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 【 平出鏗二郎 『東京風俗志』 】

平出鏗二郎 『東京風俗志』 

富山房 明治35年8月刊 ちくま学芸文庫版による

 

第十章 歌舞伎音楽及び諸興行物
第一節 音楽

 今や最も都下に行はるる器楽といへば、まづ指を三絃に屈せざるべからず、然れどもその用ひらるるは、下流の少女に多くして、中流以上にありては箏を翫ぶなり。近年、西洋楽器、学校に用ひらるるより、また漸く行はれんとするが如し。 三絃曲 三絃曲は古く浄瑠璃に基を発し、東西に岐れて、早く江戸に伝はりしものは、今、大薩摩となり、河東節となりて存す。かの享保に東下して一時を風靡せし宮古路節は、元文の禁に遇うて後、常磐津となり、富本となり、富士松となり、薗八となりて悌を伝へ、富本より清元をいだし、富士松より新内をいだせり。大阪に伝はりしものは、かくの如き発達変遷を経ずして義太夫となり、更に竹本・豊竹の二派に別れしままに、進んで全盛を極めたり。今や都下には、これ等の外に、なほ長唄・端唄の如きまでを加へて翫ばるるなり。
 然れども義太夫は到底大阪を以て本場とせざるべからず。阪地の人は芝居に耽り、義太夫に狂ふ、もし斯道に通ぜざれば、偏屈者を以て伍せられず、宴席に臨みて、その一曲にも通ぜざらんには、忸怩として逡巡せざるを得ざること、なほ茶席に入って、その式法を心得ざる者に見るが如し。都下にあっては、未だかくの如き盛況に至らざるは喜ばしからずや。義太夫といへば、その道専門の芸人の技として委ね、たまたまこれに熟通するものあれば、特に素人義太夫を以て呼ぶ。されども近来漸く常人にもまたこれを翫ぶもの増加せしが如く、素人義太夫大ざらひなど時々催さるるを見るなり。かくの如くして都下に名手の誉れ山口同きものも、これを繹ぬれば、大阪上りのここに留住せしにあらざるはなく、大阪上りの太夫といへば、都人は既に仰慕の念に堪へざるものの如し。その曲について見れば、近松門左の作は却って行はれず、竹田出雲のもの間々行はれ、近松半二以下の作最も行はる。義太夫語りの中に、「ちょぼ」と称へ、劇場に出でて役者の出端(では)、身振、所作等に応じ、曲中の一句一節を抄(ぬ)きて語るものあり・「ちよぼ」とはその譜本の語るべき所々に朱紙を貼りて目印となすにより、ゝ(ちよぼ)点をうつといふ義に出でたるなり。なほ義太夫につきては、寄席の章に於て再説する所あるべし。(以下略)

第五節 寄席及び観せ物

寄席 寄席とは、芸人の講談・落語・浄瑠璃・唄・音曲、その他の演芸を公衆に聴聞せしむる場所をいふと、これ現行寄席取締規則(明治三十四年九月警視庁令第五八号)に下したる定義なり。真面目に解釈すれば、寄席はまことに耳の楽みに過ぎざるが如しといへども、実際は芸人の身振もあれば、手踊もあり、皿廻しもあれば、手品もありて、眼に面白く見らるる演芸をなすこと少からず。京阪にては演劇に熱中する余、寄席を下劣なるものとして、身分ある者はこれに臨むを憚れども、都下にては却って入費も少く、暇もいらざれば、手軽なる興行物として、中流以上のものもこれに至るなり。明治三十年の統計によれば、都下定席の数は一 百五十三ありて、各区にこれなきはなく、神田最も多くして二十二あり、芝これに次いで十七、日本橋・浅草・本所各々十五あり。
 寄席の構造は、寄席取締規則に、木戸口、客席、燈火、換気法等について規定する所あり、またその建設地は、三間以上の道路に面接せざるべからずとし、客席百坪以上を有するものは、塗家・石造、または煉化造にせざるべからざることとなししかど、未だ宏大なる建物なくして、普通町家の大いなる程のもののみなり。なべて、その屋根には真打の芸名をしるせる軒行燈を掲げ、木戸口の脇には、一座芸人の名、及びその演芸を列ねしるしなどせる大行燈を掲ぐ。木戸口を入れば札場あり、下足預り場あり、木戸銭は概ね八銭より十二銭なり。内部は正面を演台とし、前を客席とす、大いなるには二階席を設くるもあり、また間々二階のみを以て興行場とし、階下は興行主の住居たることあり。演台の後は楽屋(芸人控席)とす。近来官、風紀上、芸人と客との往来交通を禁じ、芸人の控席及び通路は、客席より見え透かざるやうに制したり。いくばくか劇場に髣髴たる所あれども、規模もとより比すべくもあらず、花道なく、また客席を枡形に画ることなし。寄席も客席に定員の定めありて、一坪十人以下の割合となせり。客席に近く中売ありて、座蒲団・煙草盆・火鉢等を周旋し、殊に中入(真打の出演前に於ける少時間の休息)には客席に出でて「お茶はよしか、煎餅はよしか」と、茶菓を売り廻るなり。
興行期日は概ね半月ごとに一座を交替して、一年中三十一日を除くの外、ほとんど休日なし。その席によりては落語、もしくは吹寄と義太夫とをかたみに興行するもあれば、単に講談・義太夫・あるいは浪花節などの一のみを常興行とするもあり。興行は夜を主とすれども、その賑はひ場所なるか、または講談の定席にありては、昼夜各々興行するもあり、因ってまた昼席・夜席の名あり。官規によれば、かくの如く一日二興行をなすものは、一興行閉止の後、一時間を経ざるにあらざれば、再度の興行をなすこと能はざること、なほ演劇の如し。而して興行時間は、日出より午後十二時までの間とし、一興行は七時間以内を限とせり。
演芸は、大略(一)講談、(二)落語、もしくは人情}話、(三)音曲吹寄((二)(三)を講談に対して色物といふ)、(五)義太夫、(六)浪花節とす。概していへば、講談は盛り場に、落語もしくは人情話は下町に、義太夫は神田、本郷を始め山の手に、浪花節は場末に於いて最も繁昌するが如し。元来芸人は無学不識の徒多く、ただ客人の娯楽を買はんとする余りに、卑猥なる言詞を使ふも多く、また犯罪を誘致するが如き説話を演ずること少からず、例へば講談、浪花節にては賭博の方法、もしくは剽盗の方法などを細かに説くこと多く、落語、人情話にては花柳の事情を悉(つ)くして、少年子弟をして遊蕩の念を惹き起さしむることなきにあらず、義太夫にも「ちゃり」(滑稽の義)と称するものの如きは、辞句淫猥、風紀を紊乱せしむべし。故に官また厳にこれを督制する所あれども、なほその弊風止まざるが如し。

