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 【 こたま 野沢語助 】

七、野沢語助 こたま

倉田喜弘編 東京の人形浄瑠璃 p339-349

 

  当年七十一の高齢なれども、尚太棹を把って、鱗連さては髭組など云ふ、素人連の稽古を為し、面白くも亦可笑く、幾(いくば)くもなき余命を楽みてけり。そもや壮時は什麼(いかが)なりしか。名声洽(あまね)く都下に響きて、凄まじき計りの大繁昌を極めたりしなり。今其経歴を記し来れば、趣味津々として掬すべく、且つ越路、団平輩を評するに至りては、言々句々、真に斯道の針[石+乏](しんへん)となるべきものあり。努(ゆ)め疎かにな見過し玉ひそ。

 

 モウ斯様(こんな)に頭が白くなっては、駄目でございます。併し当今浄瑠璃が繁昌致しますので、髯のある先生方のお頼みに任せて、未だに三味線を放しませんです。何(ど)うも物好きなお方もあったものでございます。私は惜い事には江戸の生れでございません。大坂……今では北区と申しますが、中ノ島常安町で生れました。文政十一年でございますから、余程古いもので……。本名を為三郎と申しますが、阿爺(おやじ)は成瀬松二郎と云て、播州加古川より大坂に移り、中国の御大名方の江戸参勤交代の折に、お陸尺(ろくしやく)平人足など納める事を、営業(なりあい)と致して居りましたから、乾児(こぶん)は三百人以上もございまして劫々(なかなか)巾の利たものでございます。此家(ここ)で育つたに依て、随分悠長でございました。

 其頃諸芸人が出入致しましたが、中にも竹沢竜蔵と云ふ浄瑠璃の三味線弾が、始終入り浸って居りまして、何がなしに頻(しきり)に三味線の稽古を勤めます。私も固より好きな道でございますから、何時となく弾き始めますと大きに筋(すじ)が宜(い)いと云て、膏(あぶら)を掛けるのか褒めて呉れるのか、兎に角感ずつた様子で、力を入れて稽古致しました。是は恰当(ちようど)十六歳の時で……、始めて撥を把つたのでございます。

 栄枯盛衰は世の習はしと申しながち、弗(ふ)とした事より負目(おいめ)となり、斯くも繁昌を極めました私の家も忽ち分産するやうな始末となり、昨日に変る今日の状(さま)は、紙衣(かみこ)を着ぬ計りの零落方(おちぶれかた)でございます。スルト竜蔵が哀れに思ひまして、若旦那:….、斯うなるも皆な前世からの約束で、何うも致し方がございません。したがマア以前の事を想ひ出しますと、私でさヘツイ涙が翻(こぼ)れます。嘸御不自由な事……、エツ滅相な、泣て居ては御相談申す事が出来ない。モシ若旦那…。私もお宅さまには、一方(ひとかた)ならぬ御贔屓を受けましたからには、万一(まさか)の時には御恩返しを致し度いと、日頃心掛けて居りました。何事も相談でございますが、何うでせう若旦那・三味線弾にお成りなすつちやア……。サヽヽ驚きなさるは御道理(ごもつとも)でございます。斯う申しちやア失礼でございますが、貴郎方(あなたがた)のやうな繊弱(かよわ)いお方にやア、迚も骨の折れる事が出来るものでございません。それから見ると、芸人は至極呑気なもので、…、殊に貴郎の三味線なら、何処でお弾きなすっても、少しも差支へはございません。私が屹(きつ)とお引受け申しますから、一番三味線弾になって御覧なさいと、親切に勧めます。そこで私も其気になり愈々竹沢竜作と名乗って、三味線弾となりました。芸は身を助けるとは、能(よ)く云(いつ)たものでございます。慰みがてらに稽古致したものが、万一(まさか)の時の用に立たうなどゝは、一向夢にも存じませんでした。〔七月八日〕

