司会:高木浩志
玉男:大判事でしんどいのは川を隔てて立っている二十分の間です。手数がつかえないから、えらい遣いにくい。
奥は精神的に楽、語りに助けられるところがあります。発散できる役は楽屋に帰ってそのまま風呂に飛び込みますが、
大判事などは、ずしんときて、一服してからやないと風呂に入られしませんねん。
團六:「山の段」は相手の音を聞いてから弾いたんでは遅いんです。距離が離れてますから。
住大夫:錦糸君にも相手に釣り込まれたらあかん、自分のペースで弾いたらええねんと言ってます。
玉男は久我之助が長かった。「久我之助は蝦夷子館では強いところを見せるが、強いもんやない」
住大夫:「山」で難しいのは「いおり」まで(大判事が家に入るまでですか?)。あとは何とかごまかしがききます。
「役になりきるのか客観的になるのか」(入場時にアンケートで質問を募っていたようです。)
住大夫:なりきったら他の人物が語れまへん。なりきる一歩手前で止めるんです。
玉男:なりきってしもたら自分も人形と同じ動きをせなあかん(笑)。人形遣いが人形に遣われるようになってしもたらあかんのです。
最初は15年を回顧して近年の故人を偲ぶ話。
玉男は自ら玉昇の名を挙げて惜しんだ。
團六:(先代)錦糸さんとは歳は開いてますが間に誰もいないんです。
文楽劇場できたときに、私に、一緒の楽屋に入ろというてくれはって、
「前は大部屋やったのに、えらいええ部屋にはいらしてもろて」と喜んではりました。
「簔助さんは?」(場内そやそやと大いにざわめく)
高木:燕三さん(一時は血圧が六百を越えていた)の復帰は難しいですが、
簔助さんは握力も回復し、遅くとも秋には復帰できるでしょう(大拍手)。
住大夫:山ちゅうのはおおやま、難しいところです、そして久我之助が一番難しい。
今回私、大判事やるゆうたんですけど国立が定高せいと、ゴニョゴニョ・・・
昔、(先代)綱大夫の代役で大判事をしたときに喜左衛門師匠から「松島の大判事、よろしいなあ」と誉められた
(小芝居だと皮肉られたの意)。
<補足>参照資料は「演劇界」昭和四十二年六号です。
住大夫(文字大夫)が綱大夫の代役で大判事を勤めたのは一九六七年四月十八日から三十日までの朝日座公演。
なお四月十八日に豊竹若大夫が、二十二日には山城少掾が亡くなっています。
山の段の配役は背山が綱大夫・咲大夫、徳太郎・弥七。妹山が越路大夫・小松大夫、燕三・喜左衛門。
北岸佑吉「関西劇場街採点」によると「綱大夫が入院中であり、喜左衛門も大事をとって休み」、
「三味線は燕三が前後を通して喜左衛門の分まで弾く」と書いてあります。
見台からはみ出して語ったらあかんとよく言われました。
おかげで後に定高の越路兄さんから「君、浄瑠璃変わったで」といわれました。
浄瑠璃はしんどいとこで高い音が出てきまんねん。熊谷の義経とか。一番エライのは盛綱です。
今は美声家って、いまへんねん。美声家というのはうっとりさせて、浄瑠璃の下手なん消してしまう。
私は自分の声嫌いでんねん。でもこんな悪い声でも情を伝えんならん。
下手は下手なりに基本に忠実に、素直にいこと思てます。
團六:鱶七上使は前半鱶七がごろつきにならんように注意して弾きます。官女のとこはおもしろくきかさなあかん。
玉男:鱶七は遣ったことはあるが、あまりすきやない。
「床本は見てはりますか」
住大夫:見てるよな、見んよな(笑)。書いたもんでないと、コピー、印刷では情が出まへん。
「大夫・三味線の相性ってありますか」
住大夫:(きっぱりと)あります。天覧の千本の道行に最高のメンバーを揃えたんですが、てんでばらばらになりました。
三味線について、
團六:普通は身で、いい音さすときだけ爪を使います。
弾きまくるので糸を切ってしまいやすいのですが、その糸を切らんようにするのが大事なのです。(花渡しの段)
以上、不正確不充分な点、お許し下さい(とにかく面白かったのですが、全然再現できていません)。
はっきり言われませんでしたが燕三師匠と同じ文脈で語られたので、簔助さんの病気が、脳の血管のものだとわかった。
住大夫のゴニョゴニョのところが詳しく聞きたいなあ。
あと、断片
住大夫:昨日巡業から帰ってきたところですねん。もう三和会のときから旅ばっかりで、いまでも旅が好きでんねん。
(妹背山)稽古しててもかわいそう、と熱くなります。でも自分が泣いてしもたら語れまへん。
自分は泣かずにお客さんに泣いてもらわなあきません。
