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【 此君帖 (全) 】

 
第一巻 第二巻 第三巻  附録淨瑠璃史拔萃  人名索引
注:略歴は「義太夫年表 大正篇」等により補足した。
 
   
第1巻表紙
其日庵題字
奥付

 

 
 操芝居は昔から大坂の名物で、道頓堀に東西の櫓を竝べた盛況は再び見られないにもせよ、現に文樂といふ常小屋があつて竹本の一流を傳へ、其道の名人上手も輩出し、一般の市民も一口淨瑠璃と親の家を知らぬ者なしと云ふ有樣で、流石義太夫節發祥の土地柄と頷かれる。
 今回竹本淨瑠璃の作者として大功ある近松翁の二百年忌に際し其の記念の一端として、往古に於ける斯道の名家及文樂座を中心とした現代の太夫三味線彈の肖像略歴を集めて一册子を編み、同好者に頒つに至つたのは、誠によい思附である。
 文樂座は日本唯一の操芝居であり、義太夫節の本山宗家ともいふべきで、斯樂の盛衰興亡を隻肩に擔ふ大責任をもつて居るのであるから、之を機として一座の人々に一層の奮勵努力を望むと共に一般市民の擁護援助によつて長く此座の榮えんことを願ふ次第である。
大正十二年五月 藤井紫影

 

 
 淨瑠璃は日本特有の音曲、人形芝居も亦世界無比の妙技であつて共に尊重すべきものである。故に其の歴史沿革及び世々の巨匠名人の傳記などは記録にとゞめて、千載不朽のものたらしめねばならぬのだが、古人にして茲に意を用ひた人は少く、僅かに齋藤月岑の『聲曲類纂』四代目竹本長門太夫の『淨瑠璃大系圖』其他二三の書册はあれども、これ丈けではまだ分らぬ事が餘程多い。早い話が例へば近松門左衞門や竹田出雲の如き人々の傳記を見たいと思つても、完全なものは一つもないのである。併し往事は追ふも及ばず、今からでもよいから爰に想ひを潛めて、斯道に關係のあつた人々の傳記及び斯道の事蹟は細大洩さず記録にとゞめて書册を編み、以て後昆に傳へたいものてある。差當り因會などでも之を一部の事業として宜しく經營すべきである。茲に竹本叶太夫、近松翁が二百年忌を記念するに當つて、予が右にいふ事業の一部分とも見るべき斯道にたづさはる人々の小影に略傳をそへて帖册とし、以て同好者に頒たんとす。誠にやさしい志である。よい考へである。予は大坂朝日新聞の記者となつて以來、生來好きな斯道に接近するやうになつたを幸ひ、飽まで之を誘掖奬勵せんとして念々止まず、微力を奮ふこと茲に年あり、多くの偉人名匠に親炙して得る所も多かつた。叶太夫子亦交友の一人である。のがれぬ縁で此の一文を綴り、子が此の美擧を推賞すると共に、世の同好者に此書の繙閲をすゝむるのである。
大正十二年五月 岡田翠雨

 

