六、豊沢松太郎 こたま
倉田喜弘編 東京の人形浄瑠璃 p334-339
「太夫は船の如く、三味線弾は船頭の如し」と或粋者(すいしや)の云はれたるが、斯言(このこと)真に穿ち得て妙なりと謂ふべし。縦令(たとい)太夫巧(たくみ)に語ると錐も、三味線の以て之に適ふに非ずんば、到底聴者(きくもの)をして感動せしむるの域に至らず、況(いわん)や巧に語る能はざる者と雖も、三味線の力に藉(よ)って、却(かえつ)て聴かれ得るかの如く思はしむるに至れるをや。嗚呼太夫は船なり三味線弾は船頭なり。然(さ)れば其操縦如何を究むるに当りては、固より尋常一様の苦心に非ざるなり。而(しか)るに太夫独り其美を占め、三味線弾は僅に附属者として、之が余誉(よよ)を憂くるに過ぎず。豈彼等の為に嘆一嘆せざるを得んや。今や義太夫は盛んに流行せり。然れども三味線弾として聴き得て感ずべき者甚だ少なく、殆ど暁天の星影の如く、転(うた)た寥々として亦寂々(せきせき)たり。此時に際して光芒一点明晃々として、猶ほ残夜の光景を保ち得るの観あらしむる者を誰とか為す。惜ひかな彼等社会の先輩たる者、或は死籍に上るに非ずんば、多くは既に老耄せり。是に於て未だ其至域に達せずと雖も、緩急毫も忽(ゆるが)せにせず、操縦最も宜しきを得る者を推さんか。即ち先づ第一指を斯丈(このひと)に屈せざるを得ず。然れども敢て贔負の片意地に出づるに非ず。其の弾絃の巧妙なると其経歴の富贍(ふせん)なるとに徴して、真に然るべき者あるを認むればなり。而して斯丈も亦大坂人たるに至っては、益々東都義太夫界の為に痛嘆せざるを得ざるなり噫(ああ)。
私の芸名は、本名を其儘用ひて松太郎と申します。本年は四十二歳……。倅(惣太郎)は大きく、私は痩ツぽちで若く見えるから、何方(どなた)も兄弟ぢやと被仰(おつしや)いますヘエツ…。親子共に朝太夫と一座致して居ります。先づ生立より今日に至る迄の履歴を、お話し申したところが、格別面白い事はございません。併し修業の点に就いては、随分辛苦を嘗めました。今では南区(大坂)となって居りますが、二ツ井戸と云ふ所が、即ち私の出生地……。彼地(あちら)は浄瑠璃の場所柄丈あって、私のお袋もツイ之に黴(かび)されたものと見えて、何でも松にデン/\を仕込んで、三味線弾にしたいとの了簡、結局(つまり)私が幼少より至て三味線が好きであったから……。九歳の時に始めて豊沢浜右衛門の弟子となり、徐々(そろそろ)稽古に取掛りました。
さて三味線は浄瑠璃と変って却々(なかなか)稽古の難かしいもので、一寸やソツトの事で弾けるものでない。取分け太棹は三味線中の至難なるものゆえ、其心得のない時は、随分鈍間(とんな)な事をやらかします。譬へばデンと弾くところを、ヂヤンと上げ、或はツンと下げたりして、夫(それ)は/\妙な音色(ねいろ)を発(だ)させるものです。併し私は小児(こども)ながらも、一生懸命に稽古致したゆゑか、余り師匠の叱言(こごと)を喰ひませんでした。其代り皮肉な太夫に出遇つた事が徃々(まま)あります。中にも故人文字太夫は至て意地悪く当りました。新人(このひと)の得意(おはこ)は「新口村」と「岸姫松三」。言詞(ことば)廻しは拙(まず)かったが、地合にかゝると、大層甘(うま)い方だから、其れを自慢に、例(いつ)も私を苛(いじ)めて困らせる了簡がありました。〔四月二十六日〕