玉男:岡崎の段、煙草切るところ、じっと中腰でしんどいところです。
團六:三味線弾きはお風呂で手をお湯につけたらあかんといいますが、私はつけてます。
大判事、
玉男「十九大夫君は初めてやろ」住大夫に「いいえ前に一度」といわれて、玉男、ええっ、そやったかいなという反応。
文楽素浄瑠璃勉強会
四月二十七日(火)六時半から 大阪:TBホール
演目:津駒大夫・團七の合邦住家の段、呂勢大夫・宗助(ツレ團吾)の堀川猿廻しの段
大好きな合邦、津大夫・團七で合邦を弾いていた團七の演奏にひかれ、津駒大夫への期待もあって、
国立文楽劇場公演中のロビーで券を買いました。仕事帰りに大急ぎで開始直前に滑り込みましたが、
最前列にたまたま空席があったので、いい場所で聴くことができました。
本公演では短い時間しか聴けない若手中堅の大曲への挑戦でした。
津駒大夫、よかったです。辻は若くて美しく、人物の語り分けもよかったと思います。
一時間以上の難曲を力一杯見事に語りきったのは團七の芸の力が大きいのでしょうか。
團七の演奏を至近距離で一段通して聴けたのは幸福でした。
津駒大夫、次の妹背山には雛鳥を期待したい。
呂勢大夫・宗助の堀川猿廻しも、文楽の将来に大きな希望を抱かせるものでした。
今後、こういう会には積極的に足を運びたいと思います。
演奏中の掛け声も拍手もない静かな聴衆でしたが、終了後の大きな拍手の中に感動と満足が現われていたと思います。
本公演では、主に配役の都合で一段を前後に分けることが多いと思いますが、
同じ分けるのなら一日おきに丸一段語るほうがいいのではと思いました。
第一部 「文楽について」 豊竹英大夫(メモをもとにほんの一部を再現したもの)
内子座文楽は今年で五回目ですが、私は二回目です。昔の雰囲気のある素晴らしい小屋ですね。
絵本太功記ができたのは一八〇〇年頃ですから、二百年前と同じ言葉で、同じような小屋で見ていただくことができるのは
有意義なことと思います。シェイクスピアの戯曲の英語が今日では通じないのに比べれば、
文楽は、わかりにくいところはありますが、比較的わかりやすいといえるでしょう。
どうぞ江戸時代へのタイムスリップをお楽しみください。
文楽は太夫・三味線・人形の三つの大きな仕事からできています。私は太夫でして、ナレーターをしたり台詞を語ったりしますが、
人物を語り分けることが大切です。写実だけではいけません。たとえ小さな女の子でも大きな声が必要です。
(武士の大笑いの実演)これも庶民の想像するエネルギーがこういう表現を生み出したといえるでしょう。
最初は教えられた通り語るだけです。義太夫らしい声をつくるのに二十年はかかります。
五、六十になって、やっとそれからだんだんと個性を発揮していくのです。
語るときには腹帯というものをお腹に巻いております。私の師匠越路大夫は七十四で引退しましたが、
腹帯を巻きますときには弟子がまわりでお手伝いをします。シーンとしているところで、師匠が腹帯をぐむーっとうなって巻かれると、
腿の筋肉の盛り上がりは七十過ぎとは思えないものでした。腹帯を巻くと上半身と下半身の血の行き来がなくなるような感じです。
その上に肩衣などをつけて舞台に上がりますととても声を出せるような状態ではありません。
大夫は何十年も声を鍛えていき、六、七十になってやっと腹から声が出るようになるのです。年功序列ということではありません。
芸ができてゆくのにそれだけの時間がかかるのです。国宝クラスの方は腹力(ふくりき)が違います。
一時間以上の切り場を腹力で語るのです。若い者では五分くらいしかもちません。
海外公演でも如何に義太夫節がすごいものか、日本は経済発展のすごい国ということは知っていたが、
古いものにもこんなにすごいものがあるのかと認識を新たにしてもらえているようです。
第二部「文楽人形について」 吉田文吾(一言だけですけど)
今日はそれほど長くありませんが、四月五月と妹背山婦女庭訓を出したときには昼が五時間、夜が五時間、
お客さんよう辛抱して見てはるなと思いました。東京では大入り袋が出ました。
大阪は見取り狂言の方がたくさん見られて儲かったという感じかもしれません。
我々人形遣いは役が決まったら、それがどういう人間か、その役の性根を勉強します。
そしてその性根をコンピューターみたいに頭(かしら)へ入れてやるんです(インプットするということか)。