 其頃の評判では、竜蔵が名人と云はれました。竹本山城掾を弾いて居たに依て、差詰私も此一座に加はりました所、山城掾は大層引立てゝ、何や角(か)と親切に世話して呉(くれ)られました。斯人(このひと)も大した名人で。当時(いまどき)見度(みたく)ても、斯(こん)な太夫はございません。漸(ようよ)う芸人の仲間入を致して、是から腕を研かうと云ふ矢先に、肝腎な世話人竜蔵が、弗(ふ)と病の床に着きました。格別の事もあるまいと思って居た所、次第/\に重くなり行き、到底(とても)存命は覚束なく見えますから、私も一方ならぬ世話を受けたからにやア、死水を取ってやらうと思ひ、力を尽くして看病致しました。思ひますれば実に心細い訳で……。斯丈(このひと)が亡くなったら、三味線弾として一本になる事が難かしいと、偏(ひた)と胸を塞いで、見るともなしに竜蔵の顔を見ますと、竜蔵も落ち凹んだ凄い眼に、涙を湛えて□乎(じろり)と見詰め、痩こけた繊細(かぼそ)い腕を伸し、力の限り私の手首を緊乎(しつか)と捉へまして、蚊の鳴くやうな沈んだ声で、竜作……ではない若旦那。斯(こ)様に貴郎(あなた)の介抱を受けるなんてへ、勿体なくて涙が翻(こぼ)れます。此儘死んでも外に思ひ置く事はございませんが、心に懸るは只だ貴郎のお身上計り……。私が存命であるならば、屹とした芸人に仕立てませうが、アツ口惜しい……。私(わし)が死んだ後は、三代目吉兵衛を私ぢやと思って、一生懸命に稽古なし、遖(あつぱ)れ名人となって下さい。是計りが現世(このよ)の願ひ。若旦那……、必ず忘れてはし下さるな。アツ苦しい……、と最期(いまわ)の際に呉々も言ひ遺して、いっとはなしに往生致しました。

 私も実に親共を亡くしたやうに悲しうございました。形の如く野辺の送りを済した後、扨て遺言の通り吉兵衛に就て、稽古致さうと思ひましたが、折柄吉兵衛は江戸表へ下って居りますから、そこで江戸へ出掛けやうと、決着致しました。スルト勝右衛門と云ふ三味線弾も、一緒に出掛けたいと云ひますから、両人(ふたり)共々大坂を立出で、東海道を遙々と江戸へ下り、吉兵衛の許を尋ねて、竜蔵が遺言の次第を述べ、愈々弟子入を仕(し)て、野沢吉之助と改名し、竹本春太夫の一座に加はつて、二枚目を弾くやうになりました。

 其中に思ひ掛なき一大椿事が出来(しゆつたい)致しました。其訳と云つぱ、大坂から竹本大和太夫と云ふが下って参りました。斯(この)人は滅法声が好くて、頗る美男であるから、彼地(あちら)(大坂)では大した人気者でございました。此相棒を兄弟子の勝鳳が勤める約束でございました所、大和は兎角嫌ひまして、何でも私に弾せたいと云て頻(しきり)に迫りました。尤も私は売出しの当時でございましたから、大和も眼を注けたものでございませう。又た私も大和ならば弾きたうございます。併し勝鳳とは兄弟々子の中であるから、義理として容易に弾く事は出来ません。何うしたら宣いか知らと、種々考へました末、指を痛めたと言ひ瞞(くる)めて、体(てい)よく春太夫の方を断り、予て御贔負を被る新宿の京屋宇右衛門方で療治をすると云て、、一時同家へ引籠りました。是からが大騒ぎでございます。〔七月九日〕

