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 【 山本笑月 明治世相百話 抄 】

山本笑月 『明治世相百話』 より

第一書房 1936. 中公文庫版による

 

芸を崩す名人越路 古老政太夫が「諭告」のこと

 

 東京の義太夫界は近年あまり振わぬが、明治三十年前後、即ち綾瀬太夫在世の頃までは、綾瀬はじめ播磨、津賀、生駒、つづいて女義の小清、素行、小土佐、綾之助など輩出し、そこへ大阪から越路(摂津大掾)、大隅、組太夫、長広、呂昇などの名流がおりおり上京、義太夫界は全盛であった。

 その頃すでに隠退していたが、筑後掾正流の家元で、斯界の古老かつ義太夫の総取締であった竹本政太夫は、越路一派が例の美音を振りまわし、見台をたたいて伸び上るような身振りに、前受け一方の語り口。東京の連中も追い追いかぶれて来たので大いに憤慨し、取締の格をもってその不心得を戒めた警告文を発した。それは二十年頃のことである。

 引札ぐらいの大きさ、四号活字で十五行ばかりの文章、まず厳めしく「諭告」と題し、義太夫の本分を述べて後、「追日悪弊盛に増長し、今に至っては見台上にて手踊同様に扇をもって面白く拍子を合せ種々形を崩して古き名人達の心も知らず長々敷勝手気侭に上手振を専一とし、軽業仕方噺に類せし醜態大阪表より発起し、女もこれに類し女子に有間敷上下を着し見苦しき事も不弁」うんぬんとずいぶん手厳しい。

 この政太夫の三味線を勤めた野沢語助翁は、晩年西紺屋町に住み、玄人けいこのみであったが、翁の談に「政太夫は特に行儀の正しかった人で、見台に向ったら首から下は動かさず、語り口も古格を守っていましたが、常に流行の風を歎き、節を崩すものは越路、三味線を崩す者は団平といい、あれはその人に限る芸風で、他人の真似るべきことでない、と戒めていたものです」と、当時綾瀬はこの政太夫に私淑して行儀も正しく、語り口も枯淡の裏に何ともいえぬ独得の妙味があった。

 

東京生れの人形芝居 西川伊三郎と吉田国五郎

 人形浄瑠璃は本場だけに大阪の文楽が一手占め、東京方は昔から振わなかった。しかし明治十五、六年頃には、初代西川伊三郎一座が人形町の定席に居付きの興行。

 一方、吉田国五郎が各所の寄席を打ち回って、いずれも相当の人気を集めていた。この国五郎は一種の名人で腕もあったが、けれんも相当用いたもので、早替りや太夫のふところ抜けなど見物をあっといわせた。

 東京生粋の人形浄瑠璃で文楽の向うを張ろうという計画、三十年頃神田の新声館に旗揚げした人形芝居がそれであった。太夫は綾瀬、播磨、岡、相生、柳適、祖太夫、花太夫、人形は吉田国五郎に二代目伊三郎の合併一座でまず総動員、狂言は「忠臣蔵」「吃又」「日向島」その他で大切りが「羽根のかむろ」。

 この時の綾瀬の「日向島」に国五郎の景清は、まことに見もの聴きものであった。大切りの国五郎の「羽根のかむろ」は、左が重三郎で小さい人形を巧みに使い、羽根をつく間の所作など細かく行き届いて活けるが如く、こればかりは文楽でも見られぬと大評判、そのくせ大入りとも行かず確か二回限りで中止、人形は東京の水に合わぬと決った。

 然るに三十五年八月文楽の名人桐竹紋十郎が上京して、明治座の興行は連日売切の盛況、この時も「日向島」に「野崎」、呼び物は先代萩の「御殿」と、初めての常磐津の「廓文章」吉田屋、これが当時の名人林中、文字兵衛、義太夫は全部東京で「御殿」は売りだしの伊達(今の土佐太夫)、美音で鳴らした時代とてもっとも好評、しかし稽古には紋十郎からだめの出通しで随分苦しんだとのこと、それに反して林中との申合せには双方ぴったり息が合って、一言も文句なしに楽屋でも不思議がったくらい。

