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【 思い出走り書き 義太夫放送三十年 】

(2025.05.03)
提供者:ね太郎
 
思い出走り書き
--義太夫放送三十年--
 義太夫の放送が電波に乗った最初が大正十四年六月一日三越仮スタジオの開局第一日の素人義太夫であつた。出し物は「先代萩」御殿、出演は当時の素義東会の大立者で艶物を得意とした北新地平鹿の主人で今は亡き伊藤柳平氏、三味線は豊沢猿糸(今の広助)、思えばその頃の素義界は今日以上に天狗連が割拠して中々盛んだつたらしい。地元に文楽座がありながら放送が先づ素人義太夫から始められたのも面白い。その頃BKから続々新企画が出初めたが中でも一晩をブチ抜いて「歌舞伎の夕」とか「喜劇の夕」とかの長時間放送がヒットして当時の聴取者を喜ばせた。その一連の 企画として初めて「浄瑠璃の夕」が大正十四年八月十一日占靱大夫、錣大夫等の出演で放送された。
 文楽座からの現場中継は当初から計画されていたが、放送されるとその日の小屋の入りが悪くなるという今から思えば実に笑止千万な当時の興行会社の消極的な政策によつて中々実現されなかつたが、昭和三年十一月に全国中継放送網が完成されたのを機会に文楽座からの現場中継で華やかな雰囲気をそのまゝ電波に乗り始めた。即ち土佐・吉兵衛の「中将姫」(六・二・二五[15])津・友次郎の「寺子屋」(六・五・八)古靱・清六の「勘平住家」(七・五・一)等が名人の至芸を伝える代表的な中継放送であつた。
 当時放送キライとして絶対マイクに立たなかつたのが津大夫と豊竹呂昇。津大夫は例の気質から「私の芸はキカイ(という表現が面白い)を通して聴いて貰う程安ツぽいものじやない」と放送を断り続けてきたが遂に口説き落されて放送に出た。当時としては超高額の千円の出演謝礼を貰つた津大夫が驚歎したのも今は昔の語り草であろう。そして美人義太夫呂昇は亡くなる迄遂に放送には出なかつたと思う。
 昭和十五年四月には邦楽名曲選が始められ義太夫では古靱・重造の「熊谷陣屋」津・綱造による「野崎村」等が放送されて感銘を残した。そして土佐大夫の「桜時雨」(一五・九・三[12])駒大夫の「先代萩」(一六・二・一六)は近世二名人の最後の放送となつた。 戦後から今日迄は紙面の都合で省略するが文楽が二派に別れた現在も義太夫放送は舞台中継(四ツ橋文楽座、三越劇場)邦楽演奏会(水曜二時五分)邦楽鑑賞会(日曜午後九時)それに山城小掾独演会と両派それ〴〵多彩な放送譜を繰りひろげている。
 三越--上本町九丁目--馬場町とBKの三十年の変遷を追想する時、そして現在テレビが実現して人形浄瑠璃の至芸が我が家の茶の間で鑑賞出来る今日と思い合せて誠に陣屋の熊谷ではないが夢だ、夢だ、の感慨を新にするものである。
 尚、参考までに昭和六年六月の読売新聞記載の「義太夫放送回数見立番付」によると義太夫名曲の中「酒屋」二四回、「先代萩」二二回「太十」「寺小屋」「野崎村」がこれに続き延一六八回の放送が記録され、これにより仮放送開始後六年間の義太夫放送の実態が伺えて面白い。
『放送開始BK開局三十周年記念因会三和会文楽人形浄瑠璃』パンフレット(1955.5.24)