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 【 岡本綺堂 明治劇談 ランプの下にて 抄 】

岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』 より

岡倉書房1935 岩波文庫による

 

明治二十六、七年(下)

 

 ここで少しばかり人形芝居について語りたい。結城・薩摩の二座が絶えた後、東京の人形芝居は単に寄席においてのみ観られる興行物になってしまった。それでも吉田国五郎や西川伊三郎などという人形使いの上手がいた。女では西川組之助、西川錦之助などもいた。それが皆それぞれ一座を組んで、市中の寄席に出勤して相応の入りを取っていたのである。殊に国五郎は人気があって、見台ぬけのケレンなどで喝采を博していた。猿若町の市村座のそばに文楽座があったが、行き立たないで亡びてしまった。

 

 そうしているうちに、義太夫の隆盛に連れて明治二十六年には神田錦町に新声館が建てられた。今日では活動写真館になっているが、元来は人形芝居の小屋として作られたもので、大阪の文楽と東西相対峙するような意気込みで、東京にいる太夫の主なる者はことごとく出勤することになった。人形使いは国五郎や伊三郎の一門がこぞって出勤した。東京ではこれ以上の人形芝居は観られないのであるから、開場の当時はなかなか繁昌した。わたしなども毎回見物に行ったが、太夫はよし、人形つかいは上手で、くだらない小芝居などを観るよりも確かに面白かった。二十七年の二月に逆櫓(綾瀬太夫)、堀川(播磨太夫)を上演した時などは、太夫を聴くだけでも一日の暇を潰す価値があるというので、毎日満員の大入りであった。妹背山の両床で、大判司の人形は国五郎、大夫は綾瀬、定高の人形は伊三郎、太夫は播磨という時にもやはり大入りであった。

 

 要するに二十七年頃がその全盛時代で、それからだんだんと流行らなくなって、ともかくも四、五年持ちこたえた末に解散してしまった。寄席でもだんだんに流行らなくなって、結城孫三郎のあやつり以外には、出使いの人形芝居はもう見られなくなった。人形芝居などというものは東京人の趣味に適さず、気の早い人はひと口に木偶の坊と蔑してしまうらしい。そうして、人間でも木偶の坊に劣る芝居のあることに気がつかないらしい。よい太夫が浄瑠璃を語って、よい人形使いが人形を働かせるという情味が、東京の観客にはだんだん判らなくなって来たらしい。義太夫を聴く耳はあっても、人形を見る眼はないらしい。たとえば、おしゅん伝兵衛の「堀川」のごとき、人形でなければどうしても本当の情味は出ないように私は思うが、 一般の観客はやはり生きた俳優を通してその情味を賞翫したいように思っているらしい。勿論、それは私の方が間違っているのかも知れない。わたしは大阪で文楽の人形を観た。たった二度観ただけであるから、その印象が薄いせいでもあろうが、私としては大阪の文楽よりもやはり東京の新声館の方がなつかしいような心持がする。

 

 わたしが新声館へたびたび行く頃には、毒々しい絵具などを塗り散らした活動写真の看板は見えなかった。勿論、その近所に電車などは通らなかった。その辺は神田としては静かな町であった。新声館へ曲がってゆく横町の角には、幾本かの幟が春風にゆるくなびいて、そこらの家の庭には木蓮や桜の花が白く咲いていた。わたしはそのころ流行り出した鳥打帽子をかぶって、その幟の下をぶらぶらと歩いて行った。そうして、人形の踊っている舞台をしずかに眺めていた。今から考えると、全く夢の世界である。私ばかりでなく、四十年前の人間は皆この夢の世界に住んでいたのではあるまいか。

 

提供者:ね太郎(2005.09.18)