪れることをやめた。
 
 その日、晝飯を土佐堀のつる市でともにして、相生太夫、榮三師との藝談に花が咲いた。
 
  吉田榮三自傳に就いて
 私が文樂硏究に就いて常に座右に備えてある本は木谷氏の「文樂の今昔」と三宅氏の「文樂の硏究」石割氏の「人形芝居雜話」の三種だ、これだけあれば、文樂を云々するにまア人にひけをとらずに濟むと思ふ。何度くり返して讀んでも飽きることを知らない。
 自傳は何年位かゝつて鴻池氏が書かゝれたか聞いてみた。
 「さア鴻池さんがよう飽きんと聞いてくれはりまして、一年半程かゝりましたやろか、廿五六遍で話し終りました。大阪ホテルのいつち上迄あがつて行つて話しましたが隨分ヱラオおました。」
 私が最近觀た文樂の(大阪)ものは、一の谷であるがその流しの拔*が二段目この中が組討、三段目が陣屋になるので、その三段目に脇ヶ濱があることを聞かされた。
 流しの拔*は忠度と六彌太の武道のコ義を書いたものだが、あの忠度の長丁場を少しの品も落さず、殊に立𢌞りの間、馬に乘る仕草の鮮やかさ、段切れの松ヶ枝をくゞる件なぞ、感心したのでその話をした。
 一の谷はなか/\長く完本(まるほん)ものはたいてい、通して演ると十二時間はかゝるとのことである。それから東京で觀た文樂はこの夏の演舞場で、国姓爺を見たが榮三師のその甘輝にも感心した。
 「我は唐希代の甘輝」の見得に朱の煙管を右に突き左で大髭をしごく見得の繪畫美をいまでも忘れないと話をした。
 
   文學*の新作ものは閉口
 国姓爺は出し物としては珍しく大阪でも東京でもあまりやらないものをこの間、久々に出して見た由。新橋演舞場の國姓爺の次に、小鍛冶を見たが、これは新作ものの中では舞臺効果のあつたものと云へる。
 それは出遣の榮三師が下駄を使用しない爲め、足遣の人の苦心を充分見物が納得し得た點、今迄の新作ものに比べて、見物自身が勉強になつた。
 足遣の人の並々ならぬ苦心、殊にこの小鍛冶は芝居の猿之助さんのと違つて文樂から芝居への移入でなく、芝居から文樂への逆であるのと、何度も芝居の方で手がけた淨瑠璃を更に工夫して、芝居の方では稻荷靈~を童子にしてある。それを人形の方では老翁にしてある點、後の~狐になつてからの靜から動へ移る變化がこの方が効果的である點面白く觀た。
 その話をしたら榮三師は、
 「あれは道八さんが芝居の方で苦心したものを又人形に向く様、考へてくれはりましたので、あても工夫して芝居で出來ん働きをつけて見たのだす。それを所作臺の平舞臺にして勾欄(てすり)を使はず人形を遺ふところをお見物に觀て貰ふため、下駄を履かずに足をうちの榮三郎に遺はして、花道を使つて見たのだした。」 私は文樂の新作ものは今に始まつたことでないことを石割氏や三宅氏の著の中に書かれてあることを知つて居るので、それが近頃のものでないことは分つて居たのだが、三勇士當時各座競演に當りを取つてから更に文樂で人形化して見せて見物が來たので、近頃頻繁に又新作ものを上演しだした。斯うした所作のものはまだしもだが、新派的なものはあまりにも際物の思ひ付で、その上演は賛成しないと云つた。 この春觀た、戰陣訓など最もお座なりのもので觀て居て汗の出たことを話したら榮三師もこれには頭をかいて居た。
 
   忠臣藏と菅原
 人形遣つて居て何んの狂言が一番忙がしく又骨が折れるか聞いてみたら、榮三師は
 「忠臣藏と菅原だす。忠臣藏の方で勘平と由良之助を使ふたら飯(まま)食べる暇もありまへん。又それよりヱライのは菅原で菅相丞と松王とはその上力が要ります。
 菅相丞は人形の方では極め付きの役物でその人形はメツタなこと出來しまへん。人形遣ひも身をCめ、部屋には荒菰を敷き。相丞さんの人形を祀り燈明洗米、供物を備えて置きます。東天紅、杖の折檻の間に風呂に入りますがこれは必ず新湯(さらゆ)でないといけまへん、そして體を淨めますとそれから天拜山の禱(いの)りをすます、チント相丞はんを飾つてるともう寺小屋の松王の出になります。遣ふたら直ぐ祀らんと崇りがあります。何せ朝七時に昔の文樂は始めたもんだすよつて、道明寺終ると丁度十二時だすよつてその時晝飯たべてます。
 忠臣藏の時は四段目の城渡しがすむと丁度ヒルだすよつてその時、ママたべます。何せ二つともエライ狂言だす……。忠臣藏では七つ目由良之助が難儀な役でむづかしゆうおますわ。殊に蛸ざかなの件がむづかしい。四段目の由良之*がつまり七段目は心がしつかりして外がやはらかう遣ふの助*は息がむづかしいと思ひます。」
 川口君は「女形遣ひに就いて榮三師に聞いてみたいが貴方は近頃あんまり女形を遣いませんが先達演舞場で尾上やお辻を觀て感心しましたが……」と質問した。
 「あては以前はズート女形を遣うとりました、何せだん/\立役遣の人が亡くなられましたよつて、誰も座頭役を遣ふ者がなくたりまして、その方を演らされますが一體あては、小兵だすよつて、立役の大きいもの遣ふのは人一倍體がヱロおます。熊谷やら、光秀のやうな鎧物やと五、六貫おますよつてな。
 女形遣ひの人は自分が女の様になつてグニヤグニヤして遣こうたら人形が女になると思ふとヱライ間違ひでそれでは人形よりは自分が目立ちます。自分を見せるのではないのだすよつてな、それでは見苦しゆうおますせ。何處迄も自分は平常にして人形に色氣を出すと云ふのが先代紋十郎はんと、先づ近世での女形遣ひの名人吉田辰造はんのヘへだす……」
 私はその話を聞いて名人は違ふとつく/\思つた。
 
 人形物語(2) 第十七巻四號 1942.4 pp86-88
 
 先づその女を描くことをこれらの名人は喜本としたのだ。その女を描寫する心掛は常に私もモツトーとして居る。舞臺と云ふカンバスへ役者は體力でその人間をデツサンするのだ
 「次いで吉田喜十郎はん、吉田金四はん有名だしたが、この人達は私が舞臺を勤める一寸前に亡くなりました。
 その頃の最古老は豐松宗十郎さん吉田才治さんで人形遣ひが一同集まつた時でも一番上座に居られました。その次座に初代名人の玉造さんが控へて居たのだすよつて人形芝居がいかに盛んであつたかちゆうことが分りますやろ」
 
   「女形遣ひの名人吉田辰造」
 三代目吉田辰造とて二代目吉田辰五郎の悴で二代目辰造の門弟(或は二代目辰造の弟弟子)明治初年のをやま遣ひの第一人者と云ふことを私は調べて、その名人の藝風を榮三師に聽いてみた。
 「さうでんな、わての聞いてる名人の中での女形遣ひでは先づこの人を擧げんなりまへんな…妹脊山の杉酒屋のお三輪な、今でも我々仲間で屢々噂することだすが、お三輪が酸漿を揉み/\歸へつて來る形の可愛らしさなぞなかつた。又壽司屋のお里のクドキの「父も聞えず母様も――」の條、暖簾を覗いてじり/\と後退りする振りが何とも云へずよかつたと聞いて居ります。その他八重垣姫もよかつたとの事でつまり女形ものでも振袖ものが格別やつたとの事で、廿四孝の奥庭のみだれを玉造さんと遣ははつた時、斯うした狐や變化ものの名人の玉造はんと二人八重垣を遣うて、大評判をとつた人でうんと古風な女形遣ひで後の紋十郎はんは、寫實な女形だしたが、この人の遣ひ方は時代だしたんやと云ふことだす」
 人形遣ひの法は吉田がもつとも多く桐竹、しかし豐松と云ふのは珍らしいので、これも聞いて見た。
 「この人は三代目宗十郎、彦元*座開場當時から居てはつたこれも明治初年の古老の方だした。他に違つた名で吉川と云ふのもおます。
 
