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【偲ぶ奥津城 テキスト】

(2023.03.13)
提供者:ね太郎
 
偲ぶ奥津城
 
  序の言葉
 私等が日頃其名だけを聞て知てゐる斯道の大家名匠の永久に眠る奥津城を親しく探ね究めたいといふ心はこの道の人は多分に持てゐらるゝ事と思はれます。しかし廣汎に渉る地域と全然不明であるといふ難所に打つかつて困惑するのは斯ふした心を持た人の誰しも嘗た事と思ひます。二代三代とその名跡を継承しその伝統を踏んで来たわれ〳〵が其代々の名匠の霊を祀るは必然の事であらねばなりませぬ。初代竹本綱太夫師の墓碑は南地法善寺に在るよし聞き及びたるも遺跡荒廃して長年の間所在判明せず遺憾に思ひ居たるに去る昭和三年先代津太夫師の十七回忌法要の折東壁隅に其遺跡を発見し得たるは寔に奇縁と申すべく早速修理法要致し度き旨法善寺に通じたるも当時同墓地は区画整理有る趣きに現在に及び今回改修を致しました。偶々其整理中に拾数余の無縁碑出で甚しく壊れ居たるも克く調査したる所、計らずも初代豊竹鐘太夫、二代目吉田文三郎、富沢藤次郎諸師等先覚者の墓石でありたるため是また修覆致し此程漸くこれ等十三基の墓碑改修を終りました。幾星霜の間雨に曝され、風に荒され誰の眼にも映らず埋もれてゐたものが斯うして打揃ふて発見し得られたるは全く奇縁と申すほかなく爰に謹んで英霊を祀る次第であります。これに就ては松竹の白井会長並びに竹本津太夫氏、鶴沢清六氏諸氏の御厚情を煩はしたことにあつく戚謝致します。
    昭和十一年十一月二十一日
      南地法善寺於て法要を営む
    二代目豊竹古靱太夫
 
 
コノ石碑ハ此度竹本津太夫、豊竹古靭太夫、鶴沢清六相寄リ改修建立シタルモノナリ
 
 
  俗名 竹本綱太夫墓 安永五丙申年十月十三日死去
 
二代目政太夫ノ門人通称平野屋嘉助又ハ新路治嘉助綱太夫トモ云ヘリ宝暦十一辛巳年正月廿日初日ニテ安部晴明倭言葉此時始メテ出座ナシソレヨリ引続キ相勤メラレ宝暦十四年改元明和ト成リ同六年己丑十二月近江源氏先陣舘九ツ目切佐々木隠レ家ノ段ヲ勤メ大当リ同八年妹脊山婦女庭訓芝六住家ノ段ヲ是又大評判同九年改元安永ト成ル同二年癸巳二月ヨリ堀江市ノ側芝居ニテ摂州合邦ケ辻下ノ巻切是又大当リ暫時此座ニ出勤後道頓堀東ノ芝居へ出勤後持病有リテ引込保養中同五年ノ秋但馬城ノ崎温泉へ入湯ニ赴キ彼地ニテ養生ノ上一先帰阪ノ途中十月十三日死去致サル
綱太夫師妹脊山婦女庭訓芝六住家役場ノ時ノ番付ハ鶴沢又蔵師出勤ノ際ノ番付参照
尚死去年代ヨリ当昭和六年迄百五十六年経過ス
石碑ニ初代並ニ通称平屋嘉助ト彫入シハ昭和六年改碑時入之
 
 
俗名鶴沢又蔵 釈 教円 安永七年戊成年六月十三日死去
 
右 又蔵師ハ初代鶴沢文蔵師ノ門人ニテ大阪住人是初代又蔵也 宝暦ノ末ヨリ出座 明和ノ頃天晴立者ト成リ明和八年正月妹背山婦女庭訓ノ書卸ニハ師文蔵ト共ニ節付ヲセラレ名ヲ残サレシトアル(其ノ当時ノ番付参照)死去年代ヨリ当昭和六年迄百五十四年経過ス
 
 
  二代目竹本綱太夫墓 六代目竹本綱太夫建之 (明治十二年十月)
 