 私が大和太夫を弾くと云ふ事を、勝鳳を贔屓する四ツ谷伝馬町の斉藤屋の主人が、不図聞込んで大に立腹致し、直ぐさま師匠吉兵衛の許へ掛合に及びました。併し師匠も斯様な事とは、夢にも存じません。只(た)だ私が指を傷めて、退(ひ)いた者と、心得て居りますから、ナニそんな事はあるものかと、ニべなく刎附けました。ところが斉藤へ出入する鳶の者共は、私が新宿の京屋に隠れて居る事を嗅附けまして、何でも吉之助が弾くに違ひねへから、此儘打棄(うつちや)ちやア置かれねへ、京屋が彼奴(きやつ)に力を入れるなら、俺(おい)らも何所(どこ)/\迄も勝鳳を助けにやアならねへ、寧そ腹癒(はらいせ)に京屋へ押掛けて、思ひ存分脅し捲ってやらうと相談致して押出します事を、京屋の出入の鳶共が、早くも聞附けまして、スワこそ大事…、敵(むこう)に押されぬ中に此方(こつち)より押寄せろと云て、五六十の鳶共が元気に任せて、何がなしに駈出し、斉藤の鳶共と四ツ谷の大木戸にて、火花を散らして打合ひました。サア斯うなっては大騒ぎでございます。流石(さすが)土地の顔役も、打棄(うつちやつ)て置かれません。マア俺らに任したが宜いと云て、仲裁を致しましたに依て、双方共一旦其場を引上げました。

 そこで顔役達が種々と骨を折って 、  いよいよ々新宿の岡田屋にて仲直りする事いんあり、結局看板に「竹本大和太夫夫、野沢勝鳳、野沢語助」と三人の 芸名 (なまえ)を記して市中の各席を打廻りました。是は私が二十一の時でございます。ます。其頃は至極人気がございましたから、勝鳳もツイ諦めて了つたものか、自然と退 (ひ)くともなしに、退(ひい)て了ひました。

 其後竹本春太夫の三味線を弾て、京橋の佐野松と云ふ、名代の席亭へ出勤致した時、初代野沢語助が秘(こつそ)りと聞きに来ましたが、私の弾振(ひきぶり)が大層気に入ったものと見えて、何でも芸名(なまえ)を相続して貰ひたいと頻に迫られます。私も余りの親切に感じ、春太夫立会の上、愈々相続致して二代目野沢語助と改名致しましたのは、三十四歳の時でございます。

 夫(それ)より三味線を弾きました太夫は竹本錦木太夫……、斯(この)人は阿波の生れでございまして、当時評判の名人。其後二代目竹本津賀太夫を弾き、次は三代目播磨太夫、当人の死ぬ迄弾て居りました。其頃は最早明治の御代となり、何事も文明開化と云て、西洋風が大に流行し始めました。私も相棒の太夫を亡くして、一時休業致して居りましたから、そこで一番流行を売込(あてこ)みの商売を始めやうと思って海運橋の際へ海洋亭と云ふ、西洋料理を開業致しました。当今(ただいま)では沢山出来ましたが、東京で西洋料理を開業した中でも、私は第二番目でございます。是が意外(おもいのほか)に繁昌して、何かと忙(せわ)しうございましたに依て、六箇年程休業致しまして……。最早三味線の方を諦めやうと思って居りますと、大坂より竹本時太夫と云ふが上京しまして、私に三味線を弾て呉れと、頻に掛合に及びましたが、私は一旦諦めた事でございますから、折角の事ながら断りました所が、時太夫は又た方法を変へて掛合に及びました。〔七月十日〕

 時太夫が何(ど)んな方法で、迫り直しましたかと云ふに、私の贔負筋なる木場の問屋の旦那方と、茅場町の宮松の亭主とへ手を廻して、強(たつ)て弾て貰ひたいと申込みます。斯程まで所望さるゝ親切に、今更拒みも出来ませんから、そこで私も決着して、これを限りに弾き納める了簡で、遂々(とうとう)相棒となりました。

 先づ一世一代の了簡でございましたが、扨て弾き出すと、これを限りに廃(やめ)る訳にいかなくなって、時太夫の後には綾瀬太夫……、夫から越太夫、祖太夫等を弾きました。其内に都合あって北海道へ出掛け、函館に一年余り滞留致し、帰京後は断然廃業して、京橋元数寄屋町へ成瀬館と云ふ旅店を開業致しましたが、女房共が亡くなりまして後、他人に譲りて遊んで居りますと素人義太夫が盛んに流行致しますので、新橋辺の連中を始め、お髯のある当世の紳士方などが、空しく遊んで居るのも惜しいから、是非共稽古を頼みたいと云はれますので、そこで私も再び語助の芸名を現はすやうな次第となり、当今(ただいま)では此等の稽古の外に、三味弾連中の取締をも致して居りますが、イヤモゥ年を取っては、一切駄目でございますナ。