   「明治初年の名人形遣ひのこと」
 「吉田喜十郎はんも有名な方で、左遣ひの名人で聞きにゆきさへすれば何んでもヘへて呉れた人。現在でも型となつて居る太十の操のクドキの「現在母御を手にかけ」の竹槍を持つ振りは、この方が始めて演らはつたちゆうことだす。
 吉田金四はんは明治十四年に歿した方だすがこの方の荒事は實に物凄いものやつと云ひます。この方は時折、文樂へも出やはつたがその他は大體が外の芝居へ許り出てはつて居たさうで…藝に熱のあつた人で、「金四の早代り」と云つて早業が得意で「阿波十」の段切りの十郎兵衛の屋根の上の立𢌞りは有名なものだした、極り/\の物凄い荒もの遣ひの名人やと先代の門造はん云ふてはりました。」
 明治初年時代の人形遣の話は面白かつた。別に名人玉造の話が長く續いたが次の稿に讓ることにして、川口君は作家の立場として院本物に就て榮三、相生の兩氏に話を聞きだした。
 
   「院本もの」
 川口君は「私共作家として舞臺へかけて見て自分の物でも又、他人のものでも作としてよくても舞臺効果のあがらないもの、又作としては別にそれ程でないものでも舞臺に登らせて面白い物になるものがある。淨瑠璃の方でもその例が多いやうですが、貴方の方でも語りいゝもの又、遣ひいゝものがあるでせうな。例へば新作でも今度の名和長年は作として幸田先生の文章はまとまつて居るが、効果は小鍛冶の方があると云ふやうに、昔の作者のものでもさうした例が多くあるでせう……」
 相生太夫は常に榮三師をたてゝ自分は多く話さず私と川口君と榮三師の話を黙つて聽いて居る。榮三師は又話し續ける。
 
   「文章より作曲」
 「淨瑠璃は文章よりは、その節付が物を云ひますな、たとへば寺子屋は文章もよく又節付もよろしいよつて、お客はんも飽きまへんし、又遣ふててもだん/\乘つて來ます。只今演つとります引窓など、文章はトテモよろしいのだつけど、どうも山がおまへんよつてもう一つ受けまへん。殊に段切れのあかんもんはだめだす。院本はもつとも字が細かく紙數にして百枚以上おます。
 現今はなか/\手に入りまへん。わての處にも入用なものだけでそうおまへん。
 「それは我々芝居の方でも何時もそれで惱みます。幕切れのマトマラぬものは矢張り見物に受けないやうです。婦系圖と瀧の白糸を比べて見ても解ります。婦系圖の方はラストがよくないので印象が薄いが白糸の方は印象が見物に強いから白糸を演れば當ると云ふことになります。」
 斯んな話をして居るうち兩方共樂屋入りの時間となつた。この四人を引合わせた仲人役の六角さんの姿が何時の間にか見えないので、つる市の女將さんに聞いたら「店から電話でお四人さんのお話を聞いて居るうちつい今日は店の月給日で金庫の鍵を支配人に渡すのを忘れて、こゝへお持ちやしたので、店の方が皆さん歸へれんとお待ちしてると云ふ電話で失禮でおますけどお先へお暇します。よろしゆう仰言つてはりました。」といふ。
 引合せのお客を忘れて四人は話し續け夢中になつてしまつたらしい。すまないことでこちらこそ失禮した譯であつた。
 まだ/\話はほんの口を切つただけだつたので私は斯うした席よりかへつて榮三師の家へ行つた方がお話が聽きいゝと云つたら、榮三師は是非來て呉れとのこと、實は毎日巽さんに咽喉を診察して貰ひに行く往復をお宅の前を通るのですと云つたら、そんならあしたどうぞお越し下さいと云ふ。
 私は今日もお訪ねしようかと思つたが、今日の此紹介が濟んでからと思つて遠慮した事を云ひ、明日からお宅を寺子屋にして通ひますと云つて、四人は土佐堀から電車に乘つた。
 それから四つ橋で降りて文樂の方へ歩いてゆく榮三師の姿はどうしてまだ/\矍鑠たるもので、私の師匠(喜多村)は七十一歳だが榮三師は七十歳、兩方とも藝にも體にも若さは漲ぎつて居る。そしてどこ迄も藝人らしくない世辭氣のない點、そして付きが惡くて交際して飽きない點が似て居るのをョもしく私は電車の中から秋の陽ざしを浴びて四つ橋を渡つてゆく榮三師の白い足袋の足取りを見入つて居た。
 
