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 【 馬場孤蝶 明治の東京 抄 】

馬場孤蝶 『明治の東京』 より

中央公論社1942.5 現代教養文庫版による

故摂津大掾

義太夫の話

 

故摂津大掾

 

 一

 明治の義太夫界の巨人と仰がれ、近代絶倫の美音と称せられた竹本摂津大掾は、この程八十二歳を一期として、白玉楼中の人となってしまった。

 僕はこの人が摂津大掾と改名してからは、折悪く一度も聴いたことがない。僕のこの人に関する記憶は今より二十六、七年前のことに属する。この人が未だ越路太夫といっていた時分のことである。

 元よりその越路太夫に関する記憶は単独の記憶ではない。それは他のさまざまな記憶をばその後に率いて、僕の心に起り来たる記憶である。

 それは僕らの学生時代であった。その時分に一緒に越路を聴いた友の中には最早とくに故人となっているものもある。遠い土地にいて消息も互にし合わなくなってしまったのもある。その時分からの知人で今時々行合う者といっては、ほんの数えるぐらいしきゃ残っていない。

 秋雨のしめやかに降る夜、そういう思い出に耽れば、昔親かった人々の顔、昔行なれていた場所の光景などが、つぎつぎに眼の前に現れて来るような心持がする。

 そういう追憶を書き立れば何枚書いても書き尽せそうもない。僕は今、摂津大掾の越路時代のことを重に思い出してみよう。それには幸い二十三、四年の僕の日記が残っている。それから、越路を聞いた時のことを抄出しよう。

 

 二

 僕が最初に、越路を聞いたのは明治二十三年の五月三日である。寄席は本郷の若竹、同行者は今朝鮮の何処かの知事である松永武吉氏であった。午後一時から始まって、八時半頃に終っている。それで木戸銭はというと、二十銭か精々で三十銭ぐらいであったろうと思う。物価の安い時分であったからでもあるのだが、それにしても現代の越路が大劇場で金何円という木戸銭であるのは、少し故人に対して、くすぐったい気はしないであろうか。

 さて、少し蛇足の感はあるが、参考のために、その時の語物を順に書いてみよう。『八陣−正清本城』越栄太夫、『加賀見山−又助』小長太夫、豊沢広子、『碁盤太平記−坂戸村』越尾太夫、豊沢広吉、『同−揚屋』村太夫、豊沢龍三、『玉三』さの太夫、鶴沢小庄、『勘作』路太夫、豊沢花助、『酒屋』越路太夫、豊沢広助というのである。

 越路はこの時は声の美しさの方では稍下り坂だという人があったのであるが、まだどうして実によい声であった。殆ど男の声とは思えないほどの綺麗な声であった。節を細かに語って行くところは、いわゆる盤上に玉を転ばすという形容はこの様な場合に用いるものであろうかと思われたくらいであった。

 『あとには園が』というところまで来ると、越路は見台に手を掛けて、膝で真直に立った。それから『繰り返したるひとりごと』までが、如何にも悠揚に語られた。

 同月五日にも、松永氏と共に聴きに行った。路太夫の『紙治の茶屋場』と越路の『御殿』とが殊に面白かった。路太夫は如何にも声のない太夫であったが、その代り非常に言葉の旨い太夫であった。この『河庄』は今も猶僕は忘れ得ない。もう一度この時のような『河庄』を聴いてみたいと思う。越路の『御殿』では『お未の業をしがらきや』以下のところの節廻しの綺麗であったことが、今も猶耳に附いて離れないような気がする。殊に『心も清き洗米』の節の細かったことは、僕の終生忘れ得ないものであろう。

 同月十日には、母と姪と三人で聴きに行ったのであるが、その時は越路は病気で出ないで、さの太夫の『松王屋敷』と路太夫の『帯屋』を聴いたのみであった。

 