 二の替りも八重垣姫や「朝顔日記」で紋十郎得意の出し物、林中は「乗合船」でこれまた十八番、後にも先にも常磐津での人形はこの時ばかり、それでぴったり息の合うところは名人同士、全くよいものを見ておいたと今でも思いだされる。

 

珍妙な当り芸列伝 へラヘラ坊や名代の円太郎

(中略)

 二十四、五年ごろ大阪から来た徳永里朝の「縁かいな」、これは本芸だがたちまち流行、花柳界はもちろん満都の人気集中、盲目の水々しい大坊主、紫の被布など着て少々いや味だが芸は立派なもの、人気中に退いて新橋で琴三味線小唄の師匠、時代ばなれの「徳永検校」と記した軒ランプ、このほか二流どこで朝枝の鮹踊り、年枝の即席茶番など柳派の珍物もあったが、さまではとお預かり。

 

難曲の名人綾瀬太夫 素読みのような酒屋のさわり

 東都の義太夫に重きをなした初代綾瀬太夫、大阪で鶴沢友次郎や長門太夫に仕込まれ、上京後やかましい政太夫に私淑したので、少しもけれん当込みのない真面目の芸風。義太夫を浮かれ節と間違えた連中の気には入らずとも、真の義太夫好きは襟を正して聴いたものだ。

 相撲好きで明治初年の花形力士相生と義兄弟、そこで相生太夫と名乗り、後相生が大関となって綾瀬川、自分も綾瀬と改名、[ね太郎注:綾瀬川改名は明治4年4月場所(小結)、大関昇進は明治5年11月、此君帖は改名 明治8年頃とする] 昔の儒者然たる容貌で愛橋はないが、上品な老人。語り物も渋いもの、皮肉なもの、「腰越の五斗」「宗玄の庵室」「日向島」「薄雪三人笑」など、選りによっての難曲ぞろい、越路でも大隅でもこの点は一目置いたろう。そのくせ「御殿」も「酒屋」も語る。これがまたさわりを売り物の太夫とは全然違った味を聞かせたので、わいわい連は変な顔。

 「宗玄の庵室」は得意の一つ、恋と怨みに悶ゆる宗玄の言葉など天下一品、陰惨の気に充ちて、二、三日は綾瀬の宗玄調子が耳についたくらい、一言一句に襟元がぞッとするほど凄味があった。「薄雪三人笑」も難物の笑いの件が特に聴き物で真に迫り、当然芝居で見た諸名優の演技よりもこの人の方が遙かに感興が深かった。あたかも円朝の素話が芝居以上に面白かったのと同じ程度。

 「日向島」は特にこの人の呼び物、しかし大物だけに寄席ではあまりださなかった。当時吉田国五郎の人形と双壁、名人団平以来まずこの人のもの。以上の語り物は綾瀬なき後再び聴くを得ないのは惜しいものだ。一方「酒屋」などを聴いても後半のさわり、待ってましたというところをさらさらと平々淡々、見台一つたたかずただの本を読むように語って行く。それでも聴衆は煙に巻かれてジーッと耳をすましたから妙だ。

 

デン界の名物競べ 播磨の毛剃と新呂の吃又

 義太夫華やかなりし明治の中頃、綾瀬についで大看板の播磨太夫、赭ら顔の堂々たる体格、本場仕込みの芸ではないが生来の美音で声量たっぷり、わざと禁物の天ぷらを存分に食って高座へ上ったという。「十種香」や「御殿」で鳴らした外に、十八番は「毛剃」の柳町か元船、確かに明治デン界の名物。

 団十郎と違った味で「毛剃」の九州弁はこの人独得の至芸、訛り工合から音声の扱い、太い調子、全く堂に入って聴衆を魅了した。それだけに自信も強い。あるとき烏森の寄席玉の井でこの「毛剃」を語ったが、なにが気に入らぬか客の内からしきりに弥次る。堪りかねた播磨、見台を押し退けてその客を睨みながら「木戸銭を返すから出てくれ」と大喝し、また悠々と語り出したには、さすがの弥次も度胆を抜かれた。