自敍
 
 我淨瑠璃界に於ける名人上手は、井上播磨掾、宇治加賀掾以來、大坂一流の淨瑠璃の節を確定した、元祖竹本義太夫師を首めとして、今日に至るまで其員は中々に多く、吾々は常に其人々の遺風を慕ひ、其藝品を欽仰し、共功績を讚へて、追懷敬慕の念深きことは、門外の人々の想像を許さない程で、眞に自家の祖先より以上に尊崇敬拜するものであります。
 されど往古に溯りては其悌を偲ぶべき寫眞は勿論、偶々畫像は有りとしても其數甚だ稀れに、或は自家の祕藏として愛重せられるのであるから、容易に一覽するの機會が無いのであります。編者は年來之れを遺憾とし、せめては現存せる同人の略歴及び寫眞帖にても編成して後世に殘し置かばやとの念止み難く、昨春文樂座の樂屋に於て之れが志望の一端を洩した處が、即座にして大多數の贊成を得初めて本帖を編成するの曙光を認め其計畫を進むるに至りました。
 編者は吾が因會全員の寫眞及其略歴を蒐集し、編成するのが本來の希望であります。けれども其人員甚だ多く、之れが完成を期するには、到底一二年の短日月を以てしては成し難いのであります。よつて止むなく今回は同志者のみの分を蒐集掲載することに致しました。
 さうして前に述べた通り、編者の初一念は、故人を偲ぶといふことが、最大の目的でありますから、せめては其萬分一の意志を貫徹したいと思ひまして、先第一に故人の畫像と寫眞とを集める事に着手いたしました。知己を便り蔓手を求め其子孫を歴訪し、或時は寺院に詣して過去帳を繰り、或時は墓所に到つて碑石を探ぐる等、東奔西走して調査を遂げたのでありますが、中には甲乙丙丁其所説を異にするものがあつて、之れが採否に苦しむものは、暫く其近きを取り遠きを捨て、掲載し、以て識者の是正を俟つことゝ致しました。
 此事に就いては門の内外を問はず、諸士後援の勞固より與つて力あるのでありますが、取分け豐竹古靱太夫、竹本錣太夫の兩氏が特に編者を助けて懸命に材料を蒐集提供し、陰に陽に編者を鼓舞鞭撻せられたる功多く、茲に一ヶ年半を經過して本帖の作成を告げ、同志者に頒つことが出來ました。
 時恰も我淨瑠璃界に拔群の偉績ある、大文豪近松翁の二百年忌に相當し之れを記念するも、洵に奇しき因縁であります。
  附言故人は死去年月日を以て現存の方は入門年月日に依つて其順位を定め、師とか君とかの敬稱を略しましたから肯て茲にお斷り申して置きます。
大正十二年五月 竹本叶太夫識す
 
 
此君帖第一巻目次
  伯爵
題字 柳原義光閣下
  東京
題字 杉山茂丸先生
  文學博士
序文 藤井乙男先生
  大坂朝日新聞社
序文 岡田茂馬先生
自敍 竹本叶太夫

 竹本筑後掾筆蹟1
 竹本越前大掾受領書2
 七功神之圖3
 古畫人形浄瑠璃之圖4
 竹本筑後掾5
 筑後掾晩年肖像6
 豊竹越前少掾7
初代竹本染太夫8
四代竹本染太夫9
三代鶴澤友次郎10
二代鶴澤清七11
三代豊澤廣助12
初代鶴澤綱造13
 竹本越前大掾14
三代鶴澤清七15
六代竹本染太夫16
三代竹本津賀太夫17
七代竹澤彌七18
五代竹本春太夫19
初代豊竹古靱太夫20
三代豊澤濱右衛門21
七代竹本染太夫22
六代竹本綱太夫23
五代鶴澤寛治24
初代豊澤新左衛門25
二代鶴澤鶴太郎26
初代鶴澤清八27
六代野澤吉彌28
六代竹本中太夫29
二代鶴澤勝次郎30
四代竹本住太夫31
二代鶴澤叶32
 竹本長尾太夫33
七代鶴澤三二34
五代鶴澤友次郎35
 竹本路太夫36
二代豊澤團平37
 豊竹綾太夫38
 竹本織太夫39
四代鶴澤文造40
 鶴澤紫騰41
初代竹本綾瀬太夫42
二代鶴澤勝七43
先代竹本源太夫44
五代豊澤廣助45
四代竹本播磨太夫46
 竹本組太夫47
六代豊竹時太夫48
五代竹本彌太夫49
初代豊竹呂太夫50
五代竹本住太夫51
二代鶴澤重造52
二代竹本綾瀬太夫53
五代野澤吉兵衛54
初代竹本七五三太夫55
七代竹本綱太夫56
三代野澤語助57
 野澤吉松58
六代豊竹駒太夫59
三代竹本大隅太夫60
二代竹本勢見太夫61
五代鶴澤文藏62
五代鶴澤仲助63
三代竹本大嶋太夫64
九代竹本染太夫65
八代竹澤彌七66
二代豊澤廣左衛門67
二代豊竹柳適太夫68
 竹本摂津大掾69
三代豊澤富助70
四代豊澤廣作71
八代鶴澤三二72
六代豊竹岡太夫73
六代鶴澤清七74
八代竹本むら太夫75
三代豊澤團平76
 野澤吉勝77
三代鶴澤清六78
五代鶴澤才治79
五代竹本播磨太夫80
三代竹本南部太夫81
初代豊澤富十郎82
 