 三

 同じ年の十月十七日に、若竹で又越路を聴いた。この時は僕一人であった。遅かったと見えて、路太夫の『沼津』と越路の『十種香』だけを聴い[た]ことしきゃ、日記には書いてない。

  同月十九日には、比佐という学友と一緒に、越路の『柳』を聴いた。この時のさの太夫の出し物は『玉三』であったが、僕らは、さの太夫の大きい語口にひどく感服して、この太夫の前途の多望なることを語り合った。越路の『柳』の面白さは前半にあった。一体三味線のよく解らない僕ら素人には、『柳』は柳の精の消える所までで沢山である。

 十一月二十三日、芝の玉の井で、越路の『堀川』を聴いた。例の『鳥辺山』が何んともいいようのない程心持の好かつたことを記憶している。

 翌二十四日、玉の井で、さの太夫の『加賀見山−尾上部屋』と、路太夫の『引窓』と、越路の『太十』とを聴いた。この時は、比佐と竹本東佐(当時は弥昇)と三人であった。東佐は路太夫を激賞した。東佐のお蔭で、『太十』の終りに近い部分の三味線の面白さを知ることが出来た。

 十二月十九日、越路の『合法』を宮松で聴いた。路太夫の語り物は『重の井子別』であったが、これは余り好くなかったように思われた。

 僕の東京で越路を聴いたのはそれだけであるのだが、これが越路を聴いた最後ではない。

 二十四年の十二月に、僕は高知市の共立学校というのへ、英語の教師に雇われて行ったのだが、その途中、神戸で船待ちの間、同月の十二日に、神戸の大黒座で越路一座を聴いた。その時は、さの太夫が八兵衛の三味線で『志渡寺』、路太夫が同じく三味線は八兵衛で『河庄』、呂太夫が「吃又』、越路が『太十』であった。呂太夫は如何にも体格の魁偉な異相の男であった。そして 語口が如何にも剛健であったように覚えている。

 

 四

 

 越路を聴いたのはただそれだけである。越路はからだの小さい、顔の小さい、如何にも濃い地蔵眉の色の赭黒い男であった。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧げて、長い間いるのであったが、或人が、丁度一分間そうしているのだといったことがあるので、僕も一度時計を見て試したが、確に一分間であった。

 名人長門太夫が初代の綱太夫に三年間一段しきや教えなかったという伝説があるのだが、越路も師匠が一年間一段しきや教えなかった。越路の家の者が一年間一つ物ばかりでは心細い、何か他のものを教えて呉れと、師匠に申込んだ。師匠は言下に、『それでも、当人が不平をいわずにやっているから宜いではないか。先ずそういうことは一切わしにまかして置いて呉れ』といったという話がある。

 越路の義太夫は邪路に入ったものであるとか、いわゆるケレンであるとかいう評は黒人(くろうと)のなかに大分唱えられていた。けれども、声の美くしかったこと、節の細(こまか)かったことは、何人も争い得ないところであったろう。その点では越路時代の摂津大掾は不出世の人であったことは、疑いがない。

 俳優、音楽家らは、刹那のヒーロオである。その人衰ると共に、その人逝くと共に、その天才の技能も、また永久に消え去ってしまうのは、憾みに堪えざることである。

 夏目漱石君が或時次のような話をしたことがある。

 或日、夏目君が兄さんから拝領の外套を着て、若竹へ越路を聴きに行っていると、傍に胡坐をかいているへんな男が、夏目君に『今日は休か』ときいた。夏目君は、学校のことだと思ったので、『今日は休みだ』と答えた。すると、その男は夏目君にいろいろ話しかけたが、だんだん話が喰いちがって来るので、夏目君もこれは少しへんだなと思っているうちに、到頭先方から『だって、おめえ、造兵じゃァねえか』といった。

 夏目君は砲兵工廠の職工と間違えられたのだ。

 ああ、その夏目君も今は故人で、その一周忌が近々に来るのである。

 僕は一緒に越路を聴いた比佐道太郎は、明治三十六年に磐城の小名浜でなくなった。そのわすれがたみの男の子は、もう高等学校の試験を受け終ったくらいの年になっていようかと思われる。