 この人亡き後、この浄瑠璃は再び聴くを得ない。

 次に中堅どこで、腕利きの新呂太夫、後に祖太夫、前受けはしなかったが熱演で聴かせた。唯一の呼び物は「反魂香」の吃又、又平の吃りに特別念入りの引きどもで一言一句五体をふるわして絞り出す必死の苦しみ、満面の汗は滝の如く拳を握り膝を叩き、果ては見台を押倒さんばかりの大車輪、息を引いて目を白黒する工合、餅が咽喉へつかえた形はあったが全く真剣で、この一段は当時の珍品。

 本芸よりも交際上手で相当顔を売った花太夫、ふと茶番気を出して大胆にも声色入りの珍義太夫、新声館の人形に忠臣蔵五段目の口、千崎を団十郎、勘平を菊五郎の声色で語ったには驚いた。さすがに鎗が出て声色は封じられたが、寄席やお座敷ではおりおり用いた。愛婿のつもりが全くのぶち壊し、その後三十間堀へ富貴亭という料理屋を開いて相当繁昌、おかげでこの難物も引退となってデン通連やれ嬉しや。

 

硯海太夫と鶴彦翁 義太夫と一中節の掛合

 政客中の粋人大岡硯海(育造)先生、若いころ演説の練習に熱中、その声ならしに習ったという義太夫が、後には得意の隠し芸、手ほどきの師匠は判らぬが、明治二十五、六年頃には三味線の古老野沢語助翁について、演説以上に熱心のお稽古。

 語助は明治初年の義太夫界の大御所竹本政太夫の三味線で鳴らした人、当時京橋西紺屋町に住んで玄人専門の稽古、色の白い上品な白髪の老師匠、稽古は相当やかましく、お弟子は大抵へとへとになって引き下る。もちろん素人は断わったが、大岡先生は特別です、と折々の出稽古。銀座にあった講談席銀座亭の定連で、講釈を聴くのが唯一の楽しみ、その語助が硯海太夫の義太夫はそうとう推称していた。

 一方、大倉鶴彦男の一中節は当時有名の持芸、だが我々の耳には縁が遠い。然るに三十三年の春、どうした風の吹回しか、大岡さんの主催で鶴彦翁の一中を聴かせるとの御案内、場所は芝の紅葉館、聴き手はほんの内輪で、我々の先輩五、六人、ほかに同館の女中が総出でずらり、大広間の正面へ緋の毛氈に左右へ燭台。まず皮切りが大岡さんの義太夫、これこそ本当に待ってました、と一同固唾を呑む。

 語り物はお得意の「陣屋」かと思うと、女義でお馴染の加賀見山の「長局」、女中連への御馳走らしかったが、さすがに叩き込んだ名調子、語助のいとと相まってしんみり聴かせ、女連は総泣き。つぎに一中と掛合で雪の常磐「関所の段」、大倉さんの常磐に三味線は有名のおひろ(都一広)、宗清は硯海太夫に語助、これで初めて多年の渇望を満たしたわけだが、大倉さんが両手を膝に首を振り振り、あの童顔を一層たわいなく嬉しそうに崩す工合、お年に似合わぬ艶々しい声柄。巧拙のわからぬ我々まで感涙という奴がほろほる。

 

女芝居と娘義太夫 明治時代の特産物

 明治の芸界をめぐる女性群と申せば、女役者と娘義太夫とのこの二つをまず時代の特産物として挙げることになり、今日では過去の芸術となって僅かにその名残りを芸界の一隅に止むるのみですが、明治中期における彼らの華やかな人気と、男子も及ばぬ努力とは、全く特筆に値する。その技芸から見ても、多寡が女と侮ると大違い、実際割引なしに感心させられる技芸の持主も多かった。そこでこれらのお話となると、なにぶん纏まった記録はなし、僅か三、四十年の昔が夢のように薄ぼんやり、思い出すのがひと苦労である。ことに男子禁制の女護の島、風の便りに似たような追憶談に過ぎませんが、まず女役者について申し上げる。

 