 人形物語(2*) 吉田榮三に聽く 第十七巻六號 1942.6 pp108-111
 
   藝だこ
 私は昨年の春「浪花女」を上演するに當つて、前年の暮、大阪へ出勤して居たのを機に、伊志井寛君にたのんで、津太夫さんと文五郎さんとに逢はして貰つたことがある。
 それは、昔し、團平、おちか、越路太夫なぞに就いて、その當時の風俗や、又それ等の人達の性格や癖なぞに就いて聽いて置きたかつた爲であつた。
 團平、おちか、住太夫、植村(文樂座の仲打)、越路と云ふやうな主要人物の話をして貰つた時、それ等の名人の、並々ならぬ修業に、實際心から敬意を表したのだつた。
 その修業、苦難何十年のかたまりと云つていゝ津太夫さんの咽喉の下に、大きなシコリの出來て居るのに驚いた。丁度、五分程の丸いブヨ/\したタコが出來て居る。それを見せた津太夫さんは、私にそれに觸つて見ろと云ふのだ。私がそのタコに觸れると、津太夫さんがウツト云つて腹に力を入れ丁度三味線の彈出しが始まつて語り出す前の送りになる構えである。すると、そのブヨ/\したシコリが少し縮まると、とても堅くなつてしまふ。つまり咽喉に力を入れるその筋肉張がそのシコリを固める譯である。
 それと文五郎さんの左手の右手よりはるかに大きく、そしてその親指、人差指、中指、その關節の太さに驚いた。そしてそれ反對に親指と人差指の指頭の肉がフニヤ/\になつて居ることだ。
 それに掌の堅いことも通常の人と比べて吃驚する。掌の堅いのは人形の胴串を握る爲、指の關節の太いのはその胴串をさゝえる爲、指頭の肉のフニヤ/\なのは眉、眼、口の線を操つるためにさうなつたのである。
 兩氏とも何十年間(共に五六十年)の「藝だこ」である。
 それを忘れないよう半紙にその手形をつけて寫し、それにその太くなつた處ヘタコの理由をくはしく書きとめて置いたものが私の處に秘藏してある。
 この二人の藝術家の修練の結晶とも云ふべきものに觸れて、私はしみ/\頭の下る思ひであつた。
 變な話だが、魚にもそんな話がある。大阪でよくものを喰べても、鯛なぞ大平洋から入つて來たもの、そしで鳴戸を越えて來たものは骨に節が出來て身がしまつて居てうまい。つまり荒浪やあの渦をくぐつて來たものには、それ丈體に苦勞の味がつくことになる譯だ。
 それもすでに津太夫さんの昨春の逝去によつて、もうそのシコリには觸れられないのである。あの惡聲であれ迄の淨瑠璃を語つた紋下津太夫の藝術には接しられないのだ。
 榮三、文五郎兩師健在の間に聽くべきことは充分聽き、學ぶべきものはよくヘへて貰つて置かなければ、この國寶的存在の名人は今後出現しないのだ。
 それで私は毎朝、八時に起きて巽さんへ行き、そして九時頃きのふ見知りの榮三師の表札、柳本榮次郎とある鰻谷東之町十八番地の家の前を通つた。
 あさぎの麻のれんのかゝつた、小さい家、二階は屋根の修繕らしく、明け開かれ、のぼりの古いのに包まれた何んだか人形らしいものが見えて居る。
 私が家の中の様子をうかゞつて居ると、丁度、その私の足が見えたのか、浴衣姿の榮三師がのれんから外を覗いたのと一緒になつて、思はず二人とも「ハ………」と笑つてしまつた。
 つまりきのふの約束通り來るかなと云ふ氣持ちと、又私の方はをじさん、家に居るかなと云ふ心が、ピタリと合つたのだ。
 「さアお這入りやす。昨日は大きに失禮いたしました。さ、どうぞ敷いとくれやす。」
 きのふの初對面のやゝ堅苦しきに引きかへて、今日は浴衣の煙草盆を前に丁度朝飯の濟んだところと見え、啣え揚子の好々爺である。
 「今日から寺入です。いろ/\の事伺つてノートに書きます。その代り貧しい話ですが、私の方にもいろ/\の苦心がありますからお話します。」
 私が蒲團を敷かないと見てお爺さんも啣え揚子を捨て、形を改め、
 「さア敷いとくれやす。さうせんと話が堅うなりますさかい。きのふはお客はんを忘れて夢中でお話したりして、六角はんに濟まんことだつした。」
 「今日電話が六角さんからありまして、貴方がたのお話を聽いて居たら、年中上げ下げの相場にかゝつて居ることが阿呆らしゆうなつた。と云つてました。全く金錢を離れたあゝしたお話は得難いもので、六角さんは今日なんだか店に居ても、仕事して居て變だと云つて居られました。が、ああした芝居に趣味を持つて居る人が、我々の話を聽いて居られたら、金錢をはなれて居る丈に、さうした氣持ちになるのかも知れません。驚いたのは店員諸君でせう。月給袋金庫の鍵を持つて居る人が、三時間も四時間も居なくなつたのですから……」
 榮三師は吃驚したらしく、
 「ヱ、そんなら六角はんそれ渡さんとつる市へ來やはつたのだつか。そらお店の人はたまりまへんわ。あの方は藝の話がよつぽどお好きでんな。六角はんが以前云ふてはりました。貴方と話しさしたらうまが合うやろと。」
 私が榮三師に會ひたい希望は三四年以來で、丁度昨年私が晴小袖を撮影のため京都へ行つてた時、溝口君が浪花女を特作プロで撮つて居て、今日いよ/\吉野山の舞臺を撮影するから觀に來てくれと云ふ使ひを新興へよこして呉れたので、丁度その日、私の方の撮影が早く濟んだため、私が訪ねたことがある。
 道行の場面でその文樂の舞臺の見事さ、その當時の本式の舞臺で榮三師と文五郎さんとで實演するその撮影を、四五時間溝口君に付合つて見て居たことがあつた。
 二度程テストした後、休みの間に私は紋十郎氏の紹介で榮三師に引合はされたのだが、仕事中で私が誰であるか分らなかつたらしかつた。でその事を今榮三氏に話したら、「花柳はん云やはつたので踊の方のかたやと思ひました。」と云ふ。
 浪花女に因んで、私はもう一度團平のことをくはしく聽いてみた。
 「C水町はんは偉い三味線彈きさんでした。明治三十一年わてが東京ちゆうもの一度見たくてならなかつたのだす。廿七の時やつたと思ひます。東京へ行き、彦六座の頭取をしてはつた榮造はんや、小兵吉はんが~田の新聲館で人形芝居をやつてはつたんで其處へ行き、二月ばかり居るうち彦六座の大隅はんから手紙が來て、人形遣は大阪で修業せなんだらあかんと云ふことで、直ぐ大阪へ歸りました。稻荷座で丁度忠臣藏が出て、大序は直義が彌太夫、判官が組太夫、額世が大隅太夫、若狭が伊達太夫、師直が住太夫、三味線が團平はんだした。その他に茶屋場と九段目も彈いてられましたが、老いて益々盛んなもんやと皆も驚いてました。そしたら、翌四月の芝居で大隅はんの志渡寺を彈いてをられ、もうあと紙一枚ちゆうとこで撥を落され脳溢血で倒れました。(四月一日)直ぐ戸板に載せ、病院へ連れて行く途中、三休橋のところで亡くならはりました。友松さん(現道八)松三郎さん(現新左衞門)とが一緒に從いて行かはつたのだした。
 このお辻のさはりの處の「トチヴリ/\」の三味線なぞ全く神技だしたな。」
 たしかその前年の十月、團平の「布引四段目」の琵琶の音も有名なもので、松三郎(現新左衞門)が「師匠はえらい音さしはる」と云つた話も誰かに聞いたことがある。
 これは津太夫さんに聽いた話で、團平は如何なる時でも左の人差指と中指とを大切にして、風呂に入る時でも絶體に湯につけなかつたとのことだ。爪を常に堅くして居る習慣で大事にして居た。そして藝術至上主義の人で、寝て居る間も三味線の硏究を忘れなかつたと云ふことだ。
 これも文五郎さんに聞いた話だが、右手が左手に比して實に大きく、三味線なぞも三月目ぐらゐに替へないと、絲が棹にメリ込んでしまふので三味線屋が困つたと云ふ話をして呉れた。
 おちかが、門付の義太夫の三味線彈が自分も同じ義太夫の三味線彈商賣の冥利に、一度でいい、團平師匠のテンの一撥でいいからさし向ひで聞きたいと懇願したのを、つれなく斷つたので、同じ商買人のコ義がないと云つて激怒した話。金錢に淡白で、弟子にも月謝のことを云はないので、團平獨身の間は月末に弟子達が紙に包んだ月謝を置いてゆく。借金取りはその包金を持つて行つて事足りたやうな無慾の話も聞いたことがある。
 文五郎さんの話によると、團平さんは洒落者で風呂に入る時、糠袋へ白粉を入れて使ふ。黒縮緬の長羽織に宗十郎頭巾を冠つてコツポリ下駄を履き、女形(おやま)のやうな態度だと云ふ話も聞いた。
 
 人形物語(3*) 第十七巻七號 1942.7 pp92-95
 
   「大隅太夫と團平」
 浪花女の最高潮の場に春子太夫を大隅に改めさせ、太十を稽古する件がある様に、實際團平のため大隅太夫は死闘して學んだことは事實だ。志度寺、國姓爺、合邦、妹背山、鰻谷その他の多くを團平に學び、ついに團平補修の壺坂を一代の語り物とした人であるが、大隅太夫が紋下になつた時、それ迄は大隅には座蒲團を敷かせなかつた人だが、一度大隅が紋下に据えられるや、大隅に與え、自分は蒲團を敷かずに、稽古をしたさうである。
 そしてその室には誰も置かず妻女のおちかも退け、「苟くも櫓下に與つた人なら、自分が櫓*古をつけるとしてもその貫錄を持せねばいけない。お前も退つて居ろ」と云ふので、二人だけで稽古をしたと云ふ逸事もあつたとのことだ。
 大隅太夫の話で榮三師は、自分に直接見た話を多く持つて居て、順次に語り出して呉れた。
 「大隅さんの鰻谷に就いては體が寒くなるやうな思ひをしたことがおます。その前に鰻谷を語つた時、お妻はC十郎が遣こしてはつて(最も多く榮三氏にヘへた古老)母と彌兵衞が奥へ入つてから子供に言ふて聞かす所で下へおり、床几に腰をかけ煙草盆で花火線香に火を點け、それであやし乍ら言ふ振りをして居られました。C十郎は人は中々古い方で知らぬことは知らぬと言ふて居られましたが、記憶のよい方でこの花火線香を使ふなぞも昔からきいてある型やらふと思ひます。」
 これも三宅氏の文樂物語に、大隅太夫の妻だつた人が、所謂、惡魔に魅せられたのであらふ。ある時○○○○○をした。大隅はそれをフト知る羽目に出會つた。元來藝だけの人だ。日常無茶苦茶の限りを行つたと云ふ。
 日常が正しくない點で彼は割に世の中に疎んぜられたと云ふ意見さへある位だ。さう云ふ無茶者の大隅が、右の事實を偶然我家の二階に感じたのであつた。
 見る/\大隅は怒りに慄へた。鬼のやうに彼は怒りに相を變へた。正に刄物沙汰に及ばうとしたが、何かの事情か何かの思案の結果か、そこまでは事は進まずに納まつたのであつた。
 