五條橋 牛若丸 千歳大夫 弁慶 呂勢大夫
ツレ 相子大夫 喜一朗 団吾 団市
地方の小さな町の小屋ということで、にぎやかな観客を想像したが、意外に静かで、拍手は最後だけ。
絵本太功記
夕顔棚の段の津駒大夫の意外に古風な味わいがこの古い小屋にぴったりと合っている。三味線八介。
尼が崎の段 前 英大夫が十次郎初菊の件をつややかに語った。
冒頭の「文楽について」(解説)でしゃべっているので、観客が「ああ、さっきの人」と親しみを持って聴いてくれるのが得である。
三味線清友。
後 伊達大夫 團六。この劇場、この演目、この人形・大夫・三味線、実に贅沢だ。
伊達大夫はいつも感じるのだが、出だしの小音が気になる。
光秀の出は引き立たない。しかし進むにつれ喉も開いてくるような感じ、浄瑠璃の味わいもだんだんと深まっていく。
途中乱れるところもあったようだが、他の切場語りには出せないような義太夫の味わいを堪能した。
「尼が崎」、これまでどちらかというと感情移入しにくい、あまり好きな狂言ではなかったが、
今回はビンビン響いてきたし、武士の哀れに涙しそうになった。
母さつき 勘寿 妻操 文雀 嫁初菊 和生 旅僧実は真柴久吉 文吾 武智光秀 玉男 武智十次郎 玉女。
玉男については以前に書いたとおり。間近に観られて幸福だった。
こんな経験は二度とできないだろう。
第二部 二時三十分開演
230−250文楽人形について 吉田文吾
250−405桂川連理柵 帯屋の段 竹本住大夫 前 宗助 後 錦糸
女房お絹 文雀 弟儀兵衛 玉男 兄長右衛門 文吾 丁稚長吉 清之助 娘おはん 簔太郎
425−445道行朧の桂川 おはん 津駒大夫
長右衛門 千歳大夫 ツレ 文字栄大夫 團七 宗助 団吾 喜一朗
おはん 簔太郎 長右衛門 文吾
玉男の弟儀兵衛は第一部の武智光秀とは一転して、普段と違う役を楽しそうに遣っていた。
玉男が玉翁を襲名するというのはもちろん冗談なのだろうが、洒落たいい話だと思う。
「たまおーさん」でほとんど音が変わらないのが面白い。
武智光秀を遣った第一部は極め付け玉男の世界、第二部の帯屋の儀兵衛は芸に遊ぶ玉翁の世界だった。
当日券(三千円)を買って入場したとたんに見たこの貼紙はショックだった。
「お知らせ 豊竹呂大夫 急病につき休演致します 代役 帯屋の段 後 豊竹呂勢大夫」
そんな・・・呂勢大夫は今年の春、素浄瑠璃の会で聴いた堀川猿回しは確かによかったが、
帯屋後半となると若さで押してどうかなるものでなし、難しさが違うだろう・・・
・・・大相撲本場所の結びの一番に急遽ひっぱりだされた中学横綱を連想した。
しかし、その失望を裏切ってくれた呂勢大夫ありがとう。
繁斎の意見、お絹の口説き、長右衛門の言い訳・詫びを次々と気持ち良く越えていく、
とても代役とは思えない語りだった。
劇場の規模は国立文楽劇場と似た感じ、場内満員で私の席は最後列だったが、力強い声が届いてくる。
単に声が大きいというだけではないだろう。
長右衛門の声が若すぎたかもしれないが、この代役、見事な合格!といえるように思う。
まだまだ若いが、確かに将来の切場語り候補だ。
例によって休演のお知らせは小さな字の貼紙一枚だけだし、
口上も「あいつとめます大夫、豊竹呂大夫休演のため、豊竹呂勢大夫」と言ったのかと思うが、
「豊竹呂大夫」のところで大きな拍手が起きたので、呂勢大夫の名前は聞こえなかった。
お客さん、ちゃんとわかってくれはったやろか。
呂大夫さん、早くよくなって下さい。
帯屋後半の燕二郎は切り場を弾く風格十分、
最後の書き置きあたりの急激な展開を弾く激しさは、越路大夫のときの清治の演奏を思い出させた。
岩波文庫で「桂川連理柵」を読んだ。といっても解説や語釈がなければよくわからないが・・・
全体はこういう構成になっている。
上の巻 道行恋の乗かけ
●石部宿屋の段
信濃屋の段
下の巻●六角堂の段
●帯屋の段
文楽劇場で通すときは、●に増補の道行を付けるのだが、
「信濃屋の段」も話全体のなかでは大切な一部分だから、
国立文楽劇場公演のパンフでは、全体の構成と「信濃屋の段」の内容について少し触れてほしかった。
おはんが「長右衛門様、おじさん」と呼ぶが、原作では「長右衛門様、長右衛門様」だ。
?誰や、「おじさん」に変えたのは。おもろいやんか。尼崎のお客さんに受けてたで。
?「長右衛門」を住大夫は「ちょうえみ」と発音するが、呂勢大夫「ちょうえもん」との違いは?