 その時分の学友で亡くなったものは、もう十指に余るであろう。

 夜は更け行くままに、雨の音はいやさびしく聞えて来る。人もなつかしい、事もなつかしい。鬢に数茎の霜の色しるき僕に取っては、今宵の雨は消え行く過去を低調に弔う挽歌のような心持がする。

 

義太夫の話

 

 一

 僕は少年(こども)の時分から、義太夫を聴くのが好きであった。慥か、明治二十一年頃と覚えている。姉が、土佐へ旅行したことがあった。その時、姉は、女義太夫の弥昇というのを、旅宿(やど)の座敷に呼んで、聴いたことがある。弥昇は、その後間もなく、竹本稲桝の一座に加わって、上京した。僕の家は、その後、新橋の日吉町三番地へ引越したが、姉に贔屓になった縁故で、弥昇は、よく僕の家へも訪ねて来た。で、いつの間にか、稲桝の一座の連中とも知り合いになったので、僕は、或時は、姉と一緒に、或時は、今代議士になっている中村啓次郎君と一緒に、日吉町から、ご苦労さまにも、下谷の吹抜、両国の新柳亭などヘまでも、稲桝一座のかかっている所へ、よく聴きに行ったものだ。そういう風であったから、無論、近所の鶴仙や、琴平あたりにかかった時は、殆ど毎晩のように出かけた。遂(しまい)には学校の教科書を携(も)って、寄席に行って、面白いところだけ聴いて、他は聞かずに、教科書の下読をやったものだ。ゼボンの論理学などは、寄席で勉強した所の方が多かったように覚えている。

 斯様(こん)な風に、義太夫道楽が進んで来た果は、自分でも語ってみたくなって、弥昇が家へ来た時に、教えて呉れと頼んだ。何を教えようというから、どうせ習うくらいなら『三十三間堂』の『平太郎住家』を習いたいものだと、僕がいうと、弥昇は、あれは、難しいから、お止しなさい、もっとやさしい物を教えましょうというのだ。此方は、盲滅法何んでも彼でも、『三十三間堂』を教えて呉れと、いい張った。すると、弥昇は、笑いだして、では、まァやってごらんなさい、といって、あり合せの三味線を取って、稽古を附けに掛って呉れた。ところが、やって見るというと、第一、先ず最初の『夢や結ぶらん……』というところからして、難しくって到底駄目だ。では、其所は抜いて、その次からにしようということになったのだが、此度は『妻は……』で、声が出ない。弥昇は、もっと上、もっと上と、いうのだが、僕の声はいつまでやっても、ちっとも上へあがらない。まして、『は……』と声をひっぱって行く節がどうしても物にならぬ。何遍やっても同なじように駄目なのだ。大いに閉口して、『なるほど聞いている方が、余っ程楽だ』というと、『此様な難しい物は、駄目ですよ』と、弥昇に甚く笑われた。僕は、それ以来、義太夫の稽古を為てみようと為たことはないのだが、時々、冗談半分に稽古を為て見ようかと思うことはあるのだ。因みにいうが、ここにいう弥昇というのは、今の竹本東佐のことだ。

 僕自身の義太夫に関する経験ともいうべきものといえば、先ず此様なものだが、これから、批評とは行かないまでも、今まで僕が聴いた義太夫語に就て二、三の感じをいおう。

 大阪の隅太夫−彼の盲目の隅太夫−を、余程前に聴いたことがある。その時は僕が極く年の若い時分であったので、更に明かな印象は残っていないのだが、その時聴いた『鳴戸』の奥の、お鶴の死骸に火をかけるあたりからが、非常に面白かったことは今に忘れない。