   「實感の鰻谷」
 後でお妻八郎兵衞の「鰻谷」を語る事になつたとき。彼は「よし」とうなづいた。
 そしてそれを床に上すと、實に大變な出來であつたと云ふ。聞く者がその異常な力と熱情に壓倒されて、更に大隅の真價が新らしく人の口に上るに至つた。
 彼曰く「俺の鰻谷はいゝだらう。間男される八郎兵衞は俺でないと本當に語れないぜ。」と、云つたさうである。これを聞かされた大隅に近しい者は、右の○○○○の内情を知る丈に思はずゾツとしてしまつたわけである。
 一言で云ふと大隅の如き、所謂バルザック型である。天才のせゐもあるが義太夫の上で確に何十年、或は百年の中に一人しか現はれぬ人物に違ひない。その異常な人間がこの異常事に出會ふ。そこで初めて傑作「鰻谷」が出來上る。義太夫とは斯う云ふものであらうか。三宅周太郎氏の文樂物語を引用して見ても、この實感を持つた大隅の天才藝の鰻谷は悲壮であつたに違ひない。
 
   重の井に就いて
 畑違ひで我々の方であまり淨瑠璃ものは演らないが、しかし時折、劇中劇で途方もないデン/\物を演らなければならなかつたり、又、所作ものを踊らされたりして閉口することがある。
 私も師匠讓りの「俠艶錄」なぞで重の井の子別れや、紙治の小春、梅忠の梅川なぞ、昔は演らされたものだ。
 一度六段目の千崎彌五郎を演り、勘平の鬘の栓をぬく(髷の根がぬけて腹を切つてから勘平の髪の亂れる仕掛)のがわからなくつて、元結をと云つても勘平は麻で結んであるのだが、それを解いて髪がザンバラになつて、師匠に舞臺で撲ぐられたことがあつた。
 現在では東京に女形が少くないので師匠の重の井なぞ舊派にも一寸ない逸品である。
 師匠の重の井は故人粂八の型であつて、由留木殿館でなく、本陣の奥座敷でやり、「ま一度顔」の件から𢌞つて玄關の敷臺で演るのが、粂八工風の物であることを聞かされた。
 その事を榮三師に話したら……
 「それが本當だす。由留木殿館で演る方が見だてが立派だすさかい、文樂でも花丸の繪襖、塗り柱でやりますが、本文にある『敷臺の段箱に身を伏し』の文章から見てさうでせう……いや重の井で思ひ出して、この間も今度出たら一度それで演つて見やうかと思ふとんだすが、重の井の出に『お乳の人は大高にお菓子さま/\文庫に盛入れしず/\と立出で』云々の個所だすが、大高ちゆうよつて皆大きい高杯と思ひますが、あとのお菓子さま/\文庫に盛入れとありますよつて、文庫に菓子を盛つて、大高と云ふのは高杯でなく紙の名やとわては思ひます。それで思ひ出すのが菅原の傳授場で、源藏が相丞に傳授を受ける時、『大高段紙の位に負け』と云ふ文章がおます。それから見ても大高ちゆうのは紙の名と思ひます故、文庫に菓子を盛り、道中である故旅館のことであり、馬方に渡すにさそくにさうしたんやと思ひます。宿屋で演るのは粂八さんの型だすかそれはおもしろふおますな……」
 私はこれ迄聽てもう芝居へ行く時間に迫られて居るのに氣が付いた。榮三師も樂屋入りの時間なので、私も暇をつげることにした。榮三師は大の天ぷら好きと聞いて、明日天ぷらを兩方の打出し後、相生さんを誘つて喰べる約束して出やうとし、フト先刻入る時、氣が付いた二階の人形のことを訊ねたら、
 「あれだつか。あれは狐だす。浪花女の時使ふた吉野山のものだすが、今迄フランネルで造るだつけど、あの時は兎の毛を手に入れて自分で造つたのだす。……お前一寸持つてお出で……」
 おかみさんを二階に取り上がらして、のぼりの布に包んだ先刻見たのを出して見せて呉れた。
 松王か、それとも文樂にあまり他に使用しない俊寛、或は盲景C? と思つて居たら意外にもそれは自作の狐であつたのに、私は驚いた。でも餘程榮三師はそれに愛着があると見え、
 「これ皆、自分で作りましたんや。尻尾だけ取つて別にしておかんと毛に蟲がつきましてな。」
 別に葛籠の中にあつた尻尾を持ち出し、胴につけて、自分で遣つて見せて呉れた。
 「芝居の方には使ひまへんが、わての方は忠信の出にこれを使ひ、「谷の鶯」の間に上手の櫻に消えると、下から忠信にない*て出ます。」
 襟巻のやうな形に置かれた狐も、一度榮三師の手にかゝると眼光鋭く、胴體、尻毛に迄生命が入つて魂ある生物となつて動く……。私は感心した。
 「狐は初代玉造はんはうまいもんだした。あしたは玉造はんのケレン物に就いて話しましよう。」
 連枝窓から這入つて來る折柄の秋の陽ざしに、その白狐は一際目立つて生き/\と眼が光つた。
 
 人形物語――吉田栄三に訊く (三*) 第十七巻八號 1942.8 pp64-67
 
   舞臺の汗
 私が「瀧の白糸」を打出して、歌舞伎座から雨の中を笠屋町の「o。」へ落付くと、丁度文樂の持役をすませて相生太夫と榮三師が來て、早速天ぷらの鍋前でたべながらの話になつた。
 丁度殘暑のなごりがきびしく、その日の舞臺の暑さなどが、又くりかへされたのだが、水藝なぞ、人目に涼しく見えてかへつて演つて居る當人は引抜く衣裳を三枚も着込んで居るのでたまらないことなど話した。
 しかし舞臺の汗は夏の文樂の流しかたと我々とは大變な相違であり、全く夏場の淨瑠璃の苦勞は大したものである。
 汗のことで相生太夫は故師匠越路太夫の遺訓を話して呉れた。
 越路太夫は決して舞臺で語つて居て汗をかく場合、濡手拭を使用しないと云ふことだ。
 蒸し手拭でも、又、水で絞つたものでも、懸命に語つて居て汗を拭ふ時、熱くとも又、冷めたくとも、顔にあてた場合いゝ氣持ちになる。その瞬間だけ自分に還える。自分にかへつた時こそ、その語つて居る人物を離れてしまふから、その淨瑠璃のその人物でなく、自分自身になるから淨瑠璃がうつろになる。決して濡手拭を使はない、と云ふ話を聽き、いゝ訓*だと思つたのである。
 
   狐の話
 或る時、狐の出る淨瑠璃を西洋人が觀て非常に感心し、その狐を是非見せて呉れと云つて樂屋へ來たのださうだ。
 人形遣の某は、その柱にブラ下つて居る狐を見せたが、どうしても、西洋人はそれでないと云つて承知しないので、止むなく立つて柱から狐を取りそれを遣つて見せた。
 それは舞臺で觀たあの活き/\とした精妙なものになつたので、その西洋人は狂喜して喜んだと云ふことを聞いたことがある。私は初代玉造の話を訊きたいのでせがんだ。榮三師は名人玉造の話を始めた。
 