 元来三味線は中々稽古し難(にく)うございます。浄瑠璃は中年後に稽古致しても、結句甘(うま)く語られますが、三味線は年を取ってからの稽古で上手になられやうとは思はれません。現に私などは十六歳より始めて稽古しましたから、随分辛い程勉強致しました。併し何(ど)うやら一廉の三味線弾になりましたのは、コリヤ天性とでも申すのでもございませうか。通例ならば中年から稽古した位では、三味線弾には容易に成れるものでございません。斯く申すと自分一人のやうで、甚だ高慢がましく聞えますが、実際例(ためし)が少なうございます。

 近来三味線は大きに崩れて参りました。只だ手数(てかず)のみ多くて、一撥か二撥位でお客さまを感心させる者がございません。それに自分の達者な所を見せる了簡で、無性に糶立(せりたつ)て太夫を困らせますが、甚だ心得違ひの弾き方でございます。そんなに太夫を困らせる程糶(せり)立てんでも、三味線弾としてお客さまを感心させる場合が一段の中に何程(いくら)でもございます。殊更に手数を弾て「俺が達者であるから、褒めて下さい」と強(たつ)て頼むやうな顔附を仕(し)やうより、前申す通り一撥か二撥位で、「何うです、堪へませう」とお客さまの腸(はらわた)を抉(えぐ)る方が余程堪えます。是は真成(ほんと)の弾き方で…、甘(うま)いと云ふは此等(ここら)の事でございます。又た現在麻上下(あさがみしも)を着しながら、礼儀作法をも弁へぬやうに見えるは、甚だ心外の事で……私は只々昔懐しうございます。一体何うして斯様に崩れたかと、其源を尋ねますれば、実に大坂から起つた訳で、先頃亡くなった団平などは固より其罪を免れる事が出来ないかと思はれます。〔七月十四日〕

 団平は私より僅一ツの歳上でございましたが、芸道に掛けては、ズツト先輩でございます。斯(この)人の阿爺(おやじ)は千賀太夫と云て、播州加古川の出身で、私の親共と同郷でございますから、時々私の宅へ出入致して居りました。斯様な関係がございますに依て、私が始めて三味線弾となって名弘めに廻りました時、千賀太夫が団平に向ひ、コレ倅……、成滝の為さんが芸人に成(な)んなさるなどゝは、実に気の毒な訳だ、親御には大層お世話に与(あずか)ったから、何事も親切に取持ちたいと思ふが、モウ斯んな老耄(おいぼれ)になつちやア、迚も存分の事が出来ないから、汝(おめえ)は俺に成代(なりかわ)って、能うお世話致したが宣い……と、懇に言ひ聞せました。

 其後親密に交際(つきあい)ましたが、当今斯道の乱れたるに就ては、其源が団平より起つたと認めましたに依て、右の趣を詳細に書き記して、之が返答を求めました所、惜しい事には、遂に返答せずに彼世(あのよ)へ赴きました。即ち私の意見と云ふは……。

 太夫と三味線弾は、譬へば夫婦の如きもので……、何点(どこ)/\までも、和合致さねばなりません。然るに団平の弾き方は、大きに此主意に戻(もと)って居ります。固より腕の達者なるに任せて、思ひ存分に弾き立てますに依て、相棒の太夫は実に難儀致します。名人と云はるゝ程の腕を持ちながら、ナニモ左まで太夫を困まらした所で、真に聞く者の耳には格別に感じのあるものでございません。寧(いつ)そ一撥か二撥位で、腕の冴た所を見せる方が、一層引立って聞えます。且つ又た自分の了簡に任せて、勝手に節附を致しましたが、此の二ツは実に団平の誤りでございます。