 越路太夫−今の摂津大掾−を初めて聴いたのは明治二十二年頃かと思う。その時分には、『最早、大分下り坂だ』といわれていたにかかわらず、まだどうして、美しい声であった。『先代萩』の『忠義の段』の『お未の業をしがらきや……』というあたりの節廻しの美しかったことを、今に忘れ得ない。殊に、『心も清き洗米』に至っては、何んともいいようのない綺麗な節廻しであった。それから、『二十四孝』の『十種香』を、実に好い心持で聞いた。謙信が出てから後は、それ程面白くなかったように思う。

 その時に越路と一緒に来た路(みち)太夫というのの『紙治』の『茶屋場』を聞いたのだが、会話が如何にも写実的に語られて、芝居を見たって彼様(あん)な印象は到底(とても)得られまいと思われるまでに面白かった。前後を通じて、彼様な面白い語り方を聞いたことは、一度もないような気がするのだ。けれども同じ人の『沼津』や『引窓』は、それ程面白かったとは思わない。あるいは、『茶屋場』の曲そのものを、僕が面白く思っていたためかも知れぬ。しかし『茶屋場』が、路太夫の最も得意な語り物であったのではなかろうかとも、僕は思うのだ。

 同じ一座のさの太夫というのは、壮(さかん)な語口であったと思う。その男には大きい将来があるのだろうと思った。あの男今はどうなったろうか。

 大阪の文楽座を見たいと思っているが、未だ見る機会を得ないでいる。人によると、義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正(ほんとう)の義太夫の味は分らないのだというのだ。が、また、折角、善(い)い義太夫を聴いているのに、人形が邪魔になってならないと、いうものがある。僕には、後者の説に一理があるように思う。

 義太夫曲のうちで、何が一番好きかといわれれば、僕は『恋飛脚」の『新口村』が、一番好きだ。

 

 二

 これは、大阪の人で、よく義太夫の事を知っている人の話であるのだが、僕には面白い話だと思われるので、知れ渡っている話かも知れぬが、左にその大要を書いて見る。

 義太夫を教えて、真正ほんとう)にそれを仕込もうとするには、同じ一段をいつまでも教えるのが宜(い)いというのだ。ただ無暗に数だけ上げても、何んの役にも立たないものだ。一段中に現れる人物には、老人もあれば、若いのもある、男もあれば女もある。それに性格の違ったものも、いろいろ出て来る。そういうものの語り分けを、いちいちはっきりやるようにして、同じ一段を繰返す中(うち)には、その真の呼吸を覚えて、他のものは自と語ることが能(で)きるようになるのだ。摂津大掾が若い時に弟子入りをした師匠が、一年間も『寺子屋』か何か一つものばかりを摂津に教えていた。摂津の家内のものらもさすがに変だと思い『家(うち)の児が何んぽ無器用でもいつも一つものばかりは酷い。それは先ず大抵で上げさせて、他のものを教えてやって呉れ』と、いい込んだ。ところが、その師匠が『でも、当人が平気でやっているから宜(よ)いではないか』と、いったので それなりになった、という話がある。

 僕はその道のものでないから、果して、義太夫の教授法はそうなければならないものなのか、どうなのか、その当否は知らないのだが、それに就(つい)て、甚だ面白い話がある。

 何代目の長門太夫であったか、紀州の龍門か、何処かの、温泉に湯治に行っていた。ところが、毎日、その宿の前を、馬子歌を歌って通る一人の馬子があった。その声が如何にも美音であった。長門は、それに聞き惚れてしまって、或時、その馬子を自分の室(へや)に呼び入れた。そして、『お前の声は実に善(い)い声だ。どうだ、おれの弟子にならないか、そうすれば、日本一の太夫にしてやるが』と、いった。が、馬子は、「私には老年(としより)の母親がある。それを見送らない中は、どうしてもこの土地を離れる訳には行かない。折角だが、貴下(あなた)の弟子になる訳にはいかない』と、いって、断った。それを聞いた長門は、甚(ひど)く失望したのだが、為方(しかた)がないから『イヤ、それは道理(もっとも)だ、そういう訳なら、何も今に限った訳でない。お母(つか)さんを見送ったら、その時来て呉れ』といって、そのうち、自分は大阪へ帰った。