   「初代玉造の逸話」
 初代玉造はんは全く名人だした。あてら親玉ちゆうて居りました。子供の頃龜吉ちゆうてお父はんは吉田コ藏と云ふお人で、十一歳の折(天保十年)竹田の芝居(今の辨天座)に子供の太夫の繰*り芝居があり、父にせがんで、初出勤したのやそうで藝名がないのでお父さんに付けて貰おうとしたら、お父さんは「お前は顔が圓い故玉造はどうや」その即妙の當意が、その名となつたとの事でおます。
 子供時代から苦勞して働いたさうでおますが、なか/\役もつかん。その一座が、四國へ出稼ぎに行つた時先代萩が出て、子役の鶴千代が振られて喜んでると、千松を使ふ人形遣が納まらず「玉造見たいな新米の鶴千代では千松は使へない」と云ふので、玉造はい/\ろ*とョんで見たら、座の雜用の辨當がすくなくて足りぬから、お前の晝飯をくれろと云ふので仕方なく、それをその人形遣にやつて自分はその遣ふ鶴千代以上の空腹をしのんで御殿を勤めたちゆう有名な話がおます。
 子供の時分からさうした苦勞を藝でしてた人やよつて、なか/\負けん氣の勝つたお人で、その時代の役者の大立物、尾上多見藏はんの藝風ととてもよう似て派出な、血の氣の多い人だした。
 名人の小團次はんがまだ大阪で米十郎と云つてはつた時、「傾城反魂香」を出しやはって、その切に「畫ぬけ」大津繪の鷹匠と藤娘。濡場から雷となり、瓢簞鯰になる趣向の所作事に、もうその頃宙乘り物や仕掛物で名の出て居た玉造はんに智恵を借りてはと云ふ竹田(タケダ)の芝居の方から注文がおましたさうでんね。
 米十郎はんも何せ後年の小團次となる程のお人だすよつて、「玉造に何が出來るものか」と云ふやうな意味で、人形遣を輕蔑しやはつたことが玉造はんの耳に這入つたので「芝居の元祖は人形だ役者に何が出來る」と云ふやうないきさつがあり兩方で衝突しましたんや。それで、玉造はんは文樂で座主に掛合つて米十郎の芝居と同じ、「畫ぬけ」の所作を一緒の初日で出したんやそうだす。この二人の負けん氣の競爭は、親玉はんの勝やつたとのことだす……。不器用な人形でも工夫次第でどない器用なことも出來るもんやと云ふ評判を取り、文樂の早替りも一つの名物に迄なりましたいやさかい、玉造はんと云ふ人は偉い人だす。今、あんさんの話してはつた狐なぞも、全く玉造はんが使はつたら~技だすよ。何んせその當時は動物園なぞなかつた頃だすよつて、往來に居る犬を見てトテモ硏究しやはつたさうで、犬と狐と違ふとこは犬よりも狐の方がコセ/\してキヨト/\し居る動作をよく見てはつたんだんな、わての見て目に殘つて居るのは、玉藻前三段目「櫻壺の奥庭の場」で劔の威光に恐れて玉藻の前に惡狐が近かよれない。その狐の遣ひかたなど全くいまだに忘れられんもんだす……。
 紋十郎はんと親玉はんとで使ははつた「二人八重垣」の奥庭も、狐になつてからは親玉はんが一人で使ははつた位、親玉はんの變化ものは見事のもんだした。
 しかし、狐で一番派出なものは何んちゆうても、十種香の奥庭でんな。これは芝居の方でも早替りが一つの賣物となつてますが、人形の方が物が不器用なだけ、歌舞伎役者がするよりかへつて手際よくも見へます。
 ほんでに。親玉はんの使ふ四の切りの型にわての工夫を入れてやるいろ/\の仕掛がおますが、それは、又ゆつくり話をします。
 私は不器用な人形がかへつて人間の役者がする早替りより、鮮やかに見えると云ふ言葉に打たれた一人で、演ずる役者よりも三人で遣ふ人形が手際がよくゆくと云ふ點、それは並々ならぬ工夫があつてはじめて効果のあがる手練であるからだ。
 榮三、相生の兩師の話を聽きたがつて、そこには私の家内の妹分である南の若い妓達がはんべつて居た。又それでなくとも、そうした~聖な藝の話を物を喰べながら訊くのはこの上もない非禮であるので、その話は宿題にして、桐竹紋十郎の話をして見た。
 
   紋十郎と人形の怪
 私の映畫初出演「殘菊物語」を一昨年、京都の撮影所で溝口君の演出で撮つて居た折、菊之助の大阪時代のことをよく知つて居る先代紋十郎のおかみさんが、殘菊の中村芝翫に扮する嵐コ三郎さんのお母さんであつて、菊之助が松幸時代、大阪で苦勞して居た當時のことを種々聞いて參考にしたことがある。このお母さんは現在でも健在で、コ三郎さんしきりに孝養を盡して居る。その先代紋十郎夫人の話を聞いてるうちに、紋十郎製作人形の怪談があり、その人形を見せて貰つた。
 それは先代紋十郎が或る夏休みに北の新地に若力と云ふ、愛人があり、芝居の無い間のつれ/\に線香を練つて造つた「おやま人形」が、愛人の悌を寫して妙を得た逸品が出來上つた。そしてそれを愛人におくつたことは云ふ迄もない。愛人はこよなくそれを慈しみ、大切にしてお染*の衣裳を着せ。秘藏して居たさうである。
 そのうち紋十郎は死に、その愛人も亡くなつた。そのお妾さんのことは夫人も又コ三郎さんも知つて居たさうであるが、その後何十年か經つて、大阪の堂島裏町の古道具屋が、そのお七の人形を抱えて不氣味な顔色で紋十郎夫人の處へ持込んだ。それは、そのお七の人形が道具市に出て居た。あまりいゝ作なので買つて來て店へ飾つて置いたのださうである。
 店へ出すと直ぐ賣れた。と一ケ月ばかり過ぎてその客が返しに來た。「まことにすまないが引取つて呉れと云ふのだ。引取つて店にそれを置いておくとその内賣れた。それから一週間程すると又返へしに來る。そんなことが五六回續いたので、その道其屋も氣になりだしたので、最後に持つて戾しに來た客に聞いてみるとその客の云ふのには、
 「家へもつていんで飾つて眺めると、どないしてもその人形が恐しい顔しをるんだがな。それでどないにも恐(こおお)て置いてけへん」そ云はれて見ると成程恐い顔だす。ほんでに、仲間を訪ねて賣つた出處を調べましたが、皆目分りまへなんだ。やつと若力はんの所からと分つても二十年程以前のことだすよつて、それからそれへと訪ねたあげく、お宅はんが紋十郎はんのお宅やちゆうこと訪ねて持つて上りました。どうぞ納めておくれやす。
 道具屋はホツとしたやうに件の「お七人形」をコ三郎さんの處へ置いて行つたのださうだ。勿論、紋十郎夫人はなにがしかの人形の金を、その道具屋に支拂つたことは云ふ迄もない。さて問題の人形は巡りめぐつてその作者の家族のもとへ戾つた譯である。
 紋十郎夫人にしてもコ三郎さんにしても夫なり父の作の、よしんば、それが愛人におくつたものであつても、故人の丹精をこめて作つたものであれば懷かしみこそあれ、その人形を恐がる譯でない。
 私はそのだんだら染の鹿の子の着物を着たお七を見せて貰つたが、別に道具屋や、その買つた人達の様に恐はい氣がしなかつた。落着くところへ納つてむしろ、ゆつたりとした、そして安心しきつて居る様な表情をそこに見出した位である。
 要はその人々の心持一つでその人形の表情が變るのであるまいか…。私は文樂の人形の出遣ひのそれに比べていさゝか小ぶりのそのお七のいぢましい美しさを、しみ/\と眺めたのであつた。
 