 元来三味線弾が女房役なる以上は、飽まで亭主なる太夫に従って、力の及ぶ限り扶(たす)けてこそ、其役を済した遖(あつぱ)れな腕前と申しませうけれど、団平の様な演(や)り方では、只々才発の女房が、亭主を尻にすると同じ事で、賢女さては貞婦の如き美しい徳に就ては、天性備へて居る者とは、決して思はれません。併し団平は名人でございましたに依って、斯くも太夫を追捲くるのでございますが、三味線弾として不徳なる罪は、迚も免れる事が出来ません。是が大坂の崩れたる源でございまして、何れも皆団平の演(や)り方を真似て、何でも三味線は細(こまか)く弾かねば、腕の現れるものでないと、飛(とん)だ心得違ひを致して、矢鱈に太夫を糶立(せりたて)る様な情況(ありさま)となりましたのでございます。

 斯んな塩梅(あんばい)になりましては、太夫の方でも工夫せずには居られません。女房役に頭を押へられて、阿容(おめ)々々巳惚(うぬぼれ)て居ては、腑甲斐ない宿六と益々侮られるに依って、そこで種々な身振り、或は仮声(こわいろ)まで遣ひ、節と云へば豊後一中富本清元、さては新内常盤津などを、混同(ごつちや)に仕(し)た様な一種特別の呻り方を遣り始めて、旧来の浄瑠璃とは大に趣を変へて参りました。尤も昔でも土場(どば)浄瑠璃と云って、野原で語る奴が能(よ)う今日の語振りに似て居りますが、実に情ない程乱れたものでございます。此の罪は又た名人と云はるゝ越路が、迚も免れる事は出来ないかと思ひます。〔七月十六日〕

 越路太夫の事 越路太夫に就ては、中々面白いお話がございます。殊に斯(この)人を、素人より太夫に勧めたのは、マア私が取持つたやうなものでございます。

 私が師匠吉兵衛と、大坂へ立戻って居ります頃、上町辺に亀次郎と云ふ、素人三味線弾がございまして、時(とき)偶(たま)席亭より、黒人(くろうと)の空席(あき)に雇はれて居りましたが、私は未(ま)だ何(ど)んな男だか、一向面体を存じませんでした。其頃京の富の小路に、鍋島家の姫君が、御隠居遊ばしましたが、至って浄瑠璃が、お好きでございましたに依て、徒然の折柄には、素人連をもお召に相成る事がございます。私が京へ参りました時に、恰当(ちようど)お催しがございまして、私も図らず、広丸連と云ふ京の素人連中に加はり、都合三名にてお邸へ伺ひました所、大坂よりも十山(さん)と云ふ素人太夫と、例の亀次郎が参りました。

 何がさて素人連の事でございますから、何れも鼻を高め居りまして、俺は是が得意(おはこ)だから是非とも語り度(た)い、イヤ俺もそれが得意だから、他人(ひと)には滅多に語らせない抔と、何や角(か)と争ひ出して、役割は容易に極りません。斯く楽屋揉めに時を移しては、甚だ畏れ多い事でございますから、そこで私は亀次郎と相談致し、これぢや迚も果しがないゆゑ、二人で徐々(そろそろ)弾語りを演(や)らうぢやないか。語物は「橋弁慶」が面白い、お前さんは牛若を演(や)んなさい、私が弁慶を受持ちませうと、先づ演り始めました所、私は実に亀次郎の美音なるに、舌を巻て驚きました。天性太夫になる者と認めましたに依て、亀さん……、三味線弾になって居るは惜し事だ、お前さんのやうな咽喉は、真実珍らしいから、寧(いつ)そ太夫になつちやア何(ど)うだへと、勧めますと、何分共にお願ひ申しますと、云ひますゆゑ、私も何うにもして太夫に取持たうと思ひ、大坂へ戻って師匠(吉兵衛)に此事を話しましたら、其内に折もあらば、連中に加へやうと略(ほ)ぼ納めて呉れました。