 すると一年ばかり経って、その馬子が長門の許へやって来た。『いよいよ、母親を見送ったから、兼ての約束通りに弟子になりに来た』といったので、長門は喜んでその男を家に置いた。

 御承知の通り、芸人の内弟子というものは、ただ芸を稽古するばかりではない。いろいろな労働もすれば、また、家の雑用にも使われるものだ。この馬子であった男も、そういう習慣の下に、義太夫を習い始めた。先ず、一段の稽古は終った。ところが、始終その一段の稽古ばかりやらせられている。三年の間、その一段より他一つも教えて呉れない。さすがに、その男も考えだした。此様(こん)な塩梅(あんばい)では、十段覚えるのには三十年以上かかる、二十段覚えるには六十年の余もかかるのだ。其様(そん)なことでは、到底(とても)、日本一の太夫どころか、普通(なみ)の義太夫語りにもなれない訳だ。こう思ったから、或日、長門の前に出て、義太夫語りになるのはいやになった。田舎に帰って、もともと通り馬子をしたい、是非暇を呉れといった。聞いた長門は、ひどく失望して、いろいろなだめすかして見たけれども、どうしても帰るといって聴かない。で 為方がないから、幾らかの旅費をやって、田舎へ帰すことにした。

 そこで 当人は、大阪から草鞋(わらじ)がけで、てくてく歩きだして、泉州岸和田の近辺まで来ると、日がとっぷり暮れた。あたりに旅屋はない。為方がないから、その辺の大きい家へ行って、旅のものだが、納屋の隅でも宜いから、泊めて呉れまいかと頼んだ。ところが、その家の者がいうには、真にお気の毒であるが今夜は少し家に取込があるからお泊め申す訳にいかないといって、気の毒そうに断られた。けれども、此方は、他に泊めて貰えようと思う家もないのであったから、また押し返して、お取込はどういうことか知らないが、別に食べるものも頂かんでも宜い、ただほんとのお納屋の隅で宜いのだから、一夜過すだけの許を得たいと、折入って頼んだ。すると、先方のいうには、いや、そういう訳なら、お泊め申しましょう。実はこの辺は浄瑠璃の流行る土地で、今夜は、家でその会をするところだ、それで、どうも、お泊め申しても、何んのお世話も能きまいと思うからお断りしたのだが、それさえご承知なら……と、いうのであった。聞いた此方は、私も実は浄瑠璃は好きだ、そう聞いては、台所の隅でなりとも伺いたいというと、先方(さき)でも、それはどうにかしてお泊め申すことも能きるし、粗飯で宜ければ差し上げることも能きる。ただ混雑でお気の毒だと思ってお断りしたのだ、そういうことならまアお上りなさいということになった。そこで少し待っていると、村の天狗連がだんだん集まった。三味線を引く者は、大阪で本職になりそこねたというような男で、その辺の師匠をしている者であった。やがて、会が始まるという時になると、旅の男は、私も義太夫を少しやったことがあるから、今夜やって見たい、しかし皆さんにはとても敵うまいと思うから、私が前座をやるといいだした。

 妙な武骨げな、服装(なり)もみすぼらしい男であるから、其様な男に義太夫が語れそうにも見えかったので、一同はほんの座興ぐらいにと思って、では、おやりなさいといって、三味線引の師匠も、迷惑そうな顔をして、撥を取った。