初期の女義太夫

 タレ義太とか娘義太夫とかいえば安く聞えるが、正式にいえば女義太夫、これがまた明治の中頃には今から想像も及ばぬ全盛。若手の仇っぽいのが花簪に肩衣姿、客席を横目でにっこり、これを当て込みに義太夫そっちのけで押し掛ける連中が毎夜の大入り。しかしこれにも女役者同様、男まさりの上手も現われて、真の聴客を喜ばせたことは申すまでもない。元来、女義太夫は文化文政頃にも相当人気のあったものだが、一時衰えて明治の初年、本場仕込みの竹本東玉や、名古屋の竹本京枝が上京して復興した、即ち女義界の二元老である。その後いまも壮健である竹本綾之助が肩揚げの天才少女、かわいらしい男髷で打って出たのがそもそも人気の起った始め。その功績は女義中でまず第一といってもよいくらい。年こそ違うが、前の二元老と共に初期の三幅対となっている。

 ところで、明治十五、六年から二十三、四年頃の女義界は、東玉、京枝を大将として、三福(後の素行)、清花、小政、小住、小伝、花友などに綾之助、これが第一期。つづいて、小土佐、小清、錦、越子、住之助、鶴蝶、熊梅などに三福、綾之助を持ち越して、これが第二期の花形。その後は大小の真打ぞろぞろ輩出。誰がなにやら、ただもう賑やかに人気の渦を巻いていた。

 

肩衣が後日の問題

 その初期時代、東玉、京枝はすでに若手に語らせて、自分たちはイト専門、東玉は小作りのお婆さん、京枝は少々むずかしい顔つき。この人たちが語っていた時代までは肩衣というものを着けなかったが、どうも見た目が淋しいというので、男太夫のように肩衣を用い出したのは、そもそもこの京枝が始まり、ともいうし、三福、清花の両人が皮切りともいう、ともかくそれは明治十三年頃で、爾来、黒繻子や紫の華美な肩衣を着けて、一段と風情を添えることになった。

 ところが、このことは義太夫界の問題となって男の方から槍が出た。それは二十二、三年頃のことで、当時の古老竹本政太夫は東都総取締の資格で「諭告」というものを発表し、一般の義太夫が古格を失い大阪の人気者流の風を学び、見台に向って伸び上ったり踊ったり、声を弄び節を崩してまで人気に投ずるは以ての外ときめつけた上、ちかごろ女義太夫のくせに肩衣を着して高座に上るは女にあるまじき醜態と、手厳しく戒めたが一方も商売、はい左様ですかとは決していわず、せっかくの「諭告」も水の泡で、そのまま着通し今もって脱がない。

 

花形連の評判

 そこで当時の花形の評判だが、もちろん贔屓贔屓で寸法が違うから、うっかりした口は利けないが、二元老は別としてざっといえば、小政は東玉の秘蔵弟子でしんみりとした語り口「吉田屋」が最も聴き物で女義中の一等品、調子は低い方。三福は声よりも節で渋い芸風、「寺子屋」や「野崎」で鳴らした。綾之助丈はどなたも御承知、無類の美音で幅もあり、万人向きのお誂え、およそ女義の売物なら「御殿」「酒屋」「十種香」「太十」などことごとくこの人の薬篭中のもので、そのほか綾瀬仕込みの渋いところも相当に聴かせたのは、なんといっても人気の王座を占めただけの価値はあった。小住は声もあり、節も大阪の本場仕込みで確かなもの、なかなかの人気で後年牛込神楽坂の寄席笑楽亭を買い取り、わら店亭と改めて斯界に幅を利かせた。小土佐は名古屋出の美人で二十年上京、翌年神田の小川亭で初看板を上げ、たちまち人気の中心となった。住之助は小住の門下で住八といった若手の随一。越子は小肥りの丸顔で、一時は綾之助の向うを張ったが及ばなかった。錦はお相撲といわれたほど肥大の体格、確かに貫目はあったが、声も太いばかりで艶 がない。熊梅もこれに似た肥っちょで愛嬌のある女、当時人気力士の横綱小錦八十吉と浮名を立てて、岡焼連を騒がせたものだ。

 以上の面々は三絃の方も達者で、たいていは弾き語り。

 