 間もなく京の七軒町へ行く事になりまして、愈々亀次郎を同道致しました所、当人も大きに喜びました。扨て太夫となるには、亀次郎の芸名(なまえ)では、何うも可笑うございます。そこで師匠と三人にて、種々と考へましたが、是と云ふ面白い芸名も出ませんゆゑ、宿屋より国尽しを借受けて、先づ畿内より見始めましたが、山城は現在山城掾……、大和も同じく大和太夫……、斯(こ)んな塩梅に大体芸名となって居りまして、残って居るものは何れも口調が宜しうない。段々奥州の果まで、調べました所、師匠が手を拍って、アヽ宣(よ)いものを見附けた、何うだ南部と云ふ芸名は……。エツ南部……。ナニモそんなに驚かんでも宣いぢやないか。デモ南部の鮭は鼻曲りと云ひますから……。延喜(えんぎ)でもない、馬鹿な事を言ふまい。マア兎も角も芸名に仕やうと、そこで亀次郎が、竹本南部太夫と名乗って、七軒町の興行へ現れました。

 是が即ち当今(ただいま)の越路太夫でございます。其後師匠に就て頻に稽古致しました。是より越路になるに就ては、又た面白いお話がございまして、結局(つまり)斯人(このひと)は腹もありますが、一ツは運の宣い方でございます。〔七月二十日〕

 師匠吉兵衛が相棒の大和太夫は、其頃の人気者でございまして、是を連れて再び江戸へ下ることを、或席亭と約束致し、多分の手金を受取って、愈々下らうと致します矢先、大和太夫は突然一座を駈出(かけいだ)しましたから、サア大騒ぎでございます。

 結局師匠が余り八釜(やかま)しう小言を申しますので、居堪らぬ所から、ツイ駈出したのでもございませうが、内実是には深い謂(いわ)れのある事で……。当時の人気俳優(やくしや)実川延三郎が、中の芝居に於て始めて菅相丞を勤めますに就て、高金を出して大和太夫をチョボに傭ひました。余り情(すげ)ない仕打ゆゑ、師匠を始め私共も、大きに腑甲斐ない男と、爪弾(はじ)きを致しました。コリヤ大和太夫一人に限りません。太夫と名乗る者は誰にても、若しチョボ語りに化けますれば、乞食同様に軽蔑(さげす)んだものでございます。何がさて迷惑する者は師匠許りで……、真逆(まさか)其儘手金を踏潰す訳には参りませんゆゑ、大きに心配致して何(ど)う仕(し)やうと、私に相談致しました。そこで種々考へまして、師匠……、斯(こ)うなつちやア、何(ど)うする事も出来ませんが、何(ど)うでせう、一番胡魔化して出掛けちやア、併し大和の替玉を使ふ訳にも行きませんが、南部は那(あ)の通り美音でございますから、何とか改名して貫目を附けたなら、大和の穴を埋(う)める事が、出来ぬ事もないかと思ひますが、何うでせう……と、弗(ふ)と勧めました所、ソリや至極面白い、そんなら俺の親爺の芸名越路を譲らうと云て、爰で南部太夫が越路太夫と改名致し、始めて花のお江戸へ下りました。

 兎も角も是にて席亭の方を片附けましたが、其中に越路は大坂へ戻りまして、更に春太夫の弟子となりました。さうかうする内、春太夫が亡くなるやら、或は他の大立者も亡くなりました所から、其処(そこ)此処(ここ)と跡釜に雇はれたのが、抑(そ)も斯(この)人の売出しでございますが、今では浪華の大立者として、其名天下に隠れないとは、実以て驚き入った次第で。斯様に造作もなく売出しましたが、併し腹は充分緊乎(しつかり)として居ります。私は忘れもせず能う覚えて居りますが、斯人は素人から太夫になった間際、師匠吉兵衛に就て、随分稽古に力を入れましたから、固より確な語振(かたりぶ)りでございます。然るに何(ど)うした事か段々怪しい語り塩梅となり、大きに斯道を紊すやうな訳に立至りましたが、是には又た原因(もと)のある事で、強(あなが)ち越路一人の罪でございません。結局(つまり)団平が糸の達者に任せ、何角(なにか)と八方を糶立(せりたて)ましたに依って、いつしか不思議な語振りをするやうになりましたが、それでも切に見台を叩いて引込まぬだけがまだ殊勝でございます。ハ…、もう大抵に改めれば宣いに……。

〔七月二十二日〕

〔『毎日新聞』明治三十一年七月八日-二十二日〕

 

提供者:ね太郎(2005.09.18)