此君帖第二巻目次
五代竹澤權右衛門1
 豊澤團翁2
 名庭絃阿彌3
 豊澤松太郎4
 鶴澤勝藏5
五代鶴澤勝鳳6
 野澤喜左衛門7
 鶴澤紫漣8
 竹本朝太夫9
五代鶴澤文駄10
二代竹本染子太夫11
四代鶴澤勝七12
二代豊竹呂太夫13
四代豊澤濱右衛門14
九代竹澤彌七15
七代豊竹時太夫16
六代野澤吉兵衛17
 鶴澤朝太郎18
三代竹本越路太夫19
三代鶴澤重造20
二代豊澤新左衛門21
 竹本緑太夫22
七代野澤吉之助23
三代竹本津太夫24
四代鶴澤燕三25
三代豊澤廣左衛門26
 豊澤團之助27
六代鶴澤友次郎28
五代豊澤仙糸29
四代豊竹君太夫30
 竹本菅太夫31
六代竹本彌太夫32
二代鶴澤寛治郎33
 豊澤助三郎34
 鶴澤司好35
二代竹本春子太夫36
 野澤督三37
 豊澤雷助38
三代鶴澤三造39
 竹本操太夫40
三代鶴澤鬼勇41
 豊竹湊太夫42
 竹本叶太夫43
五代豊澤猿之助44
 豊澤高助45
七代豊竹駒太夫46
三代竹本伊達太夫47
二代豊竹古靱太夫48
五代竹木錣太夫49
二代豊澤豊之助50
四代鶴澤叶51
三代野澤吉三郎52
三代鶴澤寛三郎53
 野澤吉吾54
 豊澤團左55
 鶴澤玉之助56
 豊澤富太郎57
四代竹本雛太夫58
 竹本角太夫59
 鶴澤鶴次郎60
五代鶴澤勇造61
八代野澤吉彌62
四代鶴澤綱造63
 竹本源太夫64
 竹本谷太夫65
五代竹本さの太夫66
 豊澤團友67
五代豊澤猿糸68
 竹本其太夫69
 野澤吉繁70
 竹本綱尾太夫71
 鶴澤勝友72
四代竹本殿母太夫73
三代豊澤丑之助74
七代竹本八十太夫75
 竹本越の太夫76
二代鶴澤鱗糸77
九代野澤吉五郎78
六代竹澤團六79
 竹本谷登太夫80
 竹本浦太夫81
 豊澤廣榮82
 野澤吉助83
 豊澤源吉84
 竹本鏡太夫85
 竹本浪花太夫86
三代野澤吉作87
 竹本彌國太夫88
四代野澤勝市89
四代竹本大島太夫90
 竹本彌納太夫91
 野澤吉調92
 竹本米太夫93
二代野澤歌助94
 野澤勝平95
 竹本生駒太夫96
 豊澤新造97
三代鶴澤燕四98
三代野澤錦糸99
 鶴澤森之助100
 