譬へば斯様(こんな)ところでございますナ。ソレ「新口村」ならば梅川が、「コレ忠兵衛さん、ホンに爰は剣の中、斯うして居ても大切(だいぢ)ないかへ」と文字さんが、例の拙(まず)い言詞(ことば)遣ひで演(や)り出す。アツ可笑くて堪りません。「アヽイヤ/\、男気な忠三郎」、ハテ地合にかゝつたナ、油断がならぬ……と、直ぐ節(ほどよ)く調子を取る。「頼んで今夜は爰に泊り、死ぬる共故郷の土」と得意になって唸ります。有繋(さすが)自慢丈に地合は甘(うま)いゆゑ、三味線は劫々(なかなか)骨が折れる。若(も)し少しでも調子が外れば、楽屋へ這入るが早いか、サアブツクタ叱言(こごと)を言出す。オイ松さん……、お前のやうな者の、相方をする太夫はホンマに辛い……、那様(あんな)弾き方ぢや、折角骨折って語っても、滅茶/\に壊されツちまう。何の角(か)のと八釜(やかま)しく当るので何(ど)うも堪(たまり)ません。其後嘘にも文字さんと組合せぢやと、聞いてさへ、粟々(ぞくぞく)身顫(ぶるい)する位でした。斯人と異(かわ)って古靱太夫は実に弾宣(ひきよ)うございました。浄瑠璃が甘(うま)い上に、至極面白い気質…。コオ若い時は、気任(きまかせ)に弾かんぢや腕が上らん、だからヅン/\演(や)るが宣(い)い。ネー三味線に頓着しないのが、有繋(さすが)甘かった証拠でございませう。併し文字と古靱は、何れが私の為になったかと言ますれば、両人(ふたり)共大に為めになりました。八釜しく言はるゝのも研究の一ツ、気任せに演らせるのも研究の一ツ。結局文字さんが意地悪い抔と思ったのが、私が未(ま)だ一向腕の冴へない頃であったから、彼是八釜しく言ったのも道理(もつとも)でございます。其中に師匠浜右衛門が亡なりましたゆえ、今度は五代目豊沢広助の門弟となる。是は即ち明治十三年。さて師匠の稽古が厳しいゆゑ、腕はグン/\上達し、是より徐々(そろそろ)売出し、二段目三段目と昇進して真打となり、廿八九歳の頃早や中老となる。有難い事には三味線弾として、連中の評判が宜(よ)かたによって、三十年代に遂には古老に昇りました。
茲に一寸位附の事を申しますれば、彼地(あちら)(大坂)には因講社と云ふものがあって、夫々仲間の位附を定める。中老より古老、古老より櫓下と云ふ順序。出世の止りは即ち櫓下であるが、是は座長でなければ、勤められぬ規則でございます。是に較ぶれば此方(こちら)(東京)の位附は大に簡略、イヤ甚だ厳しくございません。斯う言ふと少し失礼のやうだが、真打となるには、訳のないやうに思はれます。尤も彼地(あちら)(大坂)は人形芝居の座と云ふが少なく、此地(東京)は又席亭が多いから、甚だ容易(たやすい)のでもございませうが、技芸の上に就いて言へば、真打となるには爾(そ)う輙(たやす)く昇られるものでありません。併し此地(こちら)は此地、彼地(あちち)は彼地、各其格のあるもの、マア彼是言はぬが花でございませう。ハイ稲荷座へ出勤し、団平さんが大隅さんを、私は組さんを弾いて居りましたが、団平さんの欠勤の時は、大隅さんをも弾く……。御存じの通り団平さんは、古今稀れなる名人です。私は師匠がございますれど、団平さんにも稽古致して貰ひ、技芸の上に就いて、多く得(え)ならぬ手を合点致しました。〔四月二十七日〕