 人形物語(4*) 第十七巻九號 1942.9 pp 94-97
 
   「初代門十郎のこと」
 初代門十郎は人形淨瑠璃の元祖淡路島鮎原の出身。二代目も淡路の人で中田村出身で大阪へ登り、桐竹と云ふのはその姓であり、正コ元年(三百年以前)の家元で女形遣ひの家元である。
 二代目門十郎は始め大阪に居て認められず上、*京して藝を磨き、忠臣藏九段目のおりんを勤め、それが認められずば人形遣ひをやめる決心をして、その女形のちやり遣ひを硏究してついに成功し、名をなして大阪へ歸へり、門を紋に改めて紋十郎の初代となつた譯である。
 初代門十郎、二代紋十郎共に淡路出身の人形女形遣ひの名手として知られ、紋十郎は吉田辰次に比べて世話がゝり、寫實な演出をして一家をなした。玉造と共に明治時代のをやま遣ひの名人で他に立役にも秀でた大立物であつた。明治四十三年八月十五日歿。
 玉造、紋十郎の話に夜は更けたので、一先づqCを出ることにした。
 宵の間の雨も蒸し暑かつた爲めであつたらうか、戸外へ出 て見るとさすが九月半ば、寝靜まつた町家は、どこも戸を閉ざし、笠屋町のアスハルトの上へ冴え/\とした十五夜の月が皎々と光りを投げて居る……。
 「天ぷらを喰ふ間に晴れし時雨かな」
 久保田さんの句にこんな實感のある句をフト思ひ出した。
 相生太夫は周訪町なので、八幡筋で別れた。私と榮三師は二人並んで東へ歩き出す。家内と妹は二人の話の邪魔にならないやうにあとから從いて來たらしい。
 「天ぷらを喰ふ間に晴れし時雨かな
 成る程、俳句ちゆうもんは、何んでも無ふ詠んで居てチント*その気分が出ますな。わては發句をよう詠みへんが、あんたはやらはりまつしやろ。」
 自分も二十代にその頃の句樂會小山内、久保田、吉井、長田、服部、落合、結城、岡村、なぞと云ふ玄文社(新演藝發行者)連に可愛がられて、門前の小僧式にその運座に列して居たことがある。
 その後大震災でショックを受け、そうした詩想が枯れてしまつたが、現在でも時々、駄句を作つて居るので、それを話しながら堺筋の電車通りを越した。赤電であらう、まばらに乘つた人影を難波の方ヘレールを響かせて走り去つた。
  終電のつれなくすぎぬ夜半の冬
 小山内先生の句である。
 「終電のつれなく過ぎる、なる程、さうでんな、あてらの若い頃は電車はなし、どこへ行くにも歩かんならん。文五郎はんなぞ、住吉から松島の文樂迄毎日歩いてかよつた。何せその時代は、六時には芝居が開きますよつて、もう五時には小屋へ入つておらんと用事が出來(でけ)しまへん。そやよつて、住吉近くの家やつたら、夜中に家出んことにはあきまへん。部屋へ行つて火をオコしてお湯わかし、部屋の掃除や人形の世話してるうちに冬場は夜があける。それからボツ/\他の役者はんが來やはる時刻になるちゆう譯で、電車のやうな便利なものはおまへなんだ。」
 私は自分の經驗で役者になつた十六の年、打出しが初日はどうしても十二時をすぎる。時によると午前一時半頃になる時もあり、見物も勿論歩いて歸へる譯だが、私共下𢌞りは、それから部屋を片附けて居ると二時を過ぎる。新富座に多く新派がかゝつて居たので、本郷の天~下迄歩くと二時間はどんなに急いでもかゝるので、家へ着くのが五時にはなる。九時から學校が始まるので二三時間しか眠られない經驗はある。
 「あての時代は歩かんならん。貴方は電車、近頃の弟子達は自動車。だん/\世の中が違うて來る。文樂も若い者が皆轉業する者が多くて困ります。又辛抱しとる者は應召されてお國の爲めに働きに戰地へ征く。近頃はテンとあとから人形遣ひになるもんがおまへん。これでは文樂も私(あて)等が死んだらドナイなることか。まア/\自滅するより他ありませんな。近頃のやうな世の中では人形役者になつて十年も足遣ふなんて、根気のある者はまアおまへんやろ……。」榮三師は月に向つて、文樂の行末を嘆じ、一つ二つ咳をした。
 片側の暗い家並からキリギリスの鳴く音がする。冷え/\とした風が水のやうに二人の頬を撫ぜて行つた。
 たゞみれば、何んの苦もなき水鳥の
   足にひまなき、わがおもひかな
 やんごとないお方の歌を引例にしては申譯もないことではあるが、太夫、三味線、人形遣の右左共に觀る人に、その巧拙がわかるだけでも報はれる點はあるけれど、その中で足遣の人程世にむくはれぬ者もまアあるまい。
 水鳥の水に浮かんで居るところは眞に悠々とした姿であるけれど、水に隱れた足は常に休む暇とてなく働くのである。
 舞臺の上で喝采された役者の板一枚下の奈落では、幾人かその𢌞し舞臺をまはす人達が居る譯だ。それ等の人達の陰の助力があつて始めて舞臺の役者が生きるので、一つの人形を操る中で足遣ひの人程、世にも報ひられぬ者はないのである。
 