此君帖第三巻目次
 竹本淀太夫1
四代竹本茂太夫2
四代鶴澤清六3
九代竹本町太夫4
四代野澤八助5
二代豊竹小富太夫6
五代豊竹和泉太夫7
 竹本薫太夫8
四代豊澤富治9
 豊澤廣太郎10
七代豊竹嶋太夫11
 鶴澤友造12
 竹本静太夫13
五代竹澤宗七14
三代竹本鶴尾太夫15
 竹本喜太夫16
三代鶴澤友之17
 竹本敷島太夫18
 竹本春島太夫19
 鶴澤芳之助20
 鶴澤勝若21
 竹本春日太夫22
 竹本榮太夫23
 豊澤仙松24
 竹本春次太夫25
 竹本明石太夫26
 鶴澤玉脇27
 竹本源路太夫28
 鶴澤友平29
三代豊澤猿二郎30
 野澤吉右31
 鶴澤寛六32
 鶴澤友若33
 鶴澤鶴四郎34
 竹本越穂太夫35
 豊澤三郎36
 竹本三瀧太夫37
 竹本出羽太夫38
 竹本要太夫39
 豊澤新吉40
 竹本三好太夫41
 竹本鱗太夫42
 竹本南枝太夫43
 野澤吉一郎44
 野澤稻丸45
 鶴澤淺造46
三代竹本相生太夫47
二代豊竹つばめ太夫48
 鶴澤寛市49
 鶴澤綱之助50
 竹本越登太夫51
 豊竹富榮太夫52
三代豊澤新三郎53
 野澤兵市54
 豊澤猿太郎55
 野澤八造56
二代竹本文太夫57
 竹本春喜太夫58
 鶴澤友作59
 竹本源福太夫60
 鶴澤叶太郎61
 鶴澤清二郎62
 鶴澤友二63
 野澤喜代之助64
 竹本陸路太夫65
 豊竹辰太夫66
 竹本大典太夫67
 鶴澤友衛門68
 野澤孝太郎69
 竹本春雄太夫70
 竹本淀路太夫71
 野澤兵三72
 竹本長壽太夫73
 豊竹靱島太夫74
 野澤吉左75
 鶴澤寛若76
 野澤吉房77
 豊竹呂智太夫78
 鶴澤清童79
 野澤吉虎80
 鶴澤清丸81
 竹本越名太夫82
 竹本春若太夫83
 竹本春香太夫84
 豊竹照太夫85
 豊竹う太夫86
 野澤勝造87
 竹本佐太夫88
 竹本雀太夫89
 竹本龜久太夫90
 竹本津若太夫91
 竹本伊達喜太夫92
 鶴澤友吉93
 豊竹千鳥太夫94
 鶴澤清福95
 鶴澤清三郎96
 竹本若葉太夫97
 鶴澤福太郎98
十一代鶴澤小庄99
 鶴澤友駒100

 

附録淨瑠璃史拔萃

附録 淨瑠璃史

 

 吾が竹本義太夫師を元祖とする義太夫節の沿革は、諸賢の既に熟知せられてゐる所とは存じますが、此の寫眞帖を編成するに中り、淨瑠璃史を載せるのも強ち無意義なことではないと思ひます。よつて極く簡單平易に記すことに致しました。素より各種の書册より拔萃せるもの、杜撰の譏は甘受致します。
××××××
 