赤い制服の女性係員が休憩時間にパンフレット(五百円)を持って場内をまわる。
文楽に馴染みのない観客にも、より深く理解をしてほしいという姿勢の現われだとしたら面白い。
開演前には簔太郎が幕前で人形と粗筋の説明をする。
男の頭と女の人形(お園?)を使ったが、時間をたっぷり取っていたので、
この日の演目にない要素(例えば武智光秀を出して足遣いの足拍子などを見せる)を入れてみるのはどうだろうか。
近松門左衛門の出身地である尼崎市は、
現代劇を市民に無料で公開するなど演劇活動に力を入れ(参照:尼崎市のホームページ)、いい劇場もある。
そこで思うのだが、内子町もあれだけ頑張っているのだから、
ぜひ将来的には独自の演目・配役での「尼崎文楽」公演の実現を期待したい。
(1) 昭和56(1981)年6月2日(火) 曲輪文章・吉田屋の段…豊竹呂大夫・鶴澤重造・ツレ
鶴澤浅造
(2) 昭和56(1981)年9月22日(火) 奥州安達原・袖萩祭文の段…豊竹咲大夫・鶴澤重造
(3) 昭和57(1982)年9月22日(水) 絵本太功記・二条城の段…竹本三輪大夫・鶴澤浅造
/千本通光秀館の段…豊竹呂大夫・鶴澤清治(録音)
/妙心寺の段…豊竹呂大夫・鶴澤清治
(4) 昭和58(1983)年9月20日(火) 摂州渡辺供養・衣川庵室の段…豊竹咲大夫・竹澤団六(現・鶴澤寛治)・ツレ
竹澤団治(現・宗助)
(5) 昭和59(1984)年10月22日(月) 丹州爺打栗・公時隠れ家の段…豊竹呂大夫・野澤錦弥(現・錦糸)
(6) 昭和61(1986)年11月20日(木) 桜鍔恨鮫鞘・鰻谷の段…豊竹咲大夫・竹澤団六(現・鶴澤寛治)
(7) 昭和62(1987)年10月1日(木) 軍法富士見西行・江口の里の段…豊竹呂大夫・野澤錦弥(現・錦糸)
(8) 平成4(1992)年10月6日(火) 奥州秀衡有はつの婿・秀衡館の段…豊竹呂大夫・野澤錦弥(現・錦糸)
(9) 平成15(2003)年5月26日(月) 八重霞浪花浜荻・新屋敷の段…豊竹呂勢大夫・鶴澤清介
先週末、大阪でG8財務大臣会合があり、地元主催の歓迎レセプションで、文楽が上演されました。
「二人三番叟」で、桐竹勘十郎、吉田玉女、野澤錦糸、鶴澤清丈、竹本千歳太夫、豊竹芳穂太夫などの皆様がご出演でした。
会場がホテルだったため、劇場と比べると、音が響き過ぎて非常に聞き取りにくく、ご出演の皆様も、さぞやりにくかったかと思います。
上演の後、各国大臣は壇上で鏡割りをされた際、人形も参加したのですが、
勘十郎氏の人形が両脇の大臣の顔を、ちょっとのぞきこむようにして、酒樽を取り囲む輪に入りました。
「ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ」と言わんばかりに・・・
これには各国大臣も大ウケで、あれこれと人形に話しかけておられました。
ほんのちょっとしたことなのですが、素晴らしいなあと感心いたしました。
きっと大臣たちも、印象に残ったことでしょう。
二人三番叟では、人形が田植えのような仕草をしていましたが、
折しも、世界では穀物価格の高騰で、暴動が起きたり、小麦の輸出制限をしている国もあります。
せっかく主要国の大臣が集まった会合にもかかわらず、
現状を打開するような「実り」が得られなかったのが、残念でした。