二代目綱太夫師ハ京都住竹本武太夫(通称酢屋ト云フ)師ノ門人ニテ京猪之熊仏光寺上ル所ニ住居ナシ津ノ国屋甚兵衛迚織物業ヲ営ミ若キ頃ヨリ浄瑠璃ヲ好ミ素人ニテ天晴ノ語リ手也後ニ四代目竹本紋太夫ヲ名乗リ安永二癸巳年八月道頓堀西ノ芝居新作島原千畳敷ノ時始メテ阪地出座後知因有リ二代目竹本綱太夫名跡ヲ襲名ス同師相勤メラレシ内箱根霊験躄仇討瀧ノ段ハ古今ノ大当リナリシ由右ノ外数々ノ語リ物好評ニテ文化二年乙丑歳秋八月十六日五十八歳ヲ以テ歿セラル同師ノ碑ハ京都北山真如堂鈴声山正極楽寺ト号ス鐘楼横ニ門有リ是ヲ入テ直チニ左側ニ土壁アリ 猪飼敬所先生墓城之西南高壁下角ニ位シ西南角南面シアル墓ナリ 法名最勝軒奏誉道雅禅定門 碑ニ同師ノ辞世アリ
  辞世 ゐの熊竹本綱太夫 朝顔の身の あ幾をしる ゆうべかな
右ノ如ク立派ナル石碑アリ大阪法善寺内墓地ニアル同師ノ墓ハ六代目綱太夫師ノ建立ナリ京都墓地石碑ノ事ヲ知悉ノ上ニテ又之ヲ建ラレシヤ不明ナリ
二代目綱太夫師死去文化二年ハ今ヲ去ル百二十九年前ナリ (昭和六年)
 
 
右石碑ハ京都真如堂ニ有リ
 
 
二代目竹本綱太夫出勤書卸シ当時ノ箱根霊験躄仇討番付写真参照
 
 
   豊竹岡太夫墓
 
此墓碑ハ六代目竹本綱太夫師ノ建立セシモノデ六代目綱太夫師ハ一時右豊竹岡太夫師ニ門弟ノ縁ヲ結ビシ事アリ其ノ師恩ニ報ル為メニ明治十二年十月是ヲ建立シタル物也
  尚法名並死去年月日ハ不明
嘉永四年同岡太夫師江戸ヨリ帰阪シ座摩社内芝居へ出勤ス(当時番付写真参照)鶴沢清六トアルハ初代也此座摩之芝居ノ時師ハ岡太夫師ヲ弾キ出勤有
 
 
  俗名竹本上総太夫 声誉音私覚睡信士 寛延三年四月十六日歿
 
播磨少椽門人ニシテ大阪住居ナリ元文六年辛酉正月十四日初日伊豆院宣源氏鑑此時始テ出座竹本紋太夫ト名乗リ二段目口ト五段目役付致サレ(同年改元寛保元年ト成リ同三年改元延享ト成ル)此後次第ニ出世アリテ延享四年丁卯二月十三日初日ニテ東ノ芝居へ出勤初代竹本紋太夫ヨリ初代豊竹上穏太夫改名此時役場ハ裾重紅梅服ノ上ノ巻切ナリ寛延二年己巳十一月廿八日ヨリ源平布引瀧二段目切ト三段目中ヲ勤メラレ好評ヲ受ケ此芝居後退座其後病気差発リ死去致サル改名当時東ノ芝居入座ノ為豊竹上総太夫ヲ名乗ル後竹本座復帰又竹本ト改称ス
上総太夫死去一ケ年以前ノ番付参照 死去年代ヨリ当昭和六年迄百八十二年経過ス
 「粟島譜嫁入雛形」ノ二枚番付
 
 
  俗名竹本組太夫 法名真山宗清信士 宝暦九己卯年閏七月十二日死去
 
宝暦三癸酉歳五月愛護雅名歌勝鬨書卸シノ時始メテ出座二世竹本政太夫ノ門人也
通称大阪屋利助ト云フ 人呼ンデ 利助組太夫トテ是初代也 七年間ノ出勤ニテ死去
富沢藤治郎師ト同ジ(日高川入相花王)之番付参照
死去年代ヨリ当昭和六年迄百七十三年経過ス
 
 
  俗名富沢藤治郎 法名 釈 浄栄信士 宝暦十二壬午五月二十一日死去
 
富沢ノ祖哥仙ノ門人也大阪住人享保十七年壬子十二月ヨリ道頓堀伊藤出羽椽芝居ニテ前内裏島郡還此ノ時始メテ出座致サレ修業追々出世宝暦二年壬申十一月西ノ座ニテ伊達錦五十四郡書卸シ是ヲ勤メテ立三絃野沢喜八郎退座ナスニ付同三年癸酉正月五日ヨリ同座ニテ愛護雅名歌勝鬨此時ニ立三絃トナリ夫ヨリ引続出座同十一年辛巳十一月古戦場鐘掛松是ヲ勤メテ退座病気引込居ラレシが段々ニ重リテ遂ニ卒ス
死去年代ヨリ当昭和六年ハ百七十年経過
 出勤当時ノ番付(日高川入相花王)参照
 