◎ 古書に、享録四年駿河國宇津の山邊の旅の宿で小座頭に淨瑠璃を語らせたとある。して見れば淨瑠璃の起つたのは、享録年代より更に以前にあると思つてよい。扨て語る人は主に座頭であつて三味線はなく、扇子で拍子をとつたのである。
◎ 夫から天文年間を過ぎ、永録年代に及んで、原始の淨瑠璃に一變化を與へたものは、三味線の傳來である。永祿時代に三味線が日本へ初めて渡來したそうであるが、淨瑠璃に合せて彈き始めたのは何時頃からだか明らかでない。
◎ 慶長の頃、京都に琵琶の名手瀧野に澤角と云ふ二檢校があつて平家物語に琵琶を和する樣に、三味線を淨瑠璃に合せて彈き出した。
◎ 澤角の門人に目貫屋長三郎と云ふ人があつて、攝州西宮の傀儡師引田某と語り合ひ、淨瑠璃に合せて人形を操ることを始めた。抑もこれが人形淨瑠璃の發端であるらしい。
◎ 程なく六字南無右衞門、左門よし高などと云ふ女流の淨瑠璃語りが現れ、京都の四條河原で操芝居を興行した。これが女淨瑠璃の先祖である。
◎ 江戸の淨瑠璃の祖は、薩摩淨雲と云つて、京都澤角檢校の門人である。出生地は泉州堺、始め薩摩太夫と名乘り、後剃髮し淨雲と號した。寛永年代の初めに江戸へ下つて一派の節を語り出した其後受領して薩摩掾と稱した。豐太閤の御前で操りを御覽に入れたこともある。
◎ 淨雲は江戸で淨瑠璃を弘め門下に才物を出した。即ち丹後太夫、丹波太夫、源太夫、長門太夫の四人であつた。其の内虎屋源太夫が上京して來た。丹後太夫も上京し、又源太夫の門人喜太夫や伊勢島宮内等も京都に上り、四條河原で興行した。源太夫の門下から井上播磨掾と山本角太夫の二名匠を出した。即ち淨雲は江戸の淨瑠璃を創め、源太夫は京都のそれを再興し、播磨は大坂のそれを開拓したのである。
◎ 井上播磨は京都の産で、寛永の頃受領して井上大和掾藤原要榮と云ひ、後播磨掾と改稱した。
◎ 山本角太夫も亦一流を拓き、角太夫節とて世に行はれた。延寶五年十二月受領して土佐掾と名乘つた。
◎ 源太夫の門人伊勢島宮内の弟子に宇治嘉太夫と云ふ人が居て、角太夫と同時に受領し、宇治加賀掾藤原好澄と稱した。加賀掾は紀州宇治の人で四十一歳の時京都に出で宮内に就いて淨瑠璃を學んだ。
◎ 延寶三年宮内の名題で大看板を上げ、新作『虎遁世記』を語つた近松門左衞門は此人の爲に二三筆を執つた。『世繼曾我』は即ち其一である。當時加賀を評して上手と呼び、播磨を評して名人と讚へた。
◎ 播磨掾は大坂で貞享二乙丑年五月十九日享年五十四歳で突然病歿した。
◎ 加賀掾は京都で寶永八辛卯年正月廿一日行年七十七歳で逝去した。
◎ 竹本義太夫は攝津國東成郡四天王寺村南堀越で生れ、名を五郎兵衞と云ひ、農を業としてゐた。性來淨瑠璃を好み、播磨掾のイキを慕うて、其門人清水理兵衞と云ふ人に師事し、後宇治加賀掾にも從ひ、鍛錬を重ねて、遂に義太夫節の一流を立てた。是が斯道の元祖である。
◎ 義太夫は初め清水理太夫と名乘つて宇治加賀掾のワキを勤めてゐた頃、加賀掾が益友竹屋庄兵衞と不和となつた。是に於て庄兵衞は義太夫の五郎兵衞を誘うて遠く西の宮島へ下り、興行して成功した。そして竹屋庄兵衞と共に大坂に上り、道頓堀西の芝居で操り興行を始め、竹屋庄兵衞の竹を採つて、名を竹本義太夫と改めた。時に貞享二年二月朔日。これが竹本座後に筑後の芝居(現今浪花座の所)の創めである。語り物は近松が加賀掾の爲に作つた『世繼曾我』で竹本頼母、多川源太夫等がワキを勤めた。
◎ 三味線は尾崎權右衞門是も此時竹本の竹と澤角の澤とに因んで尾崎を竹澤と改めた。其他鶴澤友二郎、人形には名人吉田三郎兵衞、辰松八郎兵衞などが居た。此が世間の喝釆を博し、義太夫の名は四方に響いて大評判となつた。
◎ 近松門左衞門は是より先、井上播磨掾、宇治加賀掾のために淨瑠璃を作つた。又義太夫の爲に三十四歳の時,即ち貞享三年二月に、『出世景清』を初めとし其の作する所百有餘段に及んだ。享保九甲辰年十一月廿二日行年七十二歳で永眠した。(今大正十二年は其の二百年忌に當る)
◎ 義太夫は元緑十四年五月六日受領して、竹本筑後掾藤原博教と稱した。正徳四甲午年九月十日行年六十四歳で世を去つた。
◎ 豐竹若太夫は大坂島の内で生れ、河内屋勘兵衞と云ひ、元祿十年義太夫の門弟となり竹本釆女と稱した。元祿十二年師匠と離れて豐竹若太夫と改名し、同じ道頓堀の東で興行した。外題は『堺土産心中涙の玉井』であつた。三味線は竹澤東四郎、野澤喜八、人形は若竹東二で各々技を競ひ、是亦大人氣を占めた。これが豐竹座(若太夫の芝居とも云ふ、今の朝日座の所)の創立である。
◎ 作者では竹本の近松に對し、豐竹に紀海音が現れたのであつた若太夫は享保三年正月受領して豐竹上野少掾となり、再び受領して越前少掾藤原重泰と稱した。即ち豐竹の先祖である。明和元年九月十三日八十四歳の高齡で歿した。
◎ 二代目竹本義太夫は若太夫と同門初代義太夫の門人で初め中紅屋長四郎と云つた。若太夫に從つて京都興行に加つた後、大坂に歸つて名を若竹政太夫と改め、曾根崎新地で興行した。師匠義太夫がその語り振りを聞いて感歎措かず、呼び還へして竹本政太夫と改名させた。義太夫歿後師名を襲ひ二代目竹本義太夫と名乘つた。後受領して竹本播磨少掾藤原喜教と稱した。延享元甲子年七月廿五日五十四歳で逝去した。
◎ 竹田の芝居は延享年間に竹田出雲が座本となつて創めたもので(現今辨天座の所)太夫には竹本座の竹本内匠太夫、豐竹座の豐竹此太夫等入替り櫓下となり、其他二代目竹本政太夫も居つて是亦盛大を極めたのであつた。
◎ 寛延、寶暦年代に竹本座では竹本内匠太夫受領して大隅掾(寛延元年)又大和掾(寶暦元年)となり、三味線竹澤甚三郎、大西藤藏、人形には吉田文三郎、桐竹助三郎等、又豐竹座では豐竹此太夫が筑前少掾と受領し(寛延二年)三弦竹澤文五郎、鶴澤重次郎、人形には豐松藤五郎、若竹東二郎等が居た。
◎ 江戸の義太夫節は享保の始め頃、大坂の竹本座に居た辰松八郎兵衞が江戸へ下つて半太夫座を買ひ、之を辰松座と改め、大坂の太夫を迎へた。竹本國太夫、豐竹島太夫等が江戸へ下つたのが最初で、享保十九年には若太夫に學んだ新太夫事豐竹肥前掾藤原清政が江戸へ下つて辰松座へ勤めてゐたが、元文年間堺町に芝居を設けた。此れが肥前座である。延享四年大坂の竹本座から『菅原傳授手習鑑』を傳へて興行し、百餘日も大入りで、肥前掾は神田紺屋町に家屋敷を買求めた。人之を稱して菅原屋敷と呼んだ。肥前掾は寶暦七年正月五日享年五十四歳で歿した。
◎ 堀江市の側の芝居は明和三年豐竹此吉と云ふ人が豐竹筑前少掾(此太夫)と相圖つて、自ら座本となり創めたもので、寛政九年まで三十二年間持續して繁盛を極めた。
◎ 茲に特筆すべきは、初代義太夫死去の翌正徳五年十一月朔日初日、竹本座で演じた近松作『國性爺合戰』で、古今に絶した大當り足かけ三年越の十七ケ月も興行せられたことである。
◎ 享保、元文を經て延享、寛延年代に入ると義太夫節の最も盛大を極めた時で、彼の毒[獨]參湯『忠臣藏』『菅原』『千本櫻』等皆此時代に現れたのであつた。
 