サテ団平さんは斯道の名人丈に、稽古にかヽつても、那(あれ)位の信切なお方がありません。縦(よ)しんば門弟に叱言を言ふ事があっても、いざ稽古になると、一切斯様(そんな)事を打忘れて、懇ろに教へられる。是が尋常(なみ)の人間であつて御覧うじろ。自分がムシャクシャする事があれば、決して稽古抔致して呉れません。有繋(さすが)名人の気象は、凡人と違ったものぢやと、私は常々感服して居ります。惜いかな、斯る名人も今は物故して、大坂にはもう私の師匠(広助)計りとなりました。未(ま)だ斯う云ふ事があった。芸道には名人、上手、下手とある。上手となるのは、何様(どんな)下手な者でも、勉強すれば屹度(きつと)成れやうが、サテ名人となるのは、勉強の力計りで成られるものでない。結局(つまり)天性と云ふものであらう、と言はれたが、これは大方爾(そ)うでもございませう。先ず団平さん抔は天性であって、勉強したと云って那様(あのよう)には迚も成られるものでありません。ホイ話は少し横へ外れました。
私に就いて面白い話……。格別面白い事はないが、昨年の七月名古屋の千歳座にて、東京大坂合併の浄瑠璃がありました。東京よりは朝太夫に私、大坂よりは組太夫、住太夫、伊達太夫、生島太夫と云ふ顔触でした。予て名古屋の八釜(やかま)しい事を聞いて居たゆゑ、私も朝さんも、何(ど)うにも失策度(しくじりたく)ないと思ひました。此地(東京)と違って彼地(名古屋)は、初日は大入と云って、木戸は半額で、土間も桟敷も場代要(い)らず、且つ一番肝要の日で、当日演(や)り損ねると、最(も)う客足が付きません。斯様(かよう)な土地柄であるゆゑ、一座一同一生懸命に演りました。併し気の毒なは大坂連中にて、組さんを始め何れも不評判。只朝さんと私が、何様(どんあ)ところが人気に適(はま)つたものか、「お夏清十郎」は大層喝釆を博しました。ハイ東京へ上ったのが、去廿五年中組太夫と上り、一昨年より朝太夫と一座致して居ります。
茲に三味線に就いて一寸お話し申しませう。稽古の始りは道行を演(や)らせる。これは東京では演(や)りませんが、大坂は人形の事であるから、是非共これを稽古せねばなりません。将(し)て何故に最初道行を演らせると云へば、御存じの通り道行の文句は、何れも花やかなる上に、種々な事を書き交ぜてある。夫ゆゑ三味線の手も種々ある。これから仕上げれば、何に当っても楽に稽古されます。夫より端(はな)(浄瑠璃)を稽古する順序です。東京では決して爾(そ)うでありません。最初は端より弾かせます。尤もこれは人形のないゆゑでもありませうが、マア三味線の仕込方は、大坂の方が勝って居ります。中にも何が難かしいと云へば、ヤレ阿古屋の三曲ぢや、堀川の猿廻しぢやと被仰(おつしや)らうが、曲引は至って楽なものでございます。夫ならば何か……。第一の難かしいは、手数の少ないものでございます。何故なれば動(ややも)するとダレて了う。それをダレないやうにする苦心は、劫々(なかなか)口に言はれません。ハイ、デン……と弾くのは、アリヤ強味のある場合、或は怒る時……、譬へば「弁慶真中に手+堂乎(どつかと)座し」デン……、「吉晴は取って退突け」デン……、強味がありませう。これをヂヤン……或はツン……と弾いては、一向強味が付きません。ヂヤンは又斯様(こんあ)時に、「急いでこそは立帰る」ヂヤ/\ヂヤンと逸(はや)める、「悠々として立帰る」……ヂヤン……、寛(ゆる)/\弾きます。ツン、これは言詞(ことば)より地合にかゝる時、「母さまにも婆さまにも、是今生の暇乞、此身の願ひ叶ふたれば、思ひ置く事更になし」こゝでツンと入れて、「十八年が其間」と地合になる。マア三味線の手は、斯様(こんな)ものでございますが、何れも文句に依って弾かねばならぬ。これは私計りの意見ではない……。団平さんも予々(かねがね)言聞けられました。〔四月二十八日〕
〔『毎日新聞』明治三十一年四月二十六日〜二十八日〕