 
  俗名なじ伊事鶴沢文治墓 法名 釈 浄音 明和七庚寅十一月十二日卒
      天明二年十三回忌建之
 
寛延二年頃ヨリ宝暦年間ノ立者也 明和七年正月興行京都芝居名代都万太夫座本扇谷和歌太夫座狂言忠孝大磯通此峙立三絃トシテ出勤後病気発死去
死去年代ヨリ当昭和六年迄百六十二年経過ス
 
 
南無三宝正三之墓 安永二年二月十七日死去行年四十四
  法名浄誉達雪トモ亦当誉正三居士トモアル如何成ヤ 通称高砂屋平右衛門ト云フ
 
道頓堀芝居茶屋和泉屋ノ伜幼名久太郎幼ニシテ並木宗輔ノ門人トナリ初メ和泉屋正三トテ作者トナリ歌舞伎狂言作者ノ名人生涯七十四番ノ狂言ニ悉ク妙ヲ現ワス浪花道頓堀宗右衛門町ニ住シ菓子商ヲ営メリト云フ浄瑠璃作モ数多ク師並木宗輔ガ一ノ谷嫩軍記ヲ書キ卸シ中途ニ病死シタルニ付正三其跡ヲツギ宝暦二年十一月迄豊竹座々付作者トナル後ニ歌舞伎ニ替リテ安永二年二月十七目和布苅神事ヲ執筆中ニ南無三宝ト呶鳴ツテ瞑目シタ 作者生活三十年ト云ヘリ
街死去年代ヨリ當昭和六年迄百五十八年経過ス
右正三姿画ハ並木正三狂言攫ト云フ本ニアル画像ニテ天明五年出版正三十三回忌ニ此ノ本ヲ出ストアル
 
 
  初代豊竹鐘太夫墓 法名 理学院誠誉一音響利信士
    安永八年乙末八月二十日歿ス 行年五十歳
右ハ筑前少椽門弟ニシテ大阪上町釣鐘町ニテ硯石屋ナリ浄瑠璃ニ執心ニテ商業ヲ捨テ延享四年丁卯三月四日初日東ノ芝居ニテ万戸将軍唐土日記此時初メテ出座致サレ序中ト道行五段目ヲ勤ム其後追々重キ役ヲ勤メ好評ヲ受ケラレ同師航ノ語ラレシ物ノ内特ニ記ス可キ外題中明和三年丙戌正月十四日ヨリ西ノ座へ出勤ニテ本朝二十四孝三ノ口ト四段目ノ切ヲ勤メ大当リ同年十月十六日ヨリ太平記忠臣講釈ノ道行(シテ)五ツ目掛合七ツ目切喜内住家ノ段ヲ相勤是又好評同六年己丑十二月九日ヨリ近江源氏先陣舘書卸シ第二ノ奥ト八冊目ノ切盛綱首実見ノ段ヲ勤メ是又大当リ同七年庚寅五月二十二日ヨリ大平頭鍪飾此時七冊目ノ切ト九ツ目掛合ヲ勤メラル右浄瑠璃禁止ヲ命ゼラレ六月十六日限リニテ中止スタメニ正本出ズ如何ナル文章ノ物ナルヤ不詳ノ処後年当時ノ番付並ニ人形役割ヲ見テ考察スルニ現在ノ鎌倉三代記院本ト同一ナル様見受ラル故ニ鐘太夫師ノ役場七ヅ目切ハ現今上演ノ絹川村三浦別レノ段ナリ(為参考上演当時番付写真二葉参照)上述ノ如キ浄瑠璃中至難ナル語リ物数々相勤其都度大好評ヲ得ラレシハ師ノ名音ト非凡極リナキ芸術ヲ奨讃スルニ余リアリ其後数々ノ名曲ヲ上演シ明和九年ニ改元アリ安永元年トナル同年江戸へ赴キ同二年同三年六月迄彼地ニ於テ続イテ出勤サレ同七月帰阪アリテ八月市ノ側へ出勤十三日ヨリ花襷会稽褐布染同四年乙末正月同所ニ於テ軍術出口柳二ノ替リ外題モ定マリアレドモ去冬ヨリ病気ニテ当正月ニハ段々重リ遂ニ死去セラル惜ム可シ
尚死去当時年代ヨリ昭和六年迄百五十年経過ス
追而浪速叢書ヲ見ルニ左ノ如キ記述アリ 近江源氏太平頭鍪飾 五月二十二日初日
 六月十六日差留メ被仰付候夫故正本不出後年鎌倉三代記ト云フ古浄瑠璃ノ外題ヲ用ヒ今ニ翫ブ都而此世界ハ差構有之南蛮後藤目貫ヲ義経越越状トスル類ヒ多シ
 