   「足遣ひ拾年」
 足遣ひに及ぶ迄に人形役者の修業は、出道具をそろへる者又横幕の出入にかゝる者、それ迄二三年は見習ひ中にさせられる。何んでもなく見ゆる人形の動きも頭、と右手を主役の役者がつかふ他左手遣ひと足づかひの三人が一體になつて一人の人形を操るものだけに、その三人が呼吸が合ふ迄には實際なみ/\ならぬ苦勞があるのだ。
 電車通りを東に鍛冶屋町筋迄丁度來かゝると、榮三師は思ひ出したやうに、
 「あてが初舞臺を踏みましたのは、この筋日本橋北詰、ほらあこに見えるこんもりとした大きい楠がおまつしやろ。あこに松島の文樂の小さいやうな「澤の席」ちゆう小文樂と云はれる人形芝居がおました。明治十六年六月に柿葺落(こけらおとし)の芝居で染太夫(越路太夫と覇を爭つた名人)春子太夫(後大隅太夫)源太夫(先々代)朝太夫、三味線は廣助(松葉屋)(後越路太夫の三味線)新左衛門(初代)、人形は吉田辰五郎(三代目)東十郎、小花造(後三吾)駒十郎(後四代目辰五郎)はん等の一座で、狂言は太功記の通しに御祝儀三番叟、布引の四段目だした。あては光榮ちゆう名で出ました。
 柿葺落しの番附を見ますと「宗祇坊」や「三法師丸」の役がついてますが、なか/\初舞臺からそないな役つかへまへん。役どころか足も遣ひまへん。横幕(上下の揚幕)の開けしめ、蓮臺(人形舞臺で小道具を置く臺)の出入れ、舞臺の下駄を揃へたりするのが役だした。
 丁度五六日目の事やつたと思ひます。豐松東十郎はんが三番叟を遣つて居られ、最初四人上段で構え動きになつて船底(人形の舞臺は上下二段になり、その下の方の舞臺)へ降りしなに舞臺下駄を履かれたのだすが、下駄を揃へる役がわての役目だす。それをうつかりしてまして、右左を間違へて(舞臺の人形遣の下駄は左右に印がつけてある)揃へました。
 するといきなり船底に蹲つて居るわての向脛をぽーんと蹴られました。その修業の嚴しさ、今とはてんと比べものになりまへん。」
 三宅周太郎先生著の「文樂の硏究」の人形遣さま/\に依ると「玉造の弟子現文樂の頭取、玉次郎十七歳當時の話に、攝津大椽の阿波の鳴戸で十郎兵衞を使つた當時である。その捕物の立𢌞りで玉造は珍らしく本身の刀を使つた。その時玉造の足を使つて居た。とある日立𢌞りで間を外した事があつた。すると玉造は舞臺でぽんと刀で玉次郎の頭をなぐつた。
 幕が閉まると頭の後ろが血まぶれである。それを直に玉助の後の二代目玉造が見兼ねて玉造に注告した。いくら嚴格にするとは云へ、頭を切るのは少し手荒いと云つた風に述べた。と、玉造はカツと憤つた。そして玉次郎を呼びつけ、「それ位の折檻は當然だ……さう云ふ辛抱が出來ぬのなら、二人共破門する」と迄云つた。
 玉助と玉次郎とはあべこべに恐れ入つてお詫びをする外なかつた。かうして玉次郎の頭の疵は、實に舞臺での叱正によるものなのである。所が、一方吉田辰五郎に仕へた榮三も同じ十何歳の少年時代であつた。
 彦六座で辰五郎が「安達」の「貞任」を使つて居た。榮三はまだ足も持てずにツケを打つて居た。と、貞任の見得の度に榮三の打つツケが巧くいかない。子供ながら榮三はひどく苦しんで居た。併し辰五郎は何も云はない。樂屋へ入ると、お前のツケの打ちやうは間違つて居る、が、その中にイキが分つて來るだらうと云ひつつ舞臺では榮三のツケに合はすやうに辰五郎の貞任の方で乘つて行つたさうである。……とあり、明治期の二人名人のゆきかたの相違が記るされてある。
 私が去年(昭和十六年七月新橋演舞場所演)の前申のべた通り小鍛冶を榮三師が遣つた時、弟子の榮三郎が足を使つた。その足のうまかつたことを話をしたら榮三師はニヤ/\して居た。左使ひばかりして左使の名人も居れば、又、足で終る人もある。兎に角足遣ひだけで十年以上修業を固めなければ、人形遣ひとしての修業は一人前に缺ける譯になる。
        (この項つづく)」
 