 すると、旅の男は、三年かかってやっと一段しきゃ覚えられないような無器用な自分だから、田舎へ帰って、また元の馬子になってしまって、義太夫のことなどは[口+愛]気(おくび)にも出すまいと思っているのだが、それにしても、一遍は人のいる所で語って見たくもある。ところで、素人の間(なか)ならば、どれ程下手でも恥にはなるまいし、しかも、ここは旅だ、よし、やってみよう、後にも前にもただこれ一遍という心算(つもり)で、見台に向ったのであった。一、二行語り出すと、先ず三味線引が驚いた。苦しいことは夥(おびただ)しい、やっとのことで、畢生の力を奮って附いて行った。やがて語り終ると、一座感に堪えて何んともいう人がない。さア、これから皆さんのを伺いましょうと、その男がいうと、暫く一同顔を見合せていたが、家の主が、座を進めていうのには、貴下の浄瑠璃には、全く感服してしまった。もう貴下のを聞いては、私ども誰も後でやろうという気になれない。真に恐れ入った。もう一段何か聞かして下さらんかと、いった。馬子の先生大いに閉口した。いや、真にお恥しい訳だが、浄瑠璃はこれ一段しきゃ知らないのだからと、いって断ると、主人が、貴下程の上手が、たった一段しきや知らぬというのはあるべきことでない、冗談をいわずに聞かして下さいと、頼んだ。けれども、此方では実際一段しきゃ知らないのだ、という。其様なら、何卒、今のをもう一遍聞かして呉れろということになって、同じものをもう一遍語った。語りかたの正確なこと、前に語った時と、いわゆる符節を合すが如しで、寸分違わない。それで、一座ますます感服して、どうして、貴下程の上手が、一段しきゃ知らないのかと尋かれたので、その男は、実は、私はこれこれの仔細で長門の弟子になったのであるが、三年経っても一段あがらない。考えて見ると、三年に一段では、十段覚えるに三十年かかる、今私は二十ぐらいだから、十段覚える時分には五十になってしまう。それでは、日本一の太夫どころか、もぐりの義太夫語りにもなれない訳なのだから、もう廃めて、田舎へ帰る心算で、此処までやって来たのだ、といった。

 一同、その話を聞いて、それは残念な事ではないか、長門程の人が貴方をそういう風に教えたのは、何か考えがあってからの事に違いない。何んでももう一遍大阪へ行って辛抱して見てはと、勧めた。いや、真平御免だ、朝から晩まで、そこらをふき掃除したり、湯呑に湯を汲むということばかりやらせられて、浄瑠璃は三年に一段というのでは、とてもやり切れない。私は何んでも田舎へ帰るといって、聞き入れない。けれども、一座の人々は、それは内弟子で、何んでも彼でも、身の廻りのこと一切、彼方(むこう)で世話になるから、そうなるのであろう。貴下の様な名人がこのまま田舎に埋もれてしまうのは、実に残念だ。私どもが醵金して、其様なに苦しくなく修業の能きるようにしてあげるから、と、いいだしたので、とうとう納得して、長門の処へ帰って行った。

 すると、長門は非常に喜んで、お前は、慥に日本一の太夫になれるとおれが見込んで世話していたのに、いやになって帰るというから、為方なしに帰したが、残念で堪らなかった。善く帰って来て呉れた、というので、一層力を入れて、教えて遣り、初め一段に三年もかかった事であるから、後は何んでもどんどんあがるようになって、とうとう非凡な芸人になった。長門太夫はその男に綱太夫という名をつけて遣った。馬子に因んで附けた名であったのだ。これが、初代の綱太夫に就ての言い伝えだ。

 ところで 又他の人から聞いたところによると、終の方が違っている。師匠の処から暇を貰って帰る時、大阪の堺の港で船に乗ったが、船が出ぬ中に、夜になったが、実に良い月夜になったので、その男は、思わず、たった一段しか知らない義太夫を語りだした。すると、近辺にいる船の中で、オー長門だという声を聞いた。ここで、当人は翻然悟って、自分から、大阪へ引き返したというのだ。何方が真実の話であるか知らないのだが、僕は、一寸小説めいた面白い話だと思って、義太夫の話が出ると、よく人にこの話をするのだ。

 

提供者:ね太郎(2005.09.18)