 
   男徳斉墓 寛政九年丁巳閏七月十日 法名 釈宗円
右二代目政太夫師之門弟ニシテ通称堺屋三右衛門ト云フ宝暦九年九月大平記菊水之巻此ノ時切メテ出座初名竹本岬太夫ト名乗ル夫レヨリ修業怠リナク追々出世同十二年七月竹本座ニ於テ恋女房染分手綱(二度目上演)此ノ時改名初代竹本咲太夫トナリ続イテ追々立者トナル同十四年改元明和トナル同三年本朝廿四孝ノ書卸シノ時ニ化物屋敷之段ヲ勤メテ評判好ク同八年妹背山書卸シノ時序切ト受領ノ段又々好評後改元安永年間又改元アツテ天明トナル同元年九月堀江西ノ芝居ニテ竹本男徳斎ト改名ス同三年四月二十七日ヨリ竹本座西ノ芝居ニテ伊賀越道中双六書卸シノ時沼津之段口半段ト伏見ノ里ノ段ヲ勤メル同年七月曾根崎ノ芝居ヲ勤メ後暫ク休座其ノ内病気遂ニ黄泉ニ赴カレタリ
 尚死去年代ヨリ当昭和六年迄百四十九年経過ス 出勤当時番付写真参照
 
 
  前冠子嗣吉田文三郎 法名 栄元院名誉顕道信士
     寛政二年未干歳庚申戌十二月四日罹病而歿 寿 五十有九
 
右吉田文三郎ハ二代目也初代文三郎師之息ニシテ幼名八之助ト云フ寛延元年八月興行ニ仮名手本忠臣蔵ヲ書卸シノ時父ニ従ヒ初メテ吉田文吾ト名乗リ出座力弥ノ役ヲ勤ム栴檀ハ荸ヨリ芳シト初舞台ヨリ名人ノ聞エアリ続イテ出勤後宝暦九年九月太平記菊水之巻上演ノ時三郎兵衛ト改名ス同十年正月父文三郎死去ノ後座頭トナル同十一年十月興行ニ二代目吉田文三郎名跡ヲ相続シ誠ニ繰リノ中興開山ト云フ後江戸へ下ル同十三年帰阪西ノ座へ出勤ス後改元明和トナル又江戸へ出勤暫ク滞在同七年父ノ十三回忌ニ帰阪西ノ座へ再出勤同九年改元安永トナル同十年改元天明トナル同六年十月興行彦山権現之時病気欠勤其ノ後同九年改元寛政トナル同二年十二月養生ノ効ナク遂ニ死去
 追而浪速叢書ヲ見ルニ(手袋ト云フ物ハ冠子ヨリ初ム 木偶ノ胴串ニ小サキ釘ヲ打チテコレニ図ノ如キ絹裂ノ袋ニ葛粉ヲ包ミ置キ手ノ汗ヲ去ル故首ヲ遣フニ自由ナリ)トアリ 尚死去当時年代ヨリ昭和六年迄百四十九年経過二代目吉田文三郎師死去八年前道頓堀東ノ芝居へ出勤所作事(娘道成寺)出遣之番付写真参照
  吉田家元祖ノ初代吉田文三郎師ノ墓ヲ探シテヰルウチニ初代ノハナクテココニ掲ゲタ息子ノ二代目吉田文三郎師ノ墓ガ現ハレマシタ
  初代吉田文三郎師ハ宝暦十年庚辰正月十九日死去
     法名 至誠院心誉回深宗雪居士
 
 
  俗名豊竹礒太夫 法名 一宅院浄立信士 寛政四子歳三月二十日死去
 
二代目此太夫ノ門弟ニテ通称庄吉ト呼ブ安永ノ始メ頃ヨリ出テ同六年正月狂言端手姿鎌倉文談此ノ時ヨリ役場ヲ預り追々出世ス後チ改元アツテ天明トナル同七年十月道頓堀竹田ノ芝居ニテ太功艶書合此時竹本礒太夫ニテ勤メル(初名不明)後豊竹姓ヲ名乗ル
後寛政ト改元其ノ後阿波ノ座へ出勤同三年冬帰阪シ其後芝居出勤ナク寛政四年子三月二十日卒ス
  尚死去年代ヨリ当昭和六年迄百四十年ヲ経過ス