 (中略)

 義太夫は彼の大阪の文楽にて聴くが如きに比すべからず、殊に最も行はるるは娘義太夫とす。すべて序に三番叟を語らず、御祝儀宝入船を簾の内に語るのみ、一座の惣掛合の如きもこれなし。元来都下の芸人は、一夜に二席をも三席をもかけ持ち居りて、車を馳せて駆け廻るさまなれば、一座顔を合せて掛合をなすが如きことはなし得ることにあらず。一座は概ね簾内、口語り、口二枚、口三枚、助け場(中軸)、切三、切前(一に「もたれ」)、真打と次第す。男義太夫には語りと糸と別人なれども、娘義太夫にありては別なるもあれば、また弾き語りもあるなり(上図は弾き語りのさまなり)。その語り物は、口語り、口二三枚に至るまでは、日吉丸(三の切)、朝顔日記(宿屋の段)、鎌倉三代記(三浦別れの段)、大功記(十段目)、二十四孝(十種香の段)、玉藻前旭袂(道春館の段)、歌祭文(野崎村の段)、八陣守護城(八冊の切)、など殊に多く、切前、真打には、先代萩(政岡忠義の段)、菅原伝授(寺子屋の段)、摂州合法辻(閻魔堂お段)、艶容女舞衣(酒屋の段、伊賀越(沼津の段)、彦山(九ッ目)、三十三間堂(平太郎住家の段)、河原達引 (堀川の段)、御所桜(弁慶上使の段)、時雨の炬燵(紙屋の段)、三十三所(壺阪寺の段)など殊に多かり。中には某の陣屋・某の小磯原とたたへて、太夫のお箱によりて著しきものあり。総じて今時の義太夫聴きは、辞句を味ふにあらず、脚色に問ふ所なし。ただ一口浄瑠璃といひ、さはり文句といふが如き、その一部の、情に切に、曲節の微妙にして婉麗、覚えず、その境中に誘はれて、ドースル連がいはゆるドースル的感想を衝動せらるれば足れりとす、まことに今時の義太夫は語るにあらず、謡ふなりといひしも宜なり。殊にまた娘義太夫にありては、声曲を聴くよりは、他の意味を懐いて、しげしげ通ふ客少からず。かの下足札をたたいてドースルドースルと騒ぐドースル連は畢竟これ等の徒多かり。されば芸人も媚を隹口るを以て専らとし、容貌の美しきものあれば、たちまち衆評に上りて繁昌すれば、席亭の方にも切三枚辺には、顔付のよきを選び据ゑて、人気を寄せんとす。かくの如くにして、芸よりも顔の方勢力ありて、顔よきものは、たちまちに人気加はりて、真打にも上れば、真打にも、その芸に至りては 切前に劣るもの少からず。

 

提供者:ね太郎(2005.10.10)