 
 人形物語(5*) 第十七巻十二號 1942.12 pp 88-92
 
 足遣ひ拾年。まつたくそれは、何にもある拾年の基礎工事で、すべての職業には必ず要する修業期間。その苦勞をおこたる者にはいくら天分があろと才氣ばかりでゆかないものがある。それが大事で、何事にも一人前になる土臺となることを忘れてはならない。
 足遣いの話をして居る間に二人はいつか高津への往來を東に、瓦屋橋を渡つて居る……東横堀の眠る家並に灯の影もなく、まだ拾二時頃と思ふのに事變以前の眞夜中のやうな靜けさだ。
 私はいつも大阪で「東京へ歸へる次興行」の稽古になると一人ブラ/\臺詞を覺えながらこの邊を歩く癖がある……おととし歌行燈の喜多八の臺詞をおぼえた時、河面をすれ/\に一匹の螢が飛んで來た。私が浴衣の袖をかざすと、そのまま入つた袖を大事にかゝえてその幾つかの橋を渡つた。二三時間して、どうやら臺詞をおぼえたので宿へかへつた。
 寝やうとすると家内が脊中で何か光ると云ふので氣がついたのだが、螢は私の脊中で光つて居たのだ。それで、宿の窓から螢を闇に放つてやると、丁度お三重の魂のそれのやうに生魂の方へ飛んで行つたことがあつた。
 今夜は闇夜ではない。晴れた月である……二人寄添つて歩く影の、話が熱して來るといつか影は一つになる。そして一と區切りすると二つになる。つばのない法印帽の榮三と中折の私の帽子のすれ/\にからんで行く様は、まるで戀人同志が人目を避けて夜更けに語るやうにも見えやう……。
 蟬は雨のやうに繁く鳴くのである。
 藝ごとに限らず、何事にも修業中のむづかしさ嚴しさはある。しかし文樂の太夫、三味線、人形、この三業の修業程年月を要するものは無いと云つてよかろう……。
 馬場孤蝶先生の「明治の東京」の中に義太夫のくだりがある。
 先生壮年時代に東京で越路太夫(攝津大椽)を聽いた話の巻末に、竹本長門太夫が弟子を仕込む話があるが、なか/\おもしろいので挿す入*る。
 「これは大阪の人で、よく義太夫の事を知つて居る話だが……義太夫をヘへて本當にそれを仕込もうとするには、同じ一段をいつ迄もヘへるのがいゝと云ふのだ。唯無闇に數だけあげても何んの役にも立たないものだ。一段中に現はれる人物には、老人もあれば若いのもある。男もあれば女もある。それに性格の違つたものもいろ/\出て來る。さう云ふものの語り分けを一々ハツキリやるやうにして、同じ一段を繰返ヘすうちには、その眞の呼吸を覺えて、他の者が自(オノズ)と語る事が出來る様になるのだ。
 攝津の大椽が若い時に弟子入りをした師匠が、一年間も寺小屋が何か一つものばかりを攝津にヘへて居た。攝津の家の者等も流石に變だと思ひ、家の子が何んぼ不器用でも、いつも一つものばかりはヒドイ、それは先づ大抵で上げさせて、他のものをヘへてやつてくれ、と云ひ込んだ。ところがその師匠が、でも當人が平氣でやつて居るからよいではないかと云つたので、それなりになつたと云ふ話がある。
 僕は其の道のものでないから、果して義太夫のヘ授法はさうなければならないものなのか、何うなのか、その當否は知らないのだが、それに就て甚だ面白い話がある。
 何代目の長門太夫であつたか、紀州の龍門か何處かの温泉に湯治に行つて居た。處が毎日その宿の前を馬子歌を歌つて通る一人の馬子があつた。その聲が如何にも美音であつた。長門は、それに聞き惚れて了つて、或時その馬子を自分の室に呼び入れた。そして、
 「お前の聲は實に善い聲だ。何うだ、おれの弟子にならないか、さうすれば日本一の太夫にしてやるが」と云つた。が馬子は、
 「私には老年の母親がある。それを見送らない中は、何うしても此の土地を離れる譯には行かない。折角だが、貴下の弟子になる譯にはいかない。」と云つて斷つた。それを聞いた長門は、ひどく失望したのだが、爲方がないから「イヤ、それは道理だ。さういふ譯なら何も今に限つた譯でない。おッ母さんを見送つたら、其の時來て呉れ。」と云つて、そのうち自分は大阪へ歸つた。
 すると一年ばかり經つて、その馬子が長門の許へやつて來た。「いよ/\母親を見送つたから、兼ねての約束どほり弟子になりに來た。」と云つたので、長門は喜んで家に置いた。御承知の通り、藝人の内弟子といふものは、たゞ藝を稽古するばかりではない。
 いろ/\な勞働もすれば、また家の雜用にも使はれるものだ。この馬子であつた男もさういふ習慣の下に、義太夫を習ひ始めた。先づ、一段の稽古は終つた。處が始終その一段の稽古ばかりやらせられて居る。三年間、その一段より他一つもヘへて呉れない。さすがにその男も考へだした。此様な鹽梅では、十段覺えるのには三十年以上かゝる。二十段覺え.るには六十年の餘も掛る。そんな事では、到底日本一の太夫どころか、普通の義太夫語りにもなれない譯だ。斯う思つたから、或る日長門の前に出て義太夫語りになるのはいやになつた、田舎に歸つてもと/\通り馬子をし度い、是非暇を呉れと云つた。聞いた長門はひどく失望して、いろ/\なだめすかして見たけれども何うしても歸ると云つて聽かない。で爲方がないから幾らかの旅費をやつて田舎へ歸す事にした。そこで當人は大阪から草鞋がけでテク/\歩き出して、泉州岸和田の近邊まで來ると、日がとつぷり暮れた。あたりに旅屋はない。爲方がないからその邊の大きい家へ行つて、旅のものだが納屋の隅でも宣いから泊めて呉れまいかとョんだ。所がその家の者が云ふには、眞にお氣の毒であるが今夜は少し家に取込があるからお泊め申す譯にいかない、と云つて氣の毒さうに斷られた。けれども此方は他に泊めて貰へようと思ふ家も無いのであつたから、また押し返してお取込は何ういふ事か知ら無いが、別に食べるものも頂かんでも宣い、ただほんとのお納屋の隅でも宣いのだから一夜過すだけの許を得度いと、折入つてョんだ。すると先方の云ふには、いやさういふ譯ならお泊め申しませう。實はこの邊は淨瑠璃の流行る土地で、今夜は家でその會をするところだ。それで何うもお泊め申しても何んの御世話も能きまいと思ふからお斷りしたのだが、それさへ御承知なら……といふのであつた。聞いた此方は、私も實は淨瑠璃は好きだ。さう聞いては臺所の隅でなりとも伺ひ度いと云ふと、先方でも、それは何うにかしてお泊め申すことも出來るし、粗飯で宜ければ差し上げることも能きる。たゞ混雜でお氣の毒だと思つてお斷りしたのだ。さういふことならまアお上りなさいといふ事に成つた。そこで少し待つてゐると、村の天狗連がだん/\集まつた。三味線を引く者は、大阪で本職になりそこねたといふ様な男で、その邊の師匠をして居る者であつた。やがて會が始るといふ時になると、旅の男は私も義太夫を少しやつたことがあるから今夜やつて見度い、併し皆さんにはとても敵ふまいと思ふから私が前座をやると云ひだした。
 妙な武骨げな服装もみすぼらしい男であるから、其様な男に義太夫が語れさうにも見えなかつたので、一同はほんの座興位にと思つて「ではおやりなさい」と云つて三味線引の師匠も迷惑さうな顔をして撥を取つた。すると旅の男は、三年掛つてやつと一段しきや覺えられない様な無器用な自分だから、田舎へ歸つてまた元の馬子になつて了つて義太夫のことなどは噯氣にも出すまいと思つて居るのだが、それにしても一遍は人の居る所で語つて見度くもある。所で素人の間ならば何れ程下手でも恥にはなるまいし、而もこゝは旅だ、よしやつてみよう。後にも前にもたゞこれ一遍といふ心算で見臺に向つたのであつた。一、二行語りだすと、先づ三味線引が驚いた。苦しいことは夥しい。やつとのことで畢生の力を奮つて附いて行つた。やがて語り終ると一座感に堪へて何んとも云ふ人がない。さアこれから皆さんのを伺ひませうと、その男が云ふと、暫く一同顔を見合せて居たが、家の主が座を進めて云ふのには、貴下の淨瑠璃には全く感服して了つた。もう貴下のを聞いては私ども誰も後でやらうといふ氣になれない。眞に恐れ入つた。もう一段何か聞かして下さらんかと云つた。馬子の先生大いに閉口した。イや眞にお恥しい譯だが淨瑠璃はこれ一段しきや知らないのだから、と云つて斷ると、主人が、貴人程の上手な方がたつた一段しきや知らぬといふのはあるべき事でない。冗談を云はずに聞かして下さいとョんだ。けれども此方では實際一段しきや知らないのだ、と云ふ。其様なら何卒今のをもう一遍聞かして呉れろといふことになつて、同じものをもう一遍語つた。語り方の正確なこと、前に語つた時といはゆる符節を合すが如しで寸分違はない。それで一座ます/\感服して、何うして貴下程の上手が一段しきや知らないのかと尋かれたので、その男は實は私はこれ/\の仔細で長門の弟子になつたのであるが、三年經つても一段あがらない。考へて見ると三年に一段では十段覺えるに三拾年かゝる。今私は二十位だから十段覺える時分には五十になつて了ふ。それでは日本一の太夫どころか、もぐりの義太夫語りにもなれない譯なのだから、もう廢めて田舎へ歸る心算で、此處までやつて來たのだと云つた。
 一同其の話を聞いて、それは殘念な事ではないか。長門程の人が貴下をさういふ風にヘへたのは、何か考へがあつてからの事に違ひない。何んでももう一遍大阪へ行つて辛抱して見てはと勤めた。「いや眞平御免だ。朝から晩まで其處らをふき掃除したり、湯呑に湯を汲むといふ事許りやらせられて、淨瑠璃は三年に一段と云ふのでは、とても遣り切れない。私は何でも田舎へ歸ると言つて聞き入れない。けれども一座の人々は、それは内弟子で何でも彼でも身の𢌞りのことを一切向ふで世話に成るから、さう成るのであろう。貴下の様な名人が此の儘田舎に埋もれて了ふのは實に殘念だ。私どもが醵金して、そんなに苦しくなく修業の能きるやうにしてあげるから」と云ひ出したので、たうとう納得して長門の處へ歸つていつた。すると長門は非常に喜んで、「お前は慥に日本一の太夫に成れると俺が見込んで世話して居たのに、いやになつて歸ると言ふから爲方無しに歸したが、殘念で堪らなかつた。善く歸つて來て呉れた。」と云ふので一層力を入れてヘへてやり、初め一段に三年も掛つた事であるから、後は何でもどん/\あがる様になつて、たうとう非凡な藝人になつた。長門太夫は其の男に綱太夫といふ名をつけてやつた。
 馬子に因んでつけたであつたのだ。」
 是れが初代の綱太夫に就いての言ひ傳へだ。一段を三年かかつてヘへた長門太夫の話はよく文樂の修業のきびしさを物語るものと云つてよかろう……。
 私は菅原なぞを見ると菅相丞の人形が特に大きく見える氣がするので、それを訊いてみた。
 「相亟さんの人形は束帶が大きいので大きゆう見えるんだつしやろが、別に人形が大きい譯やおまへん。しかし人形の動きの間を十のものなら六七ぐらひの割で使つたらその人形が大きう見えるもんだすけどそれも太夫次第だんな、太夫の語り口で大きい人形も小さく見えますし、普通の人形も小さく見える、そこが藝だす。」
 これは桐竹門造氏から訊いた話だが、この間死んだ紋下津太夫の鮨屋で梶原を使つたが「己れ最前」の件で下から上手へまわつて行く件で、その間の語り口の大きさと間が長いので胴串(ドグシ)でさゝへて居る間の重さつたらなかつたこ。しかしその後どの太夫が語つても、その半分も間がもてず、又その重さも感じられなかつたと云つて居た。
 榮三郎はボツ/\話をつゞける。
 「立役の人形でむづかしいのは由良之助だんな。殊に七つ目の蛸魚のくだりがむづかしい。二枚目でむづかしいのが茶屋場の治兵衞、あまグニヤ/\したらいやらしい。又固くてもいかん、あての治兵衞は魂ぬけトボ/\の出の氣ぬけの歌舞伎の型でなうて、早足に出ます。荷賣屋で小春の噂を聞き、河床*に居ることを聞いてやつと居處のわかつたことに性根をおき、早足に出ます。をやまの人形はあまり寫實に使ふといやらしくなる。人形が人間の眞似したらいきまへん。
 人形でも人間のこと位出來まつせと云ふやうな「へんねし」をもつたら、藝がくどうなつていやらしいもんだす……。」
 この一言には全く參つてしまつた。
 人形が人間に「へんねし」をもつたらいかん。人形が必要以上の寫實を見せることは隋落である。をやま遣ひのよくおちいりやすい缺點を、見事に衝いた一言で味はうべき話であると思ふ……