 以上は淨瑠璃史の大略でありますが、義太夫節が如何に盛大を極めたかと云ふ事は到底今日の想像も及ばない所であります。その因つて來る所を探ねますと、門左衞門、海音、出雲等の如き大文豪大作者が續々現れて、その院本に今迄行はれて居なかつた材料を用ひて至極平民的となし、一般民衆の生活にしつくりと當てはまつた作品を澤山提供して、淨瑠璃界に新機軸を出した事と、義太夫、若太夫其他の演者が節附なり、言廻しなりに各流の長を採り短を捨て、一派の義太夫節を編み出し、その天才的な音量を以て圓轉自在に語りこなした事とが兩々相侯つて當時の人氣を贏ち得、そうして動かすべからざる根據を作つたのでありまして、その人々の孜々として倦まざる努力と苦心とは筆舌の能く盡すべき所でなく、吾々後進者の以て大に徳としなくてはならない事と存じます。
 かくて義太夫節はその餘勢未だ盡きず、明治大正の今日に至るも尚徳川時代の風俗を代表し保存したと云ふ點に於て、多くの人士の興趣をそゝり珍重がられ流行してゐるのであります。勿論興行と云ふ點に於ては遺憾ながら往古の悌なく退歩したのは時世變遷の上から見て、誠に餘儀ないことでありますが、一方素人淨瑠璃に眼を點じますと今尚多くの常會があつて、デンデンの音絶えず益々隆盛に赴くの觀があるばかりでなく、斯道に耳目を傾ける學者及諸名士の漸くにして多くなつて來たことは、大に吾人の意を強うすると共に、洵に喜ばしき現象であります。(終)
 
 
提供者:ね太郎さん(2004.11.6)
追補:(2006.09.24)