小住等の正義派

 綾之助についでの人気者であった竹本小土佐は、前にもいう如く名古屋の生れ、同市の女義杣吉、照吉などについて七、八歳の頃から義太夫の稽古、十一歳で照吉の一座に加わり、早くも高座に上って好評を博し、土佐太夫に知られてその門下となり、小土佐と名乗った。その後、大阪神戸等を回り、二十年二月土佐太夫と共に上京し、麹町の万長で初お目見得、師匠の前を語ってすこぶる好評、翌年たちまち真打となって小川亭の初看板、以来めきめき売り出したが、美人の上に愛嬌があり、高座で簾が上るとまず客席を見渡してにっと笑顔、大抵それで悩殺される。

 当時小住はひと足先に大看板、門下の住八を住之助と改め、十三歳で真打に押し立て、師弟もろとも人気を呼んで一方のぱりぱり、そのころ女義太夫はすべて睦派と称する寄席の一派に属し、「五厘」という世話人があって、席の割振りをやっていた。随ってこの「五厘」はなかなか勢力があって、付け届けでも悪かったり機嫌を損じたりすると、人気があっても芸がよくても好い席へ回さない、というようなわけで出方は泣かされた。

 利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに二十五、六年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが。なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。

 

小清と呂昇

 その後の大看板といえばまず竹本小清、艶や愛嬌で人気を集める連中と違い、女義といっても男まさりの芸一方、鶴沢清六の娘で父の仕込みに十分鍛え上げた腕前は、当時デン通を驚かした。容貌も男のよう、薄い毛があって色の浅黒いきりっとした顔立ち、平生の話し声までが蔭で聞いていると太い声で、まるで男。語り口には幅もあり貫目もあって、これまた女とは思われず、聴衆も真の義太夫好きの人たち。満場水を打ったように静粛に聞き入って、他の女義席とは全然異なった空気である。この人も弾き語り、得意は「陣屋」「岡崎」「寺子屋」など、ことに「鰻谷」はこの人の極め付で呼び物の一つ、前後を通じて女義界の名人であろう。

 降って三十五、六年以後の花形というと、組太夫の弟子の組春、朝太夫門下の朝重、そのほか愛之助、新吉、一二三、八重子、京子、京駒、昇之助、昇菊などの面々で、これが明治の末年まで続いたが、追い追い下火となり、往年の人気は今やこうした夢物語。その間には大阪の長広や東猿が来たり、近くはおなじみの呂昇一座が時々上京して有楽座へ掛る。呂昇は例の美音と、素直で判りのよい語り口が東京ッ子にも大一受けでいつも満員の盛況。その呂昇もすでに過去の人となって、東西共に女義界は大切の簾が下りた。

 

定席と堂摺連

 最後に当時の女義太夫の定席を挙げると、第一が茅場町の宮松、ここで看板を上げれば一流の真打という相場がきまる。つづいて神田の小川亭、鍋町の鶴仙、花川戸の東橋亭、両国の新柳亭、芝の琴平亭など一流の席で賑わったものだ。瀬戸物町の伊勢本、本郷の若竹なども一流組だが、時々色物と交代する。下谷の吹ぬき、牛込のわら店、和泉橋の和泉亭、麻布の福槌などは黒っぽい客が多かった。そのほか場末まで加えると二十何軒は女義太夫で占めていた。これが大抵は毎夜の客止め、お気の毒さま明晩お早く、と木戸で断られて、遅出の客はすごすご、山の手は書生さんの縄張りで例の堂摺連という名物の発生したのが二十三、四年頃のこと、これがまた大いに景気を煽った。

 いちはやく高座前へ陣取って目あての女義を待ち構え、急所急所でどうするの連発、そのうえ人間の手の掌とは思われぬカンカン響く手拍子でサワリも何もめちゃめちゃ、簾が下りるとドヤドヤ退席してその女義の腕車の後押し、掛持の席へ付いて回って忠義を尽すが一向有難がられぬ代物、なにしろ客席の賑いは大したもので、満員を通り越し、歩板の上から階子段の下まで押し合いへし合い、命からがら聴いて帰るような始末。ほかに娯楽趣味の乏しかった頃とはいえ、随分女義党は多かった。随ってその頃の新聞に出た「今晩の語物」は女義党の虎の巻、毎朝待ち兼ねて目を皿のようにしたものです。

                                (昭和八年五月)

 

提供者:ね太郎